十三
彼らはどうして地上に降り立つのか。
彼らは何故、地上を目指したのか。
情報番組や新聞のコラム、政府発表やどんな書籍にもその答えはなかった。そもそもが、"夜叉"がどこから来たのかも、"夜叉"の由来すらも明らかにされていない中で、彼らの目的など明らかにされるはずもなかった。百年前の月面移民の存在と、その後の地上との断裂、そして独自進化の歴史は、何一つとして、どの情報源にも当てはまらなかった。繰り返し喧伝されるのは、"夜叉"が如何に倒さなければならない凶悪な敵であるか。そしてそのために人類は何を為すべきか。アミヤから聞かされた話など、どこにも存在しない。
「隠しておきたいんだよ」
そう、アミヤは言った。
「百年前に、各国政府のエゴによって棄民政策を採ったという事実をな。どんな国でも脛に傷の無い国家はないが、月面に同胞を見捨てた、なんて非人道的な所業は、なかったことにしたいのだ。国家はすでに消滅し、当時の責任者は残ってはいないだろうが。それでも、その罪を報せれば無用な混乱を落とすことになる」
人類は罪から眼を背けることで生きてきた。未来とは、過去を忘れることで生み出せるものだ。だから、黙っていたいのだ――連合が公式発表をしないのはそういう理由らしい。それを、わざわざあたしに打ち明ける意味も分からなかった。話の内容からして、多分普通の人間には洩らしてはいけないようなことなのだが、あたしはすでに関わっているから、だから話すのだろうか。
「……それにしても」
アミヤは家の中を見回した。
「一年前とは大分変わったな」
「そう?」
言われて見れば、この家の中のものも随分増えた気がする。燕玲の成長に合わせて、毎度毎度換える服を収納するクロゼットだったり、燕玲の背たけに合わせて調節できる機能椅子だったり、特に増えたのは一年前には一冊としてなかった本の類だった。学校に行けるような体でもなく、燕玲は語学も数学も、全て独学で学んでいた。科学、哲学、文化論の書籍が積み重なり、それらを砂が水を吸い込むようにものにしていく。多分、この一年で学べることは殆ど学んだ。燕玲の成長は再び著しくなり、頭だけじゃなく、体格もかなり変わった。今は大体、十四、五歳ほどの身長にまで成長していた。この地方の平均身長で言うと、少しだけ背が高い百五十センチ程。そこまでに成長するのに、わずか一年だった。
「それで、その燕玲は今どこにいるんだ」
「畑行ってるよ」
「生化学だけに飽き足らず農業にまで手をつけたというわけか」
「そういうことじゃないよ。あたしが町に出れなくなって、しかたなく自給自足しているんだ。基地に、肥料やら種やら頼んで、それを元に」
「ふむ……」
アミヤは、計測データに目を落とした。
「確実に、進歩しているな。この一年では、一番早い」
「何がよ」
「成長が、な。他の検体では、これほどの成長は見られなかったのだが」
窓際に寄りかかって、アミヤは"金鵄"を取り出した。
「あの、悪いけどこの家禁煙だから」
まるで天変地異でも起こったかのような、アミヤはそんな表情を見せた。およそ信じられないというような、まあそれでも今まで禁煙だったためしなどないから、驚くのは無理ない。
「どういうことだ?」
「一応ね、燕玲がいるでしょ? 前は普通に吸っていたけど、さすがにあの子の体にはよくないかなって思って」
「まさか、そんなことを気にしているのか? 煙草の煙如きで、健康を害するような作りはしていないはずだ」
「まあ、そうかもしれないけど。気分として、ね。あんまり良くは無いでしょ?」
アミヤは、生きがいが一つ減ったかのような、大げさなため息を吐いた。
「まるで保護者だな。子供の身を案ずる母親か」
「母親って」
思わず笑ってしまう。そんな柄じゃないし、一生縁のないことだと思っていた、そんなものにあたしがなっているなどと。アミヤにしては、なかなか頑張った冗談だけど、残念ながらちっとも切れがない。
「確かに、あんなことがあった後じゃ、違和感あるんだろうけど」
一年前のことを思えば、あたしは今でも、どうかしていたんだと思う。精神状態も不安定だった。あの時、一度でも毒のある方のカプセルを投与しようとした――燕玲は、その時のことを覚えていないというけど、あの時の金属の感覚は、なかなか消えてくれない。
「会合にも出れなくなったし、町じゃ今頃、あの家では変な連中がいるって話になっているね。やたら早く成長する子供、って」
結局燕玲のことを隠し通すことは出来なかった。大方、李夫人が洩らしたのか、あるいは誰かに見られたのか。あたしと燕玲のことが広まるのは思いのほか早く、町に出れば誰かが噂していた。李夫人も、もうあたしを会合に誘おうとはしなかった。
「まあ、それで良いと言えば良いんだけどね。今更、あんなところに行かなくても」
本心からそう思った。わざわざ、存在しない居場所を無理やり求め、何もないのに愛想笑いをしにいく。それを、苦痛だと思わなかったのが一年前。今は、出て行くのも馬鹿馬鹿しい。
「基地の方はどうなんだよ、それより」
「基地? ああ」
アミヤは名残惜しそうに煙草を仕舞い込み、行き場を無くした手はそのままテーブルの湯呑みに行き着いた。乾燥茶葉にバターの固形物を混ぜた、本格的とは言えないバター茶を一口啜って、顔をしかめて、湯呑みを置く。
「そろそろ、ヒマラヤの気象台の改修も終ったんじゃないの?」
ここ最近、ひっきりなしに飛び回っていたジャイロや、トレーラーが往復する光景を見る事は無くなった。自走砲台が山腹に居を構え、武骨な砲身が空を向いている以外はいつも通りだった。異様な光景も見慣れてしまえば、日常の一つの風景に過ぎず、全ての背景に同化してしまうのだから不思議だ。
「どうということはない。いつも通り、だが」
燕玲は素早く役人の顔を被る。覗きかけた素顔が、たちまち鉄の気配を纏う。無機質な数字の羅列を追う分析官の目だった。
「少し、不安定な動きがある」
「何、それ」
あたしもつられて――多分、そうとう緊迫した表情だった、かもしれない。表情筋の強張りが、自覚できるぐらいだったのだから。
「月に、奴らが集結しつつある」
「それがどうしたってのよ。月はあいつらの巣なんでしょ、それなら当たり前じゃない」
「そうでもない。彼らの行動パターンは不規則だが、これまでは衛星軌道上に群がることはあっても、月面に群を成して出現するということは無かった。基本的に彼らは単独で行動し、攻撃の時にも群を成しているようで、実は個々に攻撃を仕掛けていた。それが、群をつくっている」
「群を作らないっての?」
「前にも話した通り、彼らは他者への無関心を徹底することで、進化を遂げてきた種だ。地上への攻撃もさることながら、他者を徹底的に排除することで生きてきた彼らが、何故群を成すのか」
「そんなに異常なことなの? それは」
「今までの観測結果からすると、そうなる。もっとも、我々が知らないだけで、実は彼らは彼らなりのコミュニケーションがあるのかもしれない。言語を持たないと言われていた仮性体も、つい最近、実は言語を持つという事がわかったぐらいだからな。我々の預かり知らないことなど、吐いて捨てるほどある」
ファイリングされた計測データを合成革の鞄に滑りこませ、アミヤはちらっと時計に目を落とし、時間を気にするような素振りを見せる。
「その、連中が動くとしたら――」
「まだ確定事項ではない。警戒は必要だがな」
「あたしはどうすれば?」
「いつも通り計測を続けてくれ」
アミヤは、煙草を吸おうとして指を唇に近づけて、しかし持っていないことを思い出して、手を下ろした。あたしはあたしで、アミヤの言うことを量りかねて、多分相当怪訝な顔をしていたのだろう。奇妙に見つめ合い、沈黙した。
アミヤは、踵を返す。
「君はそれだけ続けていればいい、ただひとつ言えるのは」
去り際、アミヤが振り向いた。役人の顔が、少しばかり消えているように見えた。
「計画が前倒しになるかもしれない」
その言葉の意味を訊くよりも先に、アミヤは扉を閉めた。表に停めてある電気エンジン車のドアを閉める音、エンジンを掛ける音に次いで、静謐なモーター駆動音が遠ざかるのを耳にした。
「前倒し……」
もともとの目的を思い出す。燕玲が生まれた意味と、あたしが預かった意味は、全ては”夜叉”に対するためのものであったはず。その「計画」が、どのぐらいの周期を想定していたのかなんてことは聞かされていない。アミヤから「成人するまで」といわれていたけど、じゃあその成人がいつのことを言うのかも分からない。
そんな曖昧な定義なら、いつそれが実行されてもおかしくないのではないか――。
裏口から、別の気配を感じた。顔を上げると、西日を背負った影を確認した。何もいわずに、声もかけずに、じっとあたしを見下ろしている姿は、まだあたしを追い越すには足りないけど、もうすっかり子供と言える歳を飛び越えてしまった燕玲の影だった。
「ただいま、金麗」
ぶっきらぼうに発した。燕玲は、やや怒ったような表情をしていた。あどけない顔を精一杯強張らせて、出来る限りの怒りを演出しようとしているような横顔だった。でも、いくら頑張っても、女の子みたいな端正な顔立ちが憤怒の表情を形づくるには程遠い。
「金麗ってば」
「ああ……いや、おかえりなさい」
やや遅れてあたしが言うと、燕玲は鼻を鳴らした。
「早かったね、収穫は?」
「いつもと同じだよ。やっと二人分、掘り出したけど……」
そっぽを向いて、背中に背負った農作物を下ろすと、燕玲は卓上に残った湯呑みに目を落とした。
「またあいつ、来てたの」
「あいつ、って」
「あいつだよ、アミヤ。僕がいない間に、金麗あいつと何していたの?」
燕玲は、じっと刺すように湯呑みを睨み付けている。あたしが湯呑みを片付けている間も、湯呑みの行き着く先を見逃すまいとでもいうのか、じっと目を離さない。
「別に何もないって、これはその、まあ何でもない」
「嘘。なんか金麗、上の空だったけど」
燕玲は、どこか鬼気迫るという勢いで、殆ど詰問するような口調で訊いて来る。返答次第では、アミヤを追いかけてぶん殴りかねない、そんな風に。
「大体、あの男。何なんだよ」
怒ったような、それでいてどこか悲しげな目をする。あたしは少し、目線を逸らして言う。
「ああ、まああんたが小さいとき……といっても、まあ二年そこらの付き合いだけどね。あんたの体は、まあ他とは違うでしょう? だから、その関係で、ね」
「ふーん……」
まだ燕玲は納得がいかぬという顔だった。何を言っても、意に介さないという顔をするだろうから、あたしはもう黙っていることにする。燕玲は地面に下ろした農作物を台所まで引きずるようにして運ぶ途中、
「金麗、まさかあいつとできているんじゃ」
いきなり暴言を吐いた。不意討ちを食らって、あたしは手を滑らせて湯呑みを落としてしまう。
「は、はあ? 何を言ってんの」
これにはまさか本気で言っているとは思わなかったが……燕玲は本気で深刻な顔をしている。余りに真剣そのものだったので、あたしは思わず笑ってしまった。
「何が可笑しいんだよ」
「いや……まさか、あんたがそんなことを気にするようになるとはね。成長も早ければ、その分耳ざとくなるのか、あるいは色気づくのも早いのかね」
「な、何だよそんな」
「だって、いきなりできているのか、なんて。あんた、普通ならまだ二歳児なんだから、もっと歳相応なことを言いなよ。見た目どおり、思春期みたいなことを言っちゃって」
見る見る燕玲の顔が、真っ赤になった。あたしにからかわれたことが相当効いたのか、ムキになって反論しだした。
「何だよ、人が心配していれば! すぐそうやって、おちょくるんだから」
「あー、はいはいありがとう。そんな妬かなくても、あいつとは別に何でもないよ」
「やっ……」
これが決定的になったらしい。もはや体中の血を集めたんじゃないかってぐらいに、燕玲は顔を紅潮させ、何か言い返そうにも、激情がそれを邪魔しているみたいに、黙りこくった。
「妬いてない!」
本気で怒っているように怒鳴り、ひと睨みしてきたが、ちっとも迫力がない。農作物を片付けるのもそこそこに奥の部屋に引っ込んでしまった。
「本当に妬いてないんかよ」
なんだかおかしくて、あたしは申し訳ないと思いつつも笑った。アミヤの言ったこと、"夜叉"が迫っているという事実も、全部が全部、どうでも良くなった。
もうすぐ、アミヤが迎えに来るかもしれない、とか。"夜叉"が来るかもしれない、とか。そんなこと全てを笑い飛ばしてしまえば。ふと、そんな事を思う。