十六
閉ざされた扉は、もう二度と開くことはない。そんな予感を、得る。唐突に去ったアミヤの気配は、もう家の中のどこにもなく、一人残された空間がアミヤに関するあらゆるものを覆い隠したような。そんな印象だった。
アミヤは戻らない。それどころか、あたしの思うようなものでは決してなくて、最初からあいつはあたしの思う範囲にはいなかった。懐に入り込んで、この家に踏み入って、あたしにとって近くにいるのだと――錯覚だった、全てあたしの思い違いだった。あたしの領域には踏み込まず、その外側で俯瞰するだけの――故郷の、あの家で母さんがそうだったように、アミヤはあたしを、一番遠くから眺めていただけだった。役目を果たし、観察を続け、それが終われば、あたしのことなんて難なく切り捨てられる。
少し寒々しい部屋の中で、耳を押す静寂の中で、何度でも噛みしめる。何でそんな勘違いをしていたのだろう、どうしてそんなことを思うのだろう。あたしは、誰に愛されたというわけでもないから、つかの間の心地よさをそうだと勘違いしていたのだろう――愛されたことなど、一度もないのに。
「金麗……」
ひたと、裸足で地に立つ燕玲の、少し遠慮がちな声が、空間に溶け入るような響きを伴う。謝罪や、心労や、気遣いを含んだ声質でもって、恐る恐るというように燕玲が訊いた。
「大丈夫?」
「ん、何が?」
「あの、突き飛ばされたとき」
おかしなことを言う。あの男に受けた傷なんて、あたしの方は全然大したことはないのに。むしろ、燕玲の方が、負った傷は大きいかもしれないのに。
「ありがとう、心配してくれてんだね」
燕玲は、何も言わず、あたしの隣に座った。肩とふれ合い、そこだけが熱を持った。
「あたしの父親は」
唐突に、口から出た言葉は、少なからず燕玲を戸惑わせたのだろう。でも今更訂正するわけにもいかず、あたしはその続きを話した。
「研究にしか興味のない人だと、思っていた。だから、あたしはあの家にいるころも、あんな男二度と戻ってくるな、ってね。思っていた」
支離滅裂でも、意味がなくても、あたしは話していた。あたしとは違う何かが、あたしの口を通して物を言っている。あたしは、自分で馬鹿なことを言っているという自覚はあったし、燕玲に聞かせる自分を止めようとしていた。
でも、止めることができない。
「あんたを、造ったって聞いて。でもって、あたしの元にあんたを送り込んだって聞いても、全然ピンとこなかった。あたしは、あいつはあたしのことを忘れていると思っていたから」
でも違った。あたしのことを、少なからず思っていたことを、あたしは、少なくとも。
「愛されたこともないのに、あいつはあたしのことを何にも思っていないと……」
燕玲の指があたしの頬に触れた。滴を、拭い、眦を撫でた。指先は、頬をなぞり、耳を触り、髪に絡みつく。熱っぽい視線と、潤んだ瞳の奥に、揺らいだ光とを垣間見る。
「あの家に、居場所がないように、あたしには」
あたしは、本当は望んでいたのかもしれない。父親が戻ってきたら、母さんはまたあたしのことを見てくれる。そうすれば、やっと普通の家族になれるのだと。あたしはそう望んでいたからこそ、あの家でも我慢できた。そう思わなければ、あたしはあの家には戻れなかった。
「あたしは母さんを愛していたけど、母さんはあたしを愛していなかった。あの人の中に、あの人が及ぶ範囲にあたしはいなかった。母さんの領域に、あたしはいなかったんだ」
だけど、傷つくことはなかった。あの人は、あたしたちに手をあげる事はなかった。でも、無視をした。それに等しいことだった、あたしたちに何一つとして関心も払わず、うわべだけあたしたちを愛しているように振舞ってもそれは違うのだと、子供心に感じ取っていた。
誰も傷つけず、けれど誰も愛さない。あの人の目には、父親である潘金劉しか写っていないから。父親が戻ってくれば、あたしはあの人の領域にいる事が出来る。そう信じていた。
「でも、それは叶えられなかった。あたしは結局、あの人の領域に入れなかった。だからあたしは、せめてあいつを、父親である潘金劉をぶん殴ってやろうと思ったのに」
あたしは、結局あの家でも、その外でも。母さんの届く範囲にはいられなかった。母さんが見ていた父親の幻影にすら届かず、あたしが生きてきたという証すらなかった。
「あたしは、分からなかった。あの人が本当にあたしを愛していたのか。あの人にとってあたしは、どういう存在だったのか。傷つけることも、罵倒することもなかったけど、でもそうしてくれても本当は良かったんだ。何も無関心でいられるよりは」
小さな両腕をあたしの首に回して、精一杯体温を伝えてきた。そうすることが、何よりもあたしの言葉を否定して、あたし自身を肯定することだと、信じているように。ぎこちなく、震え、張りつめた両腕は、でも温かかった。
「必要なかったのかもしれない。誰も、愛さなければ傷つけることはない」
燕玲は、ただ耳を傾けるだけだった。あたしは燕玲を抱き寄せ、額に軽く接吻した。唇に、冷たく弾力のある膚の感触が残り、唇をつけた箇所が、熱を持ち、紅く色づいた。
「母さんは、あたしを見ていなかったけど。それで傷つくことがなければ、それでいいのだと。そう思うことで納得させていたんだ。あたしが帰るべき場所は、そこにはないって分かっていても」
燕玲に聞かせていて、その半面、あたしはあたしに言い聞かせていた。自分に言い聞かせて、自分が正しいのだとあたしは、自分で言っている。自分でそんな慰めをかけて、自分で情けをかけて、そんな馬鹿みたいなことをしていた。
燕玲の指があたしの指と絡みついた。引き寄せ、さらに深く抱えた。燕玲の唇があたしの首筋から胸に這い、先端に軽くキスをした。勝手に溜息が漏れてしまうのを、すこしばかり荒い息遣いを、そのままに。燕玲の首を、肩を、指先でなぞり、昂ぶった気に身を任せて、吐息を漏らして。燕玲の膚を、血を、全てが注がれてきた。
「金麗は」
あたしの胸の中で、燕玲が言った。
「本当は、どこにも居場所がないなんて言うけど。でも、僕にとっては、この家に金麗がいて、僕がいて。ちょっと気に食わないけど、時々アミヤが来て……他には何もないけど、丘の上からはロケット台が見えて。ここが僕の家だって、そう思えて」
あたしの頬と首筋にかけて、甘い熱が灯った。燕玲の小さく薄い唇が、情熱的に口付けて、あたしはそのたびに熱にうなされた。熱の中で何度も抱き寄せ、抱擁を重ねた。
そうして、その熱が冷めるまで、ずっと抱きあっていた。重なり合った手と、指と、上気した膚が、収まるまで。
「帰ってくるよ、この家に」
朝の光が差し込む頃に、燕玲がそっと耳元せ囁いた。
「金麗のいる所が僕の場所だから」
あたしもそうだよ、と言った。燕玲のいる場所が、あたしのいる場所だった。燕玲の届く領域に、常にあたしは居たかった。そのために、何度も過ちを犯すかもしれないと、思っても。
陽が、昇ってくる。
その朝は、藍色をしていた。薄く白んだ東の空は、刷毛でのばした雲や、雲の隙間から漏れる刃めいた光や、あるいは冷たく澄んだ空気だとか。何かが始まる気配と、静まり返った空間は、いつも通りの朝を演出していた。薄雲が天蓋を覆い、曇り空は陽光を遮り、でもそれだけなら冬の訪れを予感させるだけの寒空にすぎなかった。
でも、違った。違う理由は、列挙するほどもない。異変は、すぐに姿を現した。
最初に異常をきたしたのは、ラジオの放送だった。アミヤが、深夜でもラジオはつけっぱなしにするように、緊急放送にはいつも聞けるようにしろ、と。そういう指示があってのことだった。光熱費は政府の経費から出るから、まあ別にいいだろうと。その程度の認識だった。
しかし、その時は、不本意にも役に立ってしまった。雑音の後に、緊迫した北京語が流れ、まさに半狂乱と呼ぶがふさわしい、喚き散らす声が聞こえてきた。
あたしはすぐに起き出して、ラジオを近づけた。やたらと雑音が多くて、何か言っているのはわかるのだが聞き取りづらい。でも、その雑音こそが、何が起こっているのかを如実に語るものだった。
「燕玲!」
まだベッドで寝ている燕玲をたたき起こした。あたしは身の回りにある衣服をまとい、燕玲にも服を放ってやる。まだ眠い目をこする燕玲をせき立てて、服を着させた。
「何、何があったの?」
あたしは棚の上から、車の鍵を取った。続いて、一応の護身用にとアミヤが置いていった銃を取ろうとして、やめた。あいつらに、そんなものが役に立つとは思えない。
「行くよ、ここから離れるんだ」
「な、ちょっと……」
あたしは燕玲の手を取り、半ば引きずるようにして外に出た。
「何なの? どうしたの、いきなり」
「ラジオの雑音……電波障害」
車のドアを開ける。すぐに、北の空に鋭角の機鋭が一つ、飛来するのが分かった。
「"夜叉"だ」
直後、警戒警報が鳴った。
あの日の朝も、そうだった。携帯ラジオに雑音が混じり、報道官の声が聞き取れなくなった。あとで聞いた話によれば、"夜叉"の放つ独特な信号言語が、地上にある電波を乱すのだと言う。あたしはそんなことを知らずに、でもなぜか胸騒ぎがした。学校から帰る途中、いつもならそのまま家に帰るところを、わざわざ遠回りして帰った。そのとたん、家の方角に金色の光が落ちて――あたしは軍の人間に保護されて――だから、ラジオの雑音は、そのままあいつらの声であり、そのまま危険につながるのだ。
車を走らせた。最初、一つだった影が、二つ、三つと増えて行った。まだ増え続けて、やがていくつもの機影が、空を縦横に切り裂いてゆく。
「"夜叉"だ」
鋭角の線。三角錐の体幹に、刀剣を思わせる翼。鈍い黒金の地肌と、そしてアンバランスに光る一つ目は、毒々しい赤い色をしている。
紛れもなく、"夜叉"だった。あの日目にしたときと少しも変わらず、無機質で機械じみた鳴き声を発する。今一度、目にしてもなお、それはヒトと同種などとは思えない。
山腹で紫色の細かい炎が、ぱっと散った。数瞬遅れて、爆音が響いた。軍の多脚砲台が、”夜叉”の群に発砲している。いくつもの砲が重苦しく吼え、そのたびに地に炎が立った。轟然と突き抜ける砲の中を、あたし達は駆け抜けた。
「燕玲、掴まって――」
あたしが言い終わるよりも先に、窓の外が光った。
一瞬で包み込んだ。思考もすべて描き消える強烈な閃光が、世界にあるすべての色を同化した。凶がしく、滅びをのものを示すような、体ごと刺し貫かれそうな光の後、車中に衝撃が走った。
体が浮き上がった。爆音よりも高音な、金属の悲鳴にも似た衝撃音がした。内耳の奥にまで響く、不快な音。衝撃が、ガラス窓と、ボンネットを叩き、制御を失った車が横転した。地面に叩きつけられ、フロントガラスが飛び散り、あたしは車外にはじきとばされた。
「くそ……」
何とか起きあがると、目の前に灰色の煙幕がかかっていた。爆発の煙とはまた違う、細かい粒子の雲の中にいるようだった。不愉快な粘膜が喉元に張り付くのを、あたしは飲み下した。まだ衝撃でふらついた足下を、しっかりと据え、燕玲の姿を探した。
「燕玲……どこ」
煙を吸い込んだ。錆びた金属の味がした。粒子は、分解された戦車の残骸なのだ。唾を吐く。
煙が晴れた。暗幕が取り払われて、青空が見えた。その時に、空を背景にして、黒い影が躍るのを目の当たりにする。
あたしの頭上にかかる影。菱形を寄せ集めたような、金属物体が、あたしを見下ろしていた。まるでへいげいするかのように、ゆるりとその一つ目を向けた。黄土色に濁った瞳が金色の光を集め、白色の輝きを放った。あたしがその場から逃げ出す間もなく、次の瞬間には、網膜ごと焼き付くすような光が炸裂した。
一瞬、意識を失いかけた。あるいは、本当に失っていたのかもしれない。何もかもが真っ白になって、感覚が途切れた。あたしは光の中に呑まれて、その瞬間に、何もかも分解されるのだと、一瞬そのことが頭をよぎった。
だが。
「大丈夫?」
声が降ってきた。目を開けると、あたしの体も、意識も、すべてそのまま残っており、変わったことと言えば燕玲があたしの前に立ちふさがっていた。ちょうど、"夜叉"と対峙し、あたしをかばうような格好だった。小さな背中を、あたしは見た。
「燕玲、その背中」
金属の破片が、衣服を突き破って燕玲の背中に突き立っている。衝撃で、何かが刺さったのだろうか。だがそれを指摘するより先に、"夜叉"の目がもう一度光った。今度は燕玲ごと消すつもりだ。
光った。金色と乳白の、鮮烈な電光だった。あたしはとっさに目を閉じたが、今度は気を失うことはなく、ちゃんと立っていられた。
そして、目を開けると、そこに"夜叉"の姿はなかった。その場所に、灰色の粒子の靄が立ちこめて、その中で燕玲が振り返った。
「かっ……」
燕玲が苦痛の声を漏らした。喉と胸を押さえて、痛みを我慢できず、うずくまりたいところを何とかこらえているようだった。
「え、燕玲……あんたなにを」
ふつうなら心配してやらなければならないところだけど、あたしはそれよりも、消えた"夜叉"のことを気にかけていた。
だが、燕玲の背後にある粒子、灰色の雲。
「まさか」
あたしが口にするよりも前に、軍の多脚砲台が、横転した車を踏みつぶして駆けてゆく。まるで蜘蛛か油虫みたいな小刻みで気味の悪い動きで丘を下り、移動しながら砲身を”夜叉”の群に向け、発砲していた。轟音が、周囲の音すべてを同化して、そのせいで燕玲が何か叫んでいたのにも、気づかなかった。
燕玲があたしの手を引いた。少年のものとは思えない、力強さだった。あたしは燕玲に引きずられるようにして丘を上った。
背後で光が爆ぜ、衝撃が走った。