十五
それが来たのが、もう間もなく、秋が終わるという日。家の前に横付けされた、不自然な濃緑色のジープが橙の陽光に照らされていた時刻。全ての終りを告げる、灰色の明細服が降りてきたときに感じた予感だった。家の前で、軍人二人を引き連れたアミヤが、あたしの帰りを待っていた。
「あんたもせっかちだね」
その様相も、表情も、アミヤの纏う強張った空気感も、二年前の再現だった。あたしの所に押しかけた、安全保障理事会のケイス・アミヤという人物が、得体の知れない赤ん坊を連れてきたあの日。
「まだナノマシンは残っているよ」
「事情が変わった」
無駄話などする暇は無く、限られた時間の一分一秒も浪費したくないという口調だった。あたしの知っているアミヤとは、大分違って見える。
「あんたらしくないね、こんなの」
「我々に残された時間は少ない」
「燕玲ならいないよ」
戸口の兵を押しのけると、案外素直に二人の兵は、家の中に入れてくれた。軍人というものは無駄な事を一番嫌う。彼らの目的は、あたしじゃないし、あたしの身柄を拘束したり、束縛したりすることは、よっぽどの抵抗が無い限りはしない。意味が無いから、彼らのするべきことは、あくまで一つだから。
「畑か」
「わからないけど、帰ってくるのは遅いんじゃない? 町に行っているから」
「嘘が下手だな」
アミヤの指摘通り、我ながら下手な嘘だ。あたしが行けない町中に、燕玲が行くわけがない。
「君も知っての通り――」
何の前触れもなく話を進めるアミヤには、かつての機械的な声が戻っていた。あたしの知っているアミヤには、二通りあって、最初に出会った頃の、役人の顔と、もう一つ。データを受け取りに来るときの、仮面の中の素顔を少しだけ覗かせた顔があった。でも今は、どちらでもない、ただひたすらに厳しさを覗かせた、鋭利な刃めいた表情を、まるで隠そうともせずに、触れたら切れるという気を帯びている。
「月面の仮性体が飛び立った。これまでにない数の仮性体が、月から飛来している。針路は、まだわかっていないが、このままいけば東アジアのどこかに行き着くものと思われている」
俗称である"夜叉"ではなく仮性体と呼ぶことも、そうだった。この地に少しだけ馴染んだ言い方を、あえて排除して、正式な政府発表の呼称を口にするアミヤは、もうあたしに見せるような氷解した素顔など覗かせることはなかった。
「まだ分からないじゃない、前みたいな誤報とかじゃないの? ヒマラヤの気象台も、結構いい加減だし」
「誤報なら救われるかもしれないな。だが」
そんな切迫した状態だからここに来たのだと。暗に、そう告げるアミヤと、軍人達の目は、もうそれだけで強迫的に説き伏せるものだった。気圧され、事切れる、まるでその視線だけで黙らせることが出来ると含んでいるような。
あたしは、湯呑みを手に取りかけて、でもすぐにテーブルに置いた。
西日が、差し込んでいた。今聞かされたことが、真実であろうと虚構であろうと、ひは変わらずに、普段通りに沈んでゆく。そんな嫌味なほど落ち着いた光の中で、アミヤは冷徹な視線を向けた。
「私は、燕玲が成人するまで、と告げたが。そう悠長なことも、言っていられない」
「燕玲を……連れて行くの」
今更分かりきった事なのに、どうしてもまた訊いてしまうのは、それだけ認めたくない事実が胸の内で膨れ上がって、抑え切れないでいたからなのだろう。まともにアミヤの顔も見れず、もし見てしまえば多分、あたしは何も言えなくなる。
息を殺して、返答を待った。予測した答え以外を期待した。そんなものは永遠に来ないと、知っていた。
「でも、でもだよ? 燕玲は体も出来てきたといっても、まだ、その――体も未成熟だし」
「問題ない。我々が判断した」
「だけど、まだ小さいし――」
「十分だ」
「だって、ああそうだ。あの子今、代数学勉強していて、ああ別にあたしが教えているわけじゃないんだけど。それが終るまで待ってくれない? 結構面白いって言うから、せめて」
「金麗」
初めて、この男の口からあたしの名が飛び出した。それほどに真剣に、それほどに切実に、あたしのことを呼ぶということが――どういうことなのか、それが分からないほど、あたしは馬鹿じゃない。
「彼は君のものじゃない。政府のものだ。そして、我々人類の明日を担う存在なのだ。君の都合で、そう何度も放棄したり、延長したりなんて出来るものではない。一年前のことだって」
ちくりと、胸を刺激するものがあった。突如それは、哀しみや痛みといったものではなく、単純に衝動として突き上げるものだった。一年前に、あたしがしたこと、あの子にした仕打ち。忘れたわけではない。
「君の我侭は、今までは多少は通った。だけど、これからはそうは行かない」
アミヤは計測結果が記された書類を、ファイリングして、タグ付けすると、ナイロンバッグに詰め込んだ。これ以上ここにいても時間の無駄だというように。そう言えば、アミヤはここ最近、この家に留まる時間がとみに短くなった。
「危機が迫っているのだ。私は、博士の遺言通り、君に彼を託したが、それ以上のことは私は望んでいない」
でも。でも、もう少しだけ――うっかり口にしそうになった言葉を、でもそんなことを言える立場じゃないと気づいて、結局呑み込んだ。アミヤは当たり前のことを言っていて、燕玲はそのために生まれたものであって。
「あの子は、まだ――」
「これ以上、成長を見続けて何になる。燕玲の成長は、変化はあるものの常人のそれとは比べものにならない。あと一年もすれば成人し、そして成長が早いということは老化も早いということだ。君よりも早く老い、死ぬ。それも、一年、二年もすればあっと言う間に」
燕玲はあたしの背丈に迫る勢いだった。データの数値が上書きされるにつれて、あたしは容易にその先が想像できた。やがて来る、成人の時と、でもそれを越えたとしてもそこには人よりも早い死が待っているのだと。
容易に想像できた。だから考えないようにしていた。
「だったら何で」
ややあって口を突いた言葉は、あたしのものじゃないみたいに、弱々しく、掻き消えそうにか細いものだった。
「何であんたら、あたしにあの子、預けたんだよ」
馬鹿なことを言っているのは、あたしの方だと思っていた。単なる職務として実行しているに過ぎない、アミヤの心情を、疑い始めていた。最初から最後まで、アミヤの行動は一貫して「燕玲の観察」だったのだ。環境を整えるために、あたしをあてがったに過ぎないのに、あたしは
「こうなることが分かっているなら、何であんた達は、あの子を引き合わせたんだ!」
あたしは――どうしようもなく裏切られた気分に、なっていた。いくら、あたしが何を思っても、アミヤはただ自分の仕事をしているだけなのだ。過度の期待なんかしちゃいけないんだと、忘れていたことを否が応にも見せ付けられる。
案の定、少し呆れた表情で、アミヤはあたしを見ていた。でも哀れみめいてもいて、どっちにしてもあたしに理解など巡らせるわけにもいかないという、そういう目だった。
「燕玲は、どこだ」
言葉を尽くすことなど叶わない。そう判断したのか、アミヤは溜息とともにそう言った。あたしは柱の時計を見る。丁度、短針が午後四時の正時を指した、その時。
「金麗、帰ったよ」
最悪のタイミング、と言えばいいのだろう。何も知らない、燕玲の声だった。
アミヤが、合図した。顎をしゃくって、目だけで、行けと命じた。全く挙動もなく、二人の兵士が動いた。
「え、あの……ちょっと……」
燕玲は、置かれている状況を呑み込む前に、二人の兵士に拘束された。手首と肘、肩を、同時に左右から固められ、どう足掻いても逃げられないというように抱え込まれる。
「君を迎えに来たんだよ、燕玲」
行動によってしかコミュニケーションを許されない軍人に代わって、アミヤは言う。
「仮性体に抗するために生まれた、君を。彼女も承諾してくれている」
アミヤは、もう文句も言わせないという素振りで、あたしの方を振り返った。あたしは、燕玲の顔をまともに見る事が出来ず、まともに注がれる二人分の視線が過ぎ去るのを待つしかなくて、下を向いていた。
「潘金劉が残した研究は、実に良い結果を残してくれそうだ」
燕玲が、何を思っていたのか。どんな顔をしていたのか。確認など出来なかった。あたしは頭を垂れて、全部終るのを待った。全部終ってしまえば良かったんだ、あたしが最初から口を出せる事ではなかった。あたしは、所詮は――燕玲の数字を計るために、燕玲が育つ環境を整えるためにいる、そういう役割を果たしていて、それが済めばあたしはもう、いらないんだ。
燕玲が、あたしの横を通った。その瞬間、視界の端に、淡い緑の光沢とと白金の反射光をとらえた。さりげない瑪瑙の光が揺らぎ、どうしようもなく存在を刻みつける、確実な輝きだった。
「待って」
全てが終わろうとしていたときに、あたしが口にした言葉が、アミヤを振り向かせた。
「連れていかないで」
何度でも、馬鹿なことを言う、と。もはや言葉を尽くすことは無駄である、というようにアミヤは肩をすくめ、レンズ越しに見つめる目は冷ややかだった。
「金麗、いい加減にしろ」
語気を荒げて、アミヤはもう限界だとばかりに怒鳴った。
「これは君の個人的なことでは済まされないんだ!」
凄まれても、罵倒されようと、でもあたしは引き下がるわけにはいかなかった。
「あんたの言うことは、わかる。でも、もう少し待ってくれないかい。あたしは、まだきちんとその子にお別れを言ってないんだ」
別れ、と言ったときに燕玲の顔が曇った。どうあっても免れることのできない運命を、自覚しているようだった。
「お願いだよ」
「駄目だ」
そんな思いなど、あっさり切り捨てるアミヤは、そのまま燕玲を連行するよう兵に命じた。
とっさに、手が出た。アミヤの肩をつかもうとした。そのとたん、アミヤが手を払い、あたしの体を押した。
予想以上に、強い負荷だった。あたしの上体が崩れ、勢いを殺せず、あたしは突き飛ばされる格好で尻餅をついた。転ぶ瞬間にテーブルの脚に肘をぶつけて、腕がしびれ、テーブルの上の湯呑みが転げ落ち、派手な音を立てて割れた。
倒れたとき、燕玲と目があった。絶望を浮かべた視線と、かち合った。
「金麗!」
信じられないことが起こった。取り乱したように燕玲は、兵たちの手の中で暴れたのだ。歳にして十四、五歳ぐらいの少年が暴れるのを、本職の軍人二人が押さえつけようとしたが、燕玲はその二人の手を払い、身をよじって、身を引きはがした。
燕玲が何事か叫んだ。目に一杯、憎悪めいた光を宿していた。兵たちが狼狽するのを後目に、燕玲はなんと、アミヤに殴りかかったのだ。
一発目を、アミヤは難なくかわした。二発目の、燕玲の左拳が、アミヤの鳩尾をとらえた。
アミヤが身体を開き、燕玲の拳を避けた。空を切った燕玲の手首をつかみ、あっと言う間に腕をねじりあげ、関節を極める。
そこから先は、アミヤの思うままだった。左手を固め、地面に引きずりおろすようにアミヤは燕玲を組み伏せた。うつ伏せに地面に張り付けにされて、燕玲はもがくが、その体をアミヤは膝で押さえる。標本の虫のように、それだけでもう、燕玲は動きを封じられた。
「どうした、それで終わりか。小僧」
挑発というよりも、余裕を見せつけるようにアミヤは言う。実際、息も切れず、汗一つかかない。デスクワークが主だとばかり思いこんでいたが、思いがけないアミヤの立ち回りに、あたしは全く理解が追いつかず、ただ眺めていた。
「離せ、くそっ!」
暴れる燕玲を、アミヤはさらに押さえつける。
「彼女を、守っているつもりか。燕玲」
面と向かって、アミヤが燕玲に語りかけるのは、これが最初だった。
「おかしな奴だ。自分が連れていかれるときには、何も手を出さなかったくせに。彼女が傷つくと、おまえは誰よりも勇敢になれるのだな」
そして多分、最後になる。
アミヤは、ますます燕玲の腕を捻り、燕玲は苦痛に顔をゆがめながら叫んだ。
「うるさい! おまえには関係ないだろ」
「関係ない、そうだな。私も、何も関与しなければ良かったのだが……」
アミヤの表情が、完璧な仮面が解けかかっていた。その下にあるものが、アミヤの素顔なのかどうか確認する間もなく燕玲が叫ぶ。
「離せよ、それで金麗に詫びろ」
その時に、初めて見た。関節を固められた燕玲の左手が、指先から徐々に黒ずんできたのを。
「詫びろ、くそったれ。謝れよ!」
粘菌が、爪の先から入り込んで燕玲の皮膚を少しずつ食いつぶしてゆく。そんな印象だった。黒い膚が、柔い素肌を塗りつぶし、変色した後の膚はもはや血脈の通った膚ではありえなかった。凶悪で、硬質な、岩や金属のようなごつごつした、人の手ではない何かだった。さすがのアミヤも、これは予測していなかったらしく、黒ずんだ膚を前に狼狽を隠せないでいた。
「謝れっ」
その黒ずんだ膚が、腕全体を覆い、燕玲の左頬にまで到達する。
「機械細胞が発現し始めたか……」
アミヤは、手を離した。
「全く、それを出されたら私に勝ち目はないだろうが」
心底あきらめたといった様子で、アミヤはため息をついた。燕玲の背中から降りると、黒い膚が引き、曖昧なグレーになり、そして元の白い膚を取り戻す。
「いいだろう、もう一日だけ猶予を与えてやる」
アミヤは、にわかに色めきたった兵たちをなだめるように手で制した。
「あと一日。それ以上は待てない。それまでに、やり残したことがあるのなら、済ませるんだな」
解放された燕玲が、あたしのもとに駆け寄った。あたしは燕玲の感触を両腕で受け止め、視線だけアミヤの方を向けた。
「あんたは――」
何かを言う前に、アミヤは首を振った。それ以上の追求は許さないという、意思の表れにも見えた。
「我々だって、同じだ、金麗」
もう一度だけ、あたしの名を呼ぶ。親しげに、機械的に、感情的に――そのどれにも当てはまらない、精一杯に抑え込んだ声音だった。
「同じように、考えている」
何を、なのか。答えを求めるよりも先に、扉が閉まる。何もかもが隠れる前に、アミヤがあたしを振り向いたのか、定かではない。
ただ、小さく、「悪かった」と。そのように告げる声だけが、かすかに聞こえた。