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燕と夜叉  作者: 俊衛門
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 中華の歴史は終りを告げた。

 国家が一つの連合に呑み込まれたとき、囁かれた言葉だ。国民国家が争いの種になるという理由で、あるいは仮性体が現れて人類がまとまる必要があったからなのだろうか。十年前から、一つの人類は一つの国を頂くこととなった。その時に、現状を憂いた一人の社会学者が吐露したのだと言う。そんなことがなくてもとっくに中華なんて概念は消失していたのに、懐古主義というのはどこにでもいる――母さんはそんなことを言って、笑っていた。実際、今では中華がどうとか言う人は殆どいない。ただ、平穏だった時代を、懐かしむ人はいる。空から現れた連中に脅え暮らすことに慣れていない、ゼロ年代の年寄り達や、国家併合以前の先進国に住んでいた連中がそれだ。過去を美化して、今を嘆くのは、いつの時代でも名残としている。

 馬鹿馬鹿しいと笑うのは簡単だけど、それでも窓の外の景色が台北に似ているって思う辺り、あたしもそういった古い人間と同じなのかもしれない。実際、良く似ていた。丘の上にあったあたしの生家は、下界には町を、背後には山を。遠く台湾山脈を臨み、天気がよければ玉山を臨む。田舎だけど少し走れば町にたどり着く、けれどあまり文明の匂いがしない。そんなところだった。連合があてがったこの立地条件も、四川の気候も、何もかもが似ている。夜叉たちの通った場所なんて、大抵は同じ景色に塗りつぶされるというけれど、あたしには少なくとも、消えて無くなる前の故郷だった。

 だけど、それだけだ。ここにいるのは、別に思い出に浸るためじゃない。あの男が残した研究成果――燕玲を育てたら、あたしはここから出て行くことになる。アミヤからはそう悪く無い条件を与えられてはいた。報酬は、少なくとももう一生慰安所に戻らなくて済む額だし、終ったら終ったでここに住む権利も与えられている。けど、ここの住人からすればあたしはどこまでいっても余所者だ。この土地が、いくら故郷と似ているといっても馴染めるとは思えなかった。連合によって国家が消失したといっても――人々の意識がそう簡単に変わるわけじゃない。広東語訛りは、制度の改正で消せるはずもなく、あたしが異邦の人間だってことは隠しようがない。

 燕玲のことは、思っていたよりも大変じゃなかった。子供を持ったことは無かったけど、小さい頃は弟の世話をしていたから、その延長みたいなものだった。そもそも、燕玲自身がそんなに手の掛かるほうでもなかった。一日に一度、あのナノマシンとやらを打ち込み、あとは食事と入浴と、そんな風にしていれば良い。燕玲は、変にぐずったり、夜に泣き出したりといったことは無かった。慰安所の、子連れで働いている同僚から聞かされた苦労話など殆ど無く、あれはあれで脚色された話じゃないかって思った。レイプされて出来た子、というのを除けば。

 そうは言っても、やはり子育てというものは楽じゃない。早朝に起きて食事の世話やらなにやらを終えたあと、膨大な量の観察レポートを書き、また燕玲の世話をする。終わるのは夜遅くになっている。けっこう、疲れるものだ。

 近所に住む李夫妻は、よくあたしの家にきた。子育てが初めてだというあたしのことを、悪い男にいだまされて子供を生んだシングルマザー、という風に理解しているらしい。ちょくちょく顔を出して、相談に乗ってくれた。品のいい感じの御夫妻で、よく収穫物なども持って来てくれた。

 この夫妻も、実はアミヤの差し金だってことは分かっていた。子育て――否、研究データをあたしのようなあばずれに、どうにかされるのが恐怖だったのかもしれない。だから、それなりの報酬とともにあたしの家の近くに住まわせて、燕玲の様子を見させているのだと。ただ、それでも別に良かった。何にせよ、それだけでも負担が少しばかり軽くなるのだから。

 夫人は、もう五十歳にはなるというのにかなり若く見えた。南京に住んでいたときは、第一市民の籍を持っていたらしい。品の良さそうな雰囲気は、そういうことなのだろう。生まれだけじゃ、格は作られない。人は環境にこそ左右されるし、どこで生まれようが人生の大半をゴミ溜めですごせば、ゴミ溜めに染まる。

「子供はね、自分の思い通りにはならないのよ」

 夫人はそんなことを言いながら、あたしがどうしても間違えてしまうミルクの温度を調節して、人肌に温めたそれを燕玲に飲ませて言った。小さな口が懸命にミルクを吸い込む。あたしはどうも按配が分からずに温度を間違えてしまうから、燕玲は嫌がってすぐに吐き出してしまうのだ。

「自分が望んだ通りに出来ないから、時に嫌になってしまうのね。嫌になって、投げ出してしまうことがある。けど、それは全然おかしいことじゃない。普通のことなの」

 後で聞いた話だけど――李夫妻には子供がいない。空から来た、夜叉たちが消してしまった。そういう、ことだった。生きていれば、あたしと同じ位の歳だっただろうとも。

「だから、何かあったらすぐに相談してね」

 連合からこの話――あたしの相談役になるということも、別に報酬が目当てでは無かったのかもしれない。人は、懐古を捨てきれない。母さんがいつも、あの男――潘金劉の話をするときには、いつもそんな眼をしていた。懐かしくて、甘美な思い出に浸る時の。李夫人もまた、同じ目をしていたのだ。燕玲を抱いて、風呂に入れて、着替えをさせて。手慣れた動作と、懐かしむ目。きっとあたしはその時、同じ目をしていたんだ。夫人の姿が、母さんと同じように見えたから。けど、そんな目をいつまでも見ているのは、それは潘金劉を懐かしむ母さんの姿を見ることと同義だった。あの男の話をする母さんは、嫌いだった。自分を捨てた男の話をする女は、哀れで、惨めだ。

 だから、李夫妻のことも、それほど好きにはなれなかった。


 一ヵ月経った後、アミヤが家に来た。

「様子を見に来た」

 そう告げると、アミヤは勝手に家に上がりこむ。この家も、燕玲も、元々は連合が用意したものだ――だから、アミヤはまるで自分の家であるように振舞う。文句はあるか? とでも言いたげな態度だ。実際、その通りなのだから文句をつけられる立場にはない。ないけど、少しばかり無神経じゃないかって思う。

「それで、その後はどうなの」

 あたしはお茶を出しながら訊いた。

「その後とは?」

 と上着を無造作に椅子にかけてアミヤは座りこむ。

「この間、ラジオで聞いた。今度はインドに、あいつらが現れたって」

「ああ、それか……」

 分かっているんだかそうじゃないんだか、アミヤはあたしの出したお茶に手を伸ばした。一口含んで、顔をしかめる。

「何だ、これは」

「バター茶。隣の李夫妻から貰った、チベット人の飲み物らしいよ。ここいら寒冷地だから、それ飲んで暖を取るんだって」

「まさか、燕玲に飲ませていないだろうな。変なものを摂取させるなよ」

「自分が飲めないからって、変なものとか。あんた、偏食なんだね」

「馬鹿を言うな」

 飲む気が失せたらしい。アミヤは湯呑みを卓の端まで押しのけ、あたしに片付けるよう促す。確かに、味は慣れるまで時間がかかるだろうけど、アミヤはそういう努力が嫌いなタイプなのだろうか。

「好き嫌い激しいと、後々苦労するよ。食べ物も女も」

 するとアミヤは、酷く侮辱を受けたと言う顔をする。軽口や、からかいの類なんてあたしらの間では普通なのだが、アミヤはそういうのに慣れていないらしい。

「怒った? あんたって、冗談とか全然通じないね」

「悪いかよ」

 そう言ってアミヤは、ムキになった自分自身を恥じるように目を伏せ、咳払いをし、

「インドのグルカ兵は」

 と、話題を逸らす。

「歴戦の猛者だ。そう簡単にやられることはないだろう。イスラムの傭兵達も合流する」

「そんなことを言って、結局やられてんじゃない。それじゃあ、意味ないでしょ」

「お前が気にするようなことじゃない」

 一瞬だけ、剥がれかけた鉄の仮面は、機械のような正確さを以って元に戻った。完璧なほどに平静さを装って、アミヤは言う。

「レポートだ。ひと月分」

「あんたって、それしかいう事ないのかね」

 あたしは書き溜めたレポートに綴った文字に目を落とし、間違いがないことを確認した。レイアウトが一致していないと、また文句を言われるのだ。このとことん役人気質が浸み込んだクソ真面目な日系人に。

 レポートは、今までの燕玲の成長過程、身長と体重の推移、何を食べたか何を言ったか、結構細かく書いている。レポートを一目見たアミヤが、ほうっと感嘆したような声を洩らした。

「英文タイプを打てるのか、お前」

 誰も小汚い慰安所に身を寄せていた、身一つの商売女が英文を書けるなんて思わないだろう。アミヤの驚き方も、そういう仕草だった。珍しい、意外だ、もしくはあり得ない。前提として、商売女に学はないという事実があってこそ初めて成り立つ、驚愕の面持ちだった。

「一般教養としてね。別に珍しくもないでしょ? 軍人は殆ど皆、英語使うんだし」

「タッチタイピングはどこで?」

「母さんに教わったよ」

 大学ではあの男――潘金劉と同じ研究室にいたとあって、母さんもかなり科学の知識には明るかった。英文の様式も、タイピング、端末の操り方も全部母さんが教えてくれたものだった。全部教えてもらう、ことは叶わなかったけど。

「だがそれでも」

 レポートをめくりながら、アミヤは溜息を吐いた。

「数字はそれほど強くはないようだな」

「何が?」

「成長過程の、身長と体重の推移が急すぎる。こんな極端な推移がありえるはずもない」

「あー、まあ普通はね」

 ベッドで眠る燕玲の方を見た。自分のことを話しているとは、露ほども思っていないだろう。何にも知らない顔で、寝入っている。子供は寝るのが仕事だと言うけど、燕玲は文字通り死んだように眠る。

「その数字、嘘は無いよ。身長も体重も、急激に増えた。普通はあり得ないんだろうけど。でも、実際その通りなんだよ」

 アミヤはいぶかしむように、レポートと、あたしの顔を交互に見比べた。

 実際、燕玲の身長も、体重も、加速度的に増加していた。ひと月で歯も全部生え揃い、まだ自力で立つことはままならないが、支えなしで座りこみ、床を這うぐらいなら出来るようになっていた。普通ならば八ヶ月ぐらい経たないと出来ないことらしい。

「目に見えて成長が見える、ってのは親だったら嬉しいのかもしれないけどね」

「確かに、この推移は……」

 レポートから目を離してアミヤは立ち上がった。燕玲のベッドを覗きこみ、しばらく思案した後、独り言のように呟いた。

「一歳児にも見えるな……」

 アミヤはそう言って、背広の内ポケットから金属メスを取り出した。外科手術が過去のものになって、アンティークか何かの意味でしか用いられない、小さな刃物。

「誤解するなよ。細胞を調べるだけだ」

 刃先を、燕玲の腕に当てた。刃を立てぬよう、膚と水平に滑らせ、少しの傷もつけないよう細心の注意を払う。表面の皮膚を、削り取っているような動作だった。

「そんなことして大丈夫なのかよ」

 と問うのに、

「皮膚は毎日再生される」

 こそぎ取った膚の欠片をプラスチックの管に入れ、赤い色の袋に入れた。

「なあ、何なんだ? 何か分かるなら」

「今の所は、なんとも言えないな。ただ一つ……」

 アミヤはそこまで言って、口を閉ざした。思い当たる節があるのだろうか。

「何だよ」

「いや、気のせいと言うこともあるし」

この男にしては珍しく、言いよどんでいる。その先を口にしていいのかどうか、迷っていた。どちらかというと、口に出すことを恐れているような。そんな雰囲気だ。

「なあ、何なんだよ」

 苛立っていたので、かなり喧嘩腰な物言いになってしまった。別にアミヤに気を使うつもりはないが、燕玲の前ではさすがにまずかったかもしれない。言ってしまってから、少し後悔した。

「詳しいことは調べてみなければならない」

 アミヤは深くいう事なく、上着を羽織った。あまり乱暴にされると埃が舞う。細かい埃でもアレルギーがある子には命取りになる――って李夫人は言っていたけど、アミヤはそういう所の気遣いは出来ないらしい。自分と自分の仕事についてはやたらと細かいのに――スーツだって皺一つない完璧な仕立てであるのに、それ以外の所は無頓着らしい。こういう人間に限って、部屋の中が散らかっていたりするのだ。

「まあいいけどさ。この子について、何か分かったら早く教えてよ」

 アミヤは何事か言いかけたけど、結局呑み込んだ。自分のいう事がどれほどの影響を与えるか分かっている人間は、安易に口に出したりしない。アミヤは、自分のいう事がどういうことなのか分かっている――そういう顔をしている。

 そして、そんな顔の人間は、大抵ろくな結果を持ってないものだ。


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