十四
ラジオの音源。あたしが生まれたときには存在したテレビが、ことごとく衛星が撃ち落とされたことによって、情報は音の鳴る箱と、活字が躍る再生紙に限られた。それ以来、世界のことが遠くなり、あたしや他の人たちにとっても、なじみのないものになった。
けれど、それは別に悲観する事ではなくて、いつも通りの生活を繰り返すことに変わりはなかった。いくら人類が、世界が、"飛天夜叉"の脅威に晒されているといっても、四六時中そんなことに振り回されるわけでもなく、ラジオで伝えられる危機は、やはりどこまで行っても遠い世界のことだった。
だから、その世界のことが突然投げ込まれた、一年前と比べても、あたしの生活はいつもどおりだった。燕玲との生活、あたしの生活。一旦、馴染んでしまえば、拍子抜けするほどあっさりと歯車は回って行く。不自然とも思える夜の散策も、一年も続けば、あたしたちの生活に馴染んでしまう。町にも出ず、あたしたちの生活はあの丘の上に限られていた。誰の目にも晒されない、夜のロケット台は、あたしと燕玲にとっては特別なものとなっていた。
満月には程遠い、半月にしては不自然に膨らみすぎている。最後に弟と話した時の夜の月は、確かそんな形をしていた。文学的な素養があれば、もしくは知識があれば、その時の月がどういう状態なのか分かったのだろうけど、あたしはそんなことを気に掛けることはなかった。
弟は小さかった。けれど、あたしの言うことを理解はしていた。していた、と思う。例え言葉が怪しくて、まだ文字が書けないとしても、弟はあたしの言うことを理解していたのだと、そう思っていた。
何を話したのか。母さんのことと、どこか外国にいる父親のこと。友達と何をして遊んだとか、学校の好きな男の子の話とか。そんなことだった。でもあの日の心残りといえば、あたしは最後に、あの子に伝え切れていないことがあった。母さんが、あたしたちに伝えようともしなかった言葉。でも、あたしは子供心に恥ずかしくて、その言葉を呑み込んだ。
多分、今日の月は――あの時と同じ形だ。今ならそれが、十日目の月であり、十日夜の月と呼ばれたりすることが分かるのだけど、その新しく得た知識を伝えたかった弟はいない。
「十日目の月」
隣に座っていた燕玲が、唐突に言った。
「え?」
「いや、月見ていたから。この間調べたんだけど、あの状態の月を眺める風習が、列島の方にはあったんだって」
「列島って、どこのことよ」
「あいつの故郷だよ」
大抵、燕玲があいつ呼ばわりする者と言えば一人しか思い浮かばない。
「アミヤは日系人だから、故郷はまた別だよ。シアトル生まれだって言ってた。列島の出身は、アミヤの片親の故郷だ」
「どっちでもいいよ。っていうか、何で金麗はあいつの生まれを知ってるのさ」
「まあ、あんたが小さいときからの付き合いだし」
「それって、全然昔じゃないだろ。何でかあいつの話が多いけど、僕とそう変わらないじゃないか」
「多くないでしょ、別に。まだ引きずってんの?」
言うと、燕玲はふくれてそっぽを向いてしまった。さすがに、堪えたらしい。
燕玲とロケット台に来るのも、何度目か分からない。もう会合には顔を出さず、李夫人にも会うことがなくなった。というのも、さすがに燕玲がここまで大きくなると隠しきれなくなって、これ以上会合に出たり町に行ったりしていると、燕玲の存在が露呈する恐れがあった。燕玲も自分の立場を考えて、なるべく外に出ないようにはしていたが、それでも誰かに見られないという保証はなく、結果としてあたしたちは外に出る事を控えるようになった。
裏庭に畑を作り、生活用品は基地の方から運んでもらい、あたしたち二人が自由になれる時間は、夜の散策程度のこと。でもそれで良かった。あたしには、もう燕玲の存在を疎ましく思う必要もないし、あたしは燕玲のことをもう、ストレスとは感じていなかった。
月明かりで、ロケット台の影が長く曳く。燕玲はロケット台越しに、月を眺めていた。アミヤが話したこと――"夜叉"たちが、月の移民たち、その末裔であることを話したとき、燕玲は何も言わず、ただ一言だけ発した。
「どういう気持ちだったんだろうね」
それが、月移民達のことを指していることは明白だった。誰の助けもなく、地上と断絶された世界で、ついに情念を捨てるまで追い詰められた移民――そういうことを言いたいのだろう。自分の中に流れる血が、"夜叉"たちのものであることに、負い目を感じないまでもどこか共感めいたものがあったのかもしれない。その時と同じ気持ちで、燕玲は今、月を見ているのだろうか。
もうすぐ、あの月から"夜叉"たちが、大挙して押し寄せてくるという――その時まで、燕玲といつまでいられるのだろうか。
軍の多脚砲台が、移動を開始した。物々しい雰囲気と共に北面部隊が動き出し、それに呼応するようにイスラムの兵士たちが現地入りした。いつもならば、そのまま素通りしてしまう風景も、町の人々は今までと違った空気を敏感に感じ取っていたようだった。
政府の発表がなされた。かすれた、いつもの音源から出された発表は、やたらと切実な響きを伴っていた。月面から飛び立ったかつてない数の"夜叉"が、大挙して地球に向かっているという。もともと政府発表が信用に足るとは思っていなかったけど、ラジオの発表は、前にアミヤが言っていたことと合致していて、今回ばかりは事情が違うのだということを否応無く認識させられた。北面部隊の低空ジャイロは、これまでと違って町の上空を旋回して、警戒を強めていた。東アジア方面に針路を取ったとは言っても、"夜叉"がどの地点に降り立つのか、気象台はそこまで割り出せるほどの精度を有していない。それだけに、軍は警戒を強めている。必然的に、市井の暮らしの中に、遠い存在だった戦時の空気が入り込み、あたしたちの生活も例外ではなかった。警戒警報のサイレンがなるたびに、少なからず恐ろしく、あたしたちは今戦争をやっているのだという気にさせる。
だけど、それだけで済めば、まだ良かった。あたしには関係ないと、少ない根拠をあげつらって言い張ることも出来た。それだけでは――最後の時を、意識せずとも。