二
太陽が高く上ったところで、あたしは目が覚める。南向きのこの部屋は、晴れていれば馬鹿みたいにまぶしい光が、嫌でも差し込んでくる。窓の隙間、天井の隙間。急拵えの鉄筋と、木片を張り合わせたような構え。夜になれば冷えた風が入り込むのも、もうすっかり慣れてしまった。
慣れってものは恐ろしい、どんなにクソみたいな生活でも順応してしまうんだから。あいつらが現れてから十五年以上経った今、人類の方もすっかり順応してしまうぐらいだから。いつも通り起き出して、仕事して、学校に行って、警戒サイレンが鳴ったときには素早くシェルターに駆け込む。もう、習慣だった。人類共通の。
ベッドから這いだして、テレビを付けた。アラスカの作戦――空から現れる、堕天使たちを迎え撃つ、などと勇ましいことを言っている。そんな美辞麗句を並べ立てても、結果など分かりきったことだった。
二十年前に突如として宙から飛来した、異星からの来訪者。"アザゼル"、"ガルダ"、"飛天夜叉"など、文明圏によって様々な名が付けられたそれは、正式には「仮性体」と呼ばれている。彼ら自身が自らをどう言っているか知らないけど、学術的な呼び名らしい。独特の信号音で啼き、石英の結晶みたいな三角錘の本体から流線型の翼が伸び、黒灰色の表面は金属のような鈍い光沢を帯びる。体の真ん中には眼のような光源が当てはまり、その眼から放たれる光の前に、人類はかつてない被害を被った。光は熱でもなく物質でもない。光を浴びると物体は分子レベルにまで分解されてしまう。通常兵器でも及びもつかない、まして今まで地球上の同種同士での戦いに明け暮れ、初めての宇宙からの侵略に備えなど全くなかった人類は為す術なくその数を減らしていった。
あたしがまだ小さい頃に地球に来たそれは、瞬く間に世界中を覆い尽くした。世界中の国が軍事力を結集しても尚、彼ら仮性体に傷を負わせること叶わず、航空兵器、軍事衛星に依存していた各国の軍隊はことごとく無力化され、打ちのめされた――又聞きだったけど、あたしの幼少時代は、周りの大人たちはそんな話に終始していたように思う。
それから十年後、人類軍が設けられ、いままさに人類の存亡をかけて戦っている。アラスカの作戦もその一環で、仮性体の出現場所を特定して先回りして叩くというものらしい。
「先回りしたって、倒せなきゃ意味ないよね」
普段、政治や社会のことなんて何の関心もないオーナーが、そんなことを漏らしていたのを思い出す。まったくだ。素人のあたしでも、そんなことで勝てるとは思えない。
窓をあけた。くすんだ色の上海の街並みが、灰色めいた大気の中に沈んでいる――陽光がスモッグに反射して、街並みすべて、旧市街地から都心に至るまですべての建物をよどんだ色に塗り変えていた。霧は全部、仮性体たちと人類軍が戦った跡だ。分解された軍人たちや、軍用列車、自走臼砲の欠片は、細かい霧となって大抵は海の底に沈む。けどたまに、季節風に乗って遠い大陸の分子たちが流されて、今日みたいなスモッグを生み出すのだ。最初の方は皆気味悪がって誰も外に出ようとしなかったが、今となっては元人体、元砲弾。イージスから放たれた追尾ミサイルや鉄強化装甲だったであろう分子の霧を平気で吸い込んでいる。
本当、慣れって恐ろしい。
テレビを消して、寝間着を脱いでシャワーを浴びる。一応、体が資本のこの仕事は、とにかく清潔にしておくように、と言われていた。三日ぐらいは風呂に入らないこの国の住人を抱くには、西洋出身者は耐性がないらしい。東洋人は人気だが、それでも不潔な女と一夜をともにはしたくない――だから、体を清めることを怠ってはいけない、と。普段口うるさいことを言わないオーナーが、この件だけはしつこく注意するのだ。客がつかなきゃ、その分稼ぎも減るのだから、当然あたしもその辺は気を使う。目下、あたしにとっては人類の存亡よりも明日の食い扶持の方が大事だ。
シャワーを浴びて、遅めの昼食をとって、夕方の出勤までぼんやりする――部屋の掃除をするか、映画を観るか、そんな感じで時間をつぶすのだ。あたしの一日は、大体決まっていた。
けれど、この日は違った。
ノックの音に気づいたのは、シャワーを浴びている時だった。この集合住宅にチャイムなんて気の利いたものはついていない。けど、新聞屋なら新聞受けに突っ込むだけだし、そもそも新聞屋が来るような時間でもない。上の階に住む同僚はちょくちょく遊びに来るが、そのときにはいつも携帯にメールを入れていた。ほかに用があってこの部屋に来るような人間と言えば……
扉の向こうの人物は、しつこくしつこくノックを繰り返す。さすがにうるさくなったので、シャワーを止め、体にタオルを巻き付けた。扉の向こうではまだノックを繰り返している。
「いい加減にして」
半ば威嚇する意味もあって、扉を思い切り開け放してやった。それこそ、向こう側の人間を吹っ飛ばしてやるくらいの勢いで。
「何なのよ。押し売りならもっと金のある奴んトコ行きな。それとも集金なら、今月分はもう払――」
たぶん、絶句という奴だった。扉の向こうにいた人間が、あまりにも予想の潘疇を越えていたことに対する、本能的な思考停止というものだった。そこにいた人物を観て、たっぷり四秒くらいは、固まっていたと思う。
果たして、あたしが開けた扉にとばされることなく立っていたのは――見慣れない、スーツ姿の男だった。
「客人を怒鳴り散らすのが上海流が、覚えておこう。現地式で迎えられるということは、とりあえずは歓迎されていると捉えるべきか?」
流暢な北京語を操る。東洋人らしき男が言った。おそらくは皮肉なのだろうけど、皮肉に聞こえないというのは、それだけ男の物言いが静か過ぎるということだろうか。
「潘金麗、だな」
初対面で、個人の名前をそんな風にぞんざいに呼ぶ類の連中は、大体決まっている。
「何あんた、役所の人? 悪いけど、あたし税金は払わないよ。難民認定受けているから」
「税金の話ではない」
そう言った男の背後に、見慣れた藍色のベレー帽が二つ並んでいるのを確認した。都市迷彩に防弾コートを羽織り、正式採用のケースレス小銃を下げた男が、威圧的な鋭い視線をくれる。どこから見ても、人類軍兵士の出で立ちだった。
「軍人さん? だったら、今は営業時間外だから後にしてくれよ。別に話すことなんて何にもないし」
あたしのことを存在ごと無視したように、スーツの男はずかずかと上がり込んだ。上がり込んだといっても、土間と部屋が一体となったような作りだ。
「随分と狭苦しい所だ」
そんなこといちいち言われなくてもわかっているのだが――いきなり上がり込んだ他人に言われる筋合いはない。
「何なのよ、あんた」
「こんなところじゃ、稼ぎもそれほどないだろうな」
「大きなお世話だ」
本当に腹立だしい男だ。人の領域に何でもかんでも踏み込んで、踏み荒らすような無神経さを感じる。軍人に繊細さなんて欠片も求めないが、それにしても人としての常識というものはないのだろうか。
「客でもないんなら、帰ってくれよ。軍に文句言われるようなこと、何もしていないよあたしは」
「軍ではない、私は連合安全保障理事会の者だ」
男はそういって、胸から下げたIDカードを掲げた。
「潘金麗、君に話があってここまで来た。まず、着替えてからゆっくりと語り合おう」