十二
かつて、地球外に文明を築こうとした時代があった。人類が月に降り立った二十世紀から、やがて太陽系の惑星に、そして太陽系外に目を向け、限りない拡張欲をかなえるために人は、月を足がかりにそれを成し遂げようとした。どれほど荒唐無稽で、想像もつかないことでも、確実に成し遂げてきた人類ならば可能であると信じられていた。
それを実現し、そして成し遂げる。だが、その熱もやがて冷め、月は忘れ去られてしまった。
「限られた資源と、苛酷な環境で、残された人々はどうやって生きて行けば良い? いくら科学が守ってくれるといっても、科学は所詮、外壁を埋めるものでしかない。外壁が取り払われれば、人は脆い」
外壁が無くとも、人は生きて行かなければならない。月面の人間は、それを自らの体に埋め込む道を選んだ。ナノウィルスで遺伝形質を造り換え、埋め込みデバイスと同じ役目を自らの細胞に求めた。
「先日言った機械細胞も、その過程で生まれた――だが、それがどこまでが人の手によるものであるかは定かではない。彼らは世代が代わるごとに、多くの生命がそうするように遺伝子を受け継いだ。全く同じということではなく、進化の過程でも遺伝形質は変わっていく。彼らは生存のプロセスの中で、独自進化を遂げたもう一つの人類の種だ」
アミヤはもう、何千回って同じ話をしたというように、淡々と話した。けれどあたしには、到底理解が及ぶとかそんな次元の話ではなく、全く想像もつかない話だった。
「あの、つまりその……あいつらって、別に化け物とかじゃなくて……」
「元を辿れば、ヒトに行き着く。それだけの話だ。彼らとはもう同じではなく、彼らは彼らの文脈の元に進化を遂げてきた」
やがてアミヤは、煙草の火を消す。
「彼らが現れた後、研究が始まった。月移民の末裔であることはすぐに分かったのだが、それでももはや対話などが出来る相手ではなく、排除の対象でしかない。その意味では、化け物と同値なのかもしれない」
「対話が出来ないって」
あたしは馬鹿みたいに、問いを繰り返すしか出来ない。アミヤはそれに、律儀に応えた。
「彼らに言語はない。そして、如何なるコミュニケーションも成り立たない。意志の疎通は、我々とは違う方法で行う。脳から、相手の脳に直接意志を伝え、理解や意志の疎通は、脳内で変換した信号の受信によって行われる。言語やジェスチャーといった、不確実で理解にばらつきのある伝達は、彼ら自身が生き残るために排除された」
呪文みたいな、一人語りのような、そんな印象だった。アミヤは、あたしに聞かせることよりも、自分自身の言葉をかみしめるように語る。
「彼らには、我々が抱くような情や道徳などはない。生存のために、そういった不確実で曖昧なものは全て切り捨ててきた。限られた環境で、限られた資源の中で。資源が潤沢に存在する地上とは違い、見放された土地では、一つの過ちで種が途絶えることだってありうるのだから。種同士の争いを排除し、種全体を存続させるために、不確実な情を捨て、確実なシステムとルールを作り上げたのだ。彼らはもはや、従来のヒトではなく、プログラムで動く機械と同じだ」
「何でそんな風に進化を?」
「誤らないためだ」
アミヤは、そう言って"金鵄"を灰皿に押しつけた。
「情や道徳のような不確定要素は、しばしば同じ過ちを引き起こす。道徳が、争いを諌め、収めるのではなく、人は道徳のために争ってきた。そういう、歴史がある。集団が信じる、イデオロギーや教義――個人が、道徳や正義を信奉し、その道徳を守るために、己以外の集団のために命を賭して戦い、正義のために殉じる。戦争や、あるいはジェノサイドも、正義に埋没し、同化した個人の総体が引き起こしたものだ。イデオロギーとは宗教、ナショナリズム、様々だ」
「じゃあ、その道徳を一切排除したら、人は争わなくなるっての?」
「彼らを見ていると、そうでもないのかもしれないが」
月の裏から来襲する、人ならざるもの。けれどそれは、百年前に分岐した、もう一つの人類。荒唐無稽だが、それでもアミヤの言葉に嘘はなく、あたしはただアミヤのいう事をそのまま受け容れるしかない。
「ただ、同種間の争いがそのまま種の滅亡につながりかねない状況に於いて、彼らは道徳や情、義や善悪の別という概念を捨てた。捨てざるを得なかった。月面で生きるためには、そうするしかなかった」
どこにも同情めいた響きはなく、アミヤは事実のみを追って、けれど目は遠い過去を見据えるようだった。
「過ちを排除したシステム。そのためには、一番人間らしいとされる部分は、邪魔でしかない。情念は、諸悪の根源でしかなかった」
不確実要素を、確実に潰して、残ったものをヒトと呼べるのか。あたしには分からなかった。もし、"夜叉"が、情も義もない、ヒトではない何かなら。燕玲は――あの子はどっちなのだろうか。
「やっぱり化け物……」
「そうとも言えない。彼らが化け物であるなら、等しく我々も、彼らと同じ道を歩んでいる」
「あいつらと同じ? 何で」
「君は、もしかしたら国家習合の瞬間に立ちあっていないのだろうが」
旧国家が全て廃止され、世界政府体制に移行したのは、あたしが小さい頃のことだった。当時はまだ存在した、テレビの画面の向こうで、白人の男が民衆に向かって演説している。その光景だけ覚えている。
「すんなりと体制が移行出来るはずもなく、世界中で反発が起こった。もともと他者とは違うという意思表示をすることで生まれたのが、国家であり、民族であり、そして氏族といった単位だ。かつて敵同士だった国家が同じものとされる、そのことを良しとしない国家主義者たちによる小競り合いは、今も続いている」
中華は死んだ――大人達が口癖のように言っていたことを、あたしはいつも耳にしていた。世界最大の国家が死滅したことへの絶望と、大国の威信を傷つけられたとする彼らの憤りの声だった。
「だがそれと引き換えに、国家間の争いは無くなった。いやそれ以前にも、人種間の争い、宗教間の衝突を避けるためのシステムは、世界中で進行していた。道徳や正義による統治は、いずれ衝突を引き起こす火種となる。近代の歴史は、そうした道徳を排除して、法によるシステムを押し進めることで成り立ってきたのだ」
途方もない話だった。あたしの理解を超えていた。それでも話を止めようとは思わず、聞き入っていた。
「過去、何度も人類は間違えた。何度も間違え、何度も否定し、それでもやはり同じ過ちを犯す。宗教や道徳が何の意味もなさないと悟り、機械的なシステム造りを押し進めた。それが人にとっての近代であったはずだ。我々はゆっくりと、"夜叉"たちの歴史を歩んでいるのだ。彼らは、いつか来る我々の姿だ」
システム化、掟と法体系の整備。その結果、自分達の信じる教義や正義、道徳を全て捨てなければならなくなった人類は、いずれは"夜叉"たちと同じように、自分の中にある情念をも捨てなければならなくなるのだろうか。
過ちを犯さないために、正義も愛も、邪魔な物でしかない。
夜も大分更けてきた。冷え込んだ空気が、そろそろ我慢出来なくなってきたが、アミヤは特に寒そうにもせず、テーブルの上の注射器を取った。
「ナノマシンなしで、一週間。今日打たなければすぐに死ぬというわけではない。だが」
アミヤは懐から、ナノマシン溶液のカプセルと、もう一つ、赤い溶液の入ったカプセルを取り出した。
「これは毒だ」
そう言って、毒だという赤い溶液の方をあたしに手渡した。
「毒は、人体。つまり、ヒトの部分を完全に壊す。燕玲の、燕玲である部分を全て殺し、しかし"夜叉"の部分には全く影響を及ぼさない。君が処置を下せば、我々は彼の遺体を収容し、遺体から機械細胞を抽出する。それで、もう一度新しく造り直す」
「殺せ、っていうの? 燕玲を……」
何を今更、という顔でアミヤはあたしを見つめた。
「君は、彼を憎いんじゃないのか? だから追い出したのではないのか」
「それは……」
あたしが言いよどんでいると、銃めいた注射器を押し付けてアミヤが言う。
「ナノマシンの方を打てば、燕玲は生命を維持出来る。毒はそのまま、彼の命を奪うものだ。これ以上、続けたくないというのであれば、毒を打て。貴重な検体を壊すことになるが、仕方ない」
仕方ない。実務的に、ごく簡単に、そんな素っ気無い科白を吐く。何の関心もない、何の感慨もない。いつも通りのアミヤだった。
「最後に教えてよ。あんたと、あの男は、一体何があったんだ?」
「あの男とは」
「ああ、つまり潘金劉のこと。何であいつの遺言なんて、そんな律儀に守るんだ?」
アミヤは、ちょっと考え込む素振りをした。言っていいのかどうか、判断しかねるというように。
「そんなことは」
だけど結局。
「君が知る必要はない」
過去、何かがあったことを思わせるような、どこか歯切れの悪い言い方だった。
燕玲のいる所、行きそうなところなんて、あたしには一つしか浮かばなかった。もっとも、燕玲が見られたという場所、またあたしがいつも夜になると連れ出しているところしか燕玲は知らないだろうという、当てずっぽうに近い理論だったけど、とにかくあの子が行ける場所なんて限られている。
直上に、三日月が掛かっていた。少ない月明かりの下で、それでも薄く浮き上がらせる影が、やがて燕玲の姿形を象らせていた。朽ちた鉄塔に寄り添うように、小さな体をさらに縮ませて、燕玲はそこにいた。
「燕玲……」
呼びかけても、風の音に消された。鉄塔の影に身をひそめた燕玲は、あたしの声を聞いても、何の反応も示さない。あたしのことを、恐れてのことなのだろうか。
そうではない。燕玲は聞く事が出来ず、また聞こえていたとしても返事をすることもできないのだ。痩せこけた体が、鉄塔の中でうずくまり、気を失っている。あれから一週間、ナノマシンの効用が切れているのであれば、燕玲はもう自らの体を維持することすらままならない。
だけど、それでは機械細胞すらも自壊してしまう。毒を打ち込み、ヒトの部分だけを破壊して、その後にナノマシンを打ち込む。そうすれば、当面欲しいデータを得るための細胞は維持できるそうだ。ナノマシンだけを打ち込めば、燕玲は助かる。同時に、機械細胞の”夜叉”の部分も維持できる。
燕玲だけを殺すか、そうでないかの違い。どのみち、機械細胞は維持される。
馬鹿馬鹿しい――。
燕玲の体を見下ろした。雪に埋もれるような形で、眠るようにして、死ぬのだろう。あたしが注射器を打ち込めば、痛みだって感じない。その方が良いかもしれない、燕玲にとっては。どうせ大人になれば、燕玲は兵器として消費されるのだ。
ロケット台が、見下ろしていた。かつて月に行った人類の栄光と、月に置き去りにした人々の痛みとが、そのまま横たわっていた。かつて月に行きました、彼らは同胞を見殺しにしました、そして今彼らは復讐を受けています、かつての移民達に。そんな陳腐な物語でも尽くせない、悲哀と屈辱の歴史だった。あたしが知る由もない、ヒトの歴史や過ちが、燕玲の小さな体にあった。過ちを避けるために、自ら人であることを捨てた、月の人類。過ちを繰り返さないために過ちを繰り返す、地上の人々。その二つ、どちらにも属さないもの――。
あたしは注射器に、赤い溶液を組みこんだ。悪く思うなよ、あたしはもう疲れたんだ。あんたの世話も、得体の知れない奴と同居することも、それによって見せ付けられる過去も、全部が全部終りにしたい。
白い首筋が露になっている。雪で掻き分け、薄い膚の、静脈の上に銃口を押し当てた。あたしは悪くない、あんたも悪くない。ただ、状況が悪かったんだ――言い訳めいたことを並べようとして、止めた。燕玲に届くわけがないし、所詮そんなことを言っても自分を正当化する文句でしかない。あたしはこいつを殺す、それでいいんだ。
引鉄に指を掛けた。もう指を引けば、それで全てが終るという、そういう距離にいた。
その時、燕玲の手元が光るのを見た。
最初、雪に埋もれていたのでそれが何であるのか、一見しただけではなかった。けれど燕玲は、それを大事そうに握り込んでいる。燕玲は、家を出るときには何も持っていなかったはずなのに、いったいなにを持っているというのだろうか。
周りの雪をかき分けた。それほど深くもない、きめ細かい沙雪が舞った。注意深く、燕玲の手を開き、光りを放つそれを見る。
瑪瑙の色――白金の鎖――上海で残した唯一の思い出。顔も思い出せない――アラスカで死んだ男――そこで受け取ったものは、それでも少しは、気の利いたものだと言ったはずだった。
あたしがあげた瑪瑙の勾玉が、小さな掌に収まっていた。だいぶ前に、あたしもすっかり忘れていた、人造瑪瑙の安物だからどうでもいい、というぐらいの気持ちで手放したものだった。
「何で、こんなもの――」
ふと思い出した。燕玲はいつか、ロケット台で何かをなくしたと言っていたではないか。そして、勝手に出歩いたときも、なくしたものを探しに行っていたと。それが、この勾玉だと言うのだろうか。
「何で」
安物の瑪瑙を、あたしが気まぐれであげたものを。そんなものを探すために、遠出をしたのだと?
ロケット台のどこでなくしたのかも分からない、雪で埋もれてしまえばもはやそこにあるという保証すらない。夜はそれでも見つからないから、昼間に、誰かに見つかるかもしれないような時に。こいつは、探しに行ってたというのだろうか。
こんな小さなもののために。
「馬鹿だろう、あんた」
どうせ聞いていないと分かっていたけど、あたしは言った。
「あんたは、こんなものに絆でも感じていたっての?」
どうせ届かないと分かっていた。
「こんな、安物。そんなことのためにあんたは」
どうせ分かるわけがないと、思っていた。
分からないままで良かったんだ。燕玲が何を思い、得て、失っていたか。そんなこと、片鱗でも知らなければ、あたしは迷いなく引き金を引けたのに。人類の、哀れな姿と、どうしようもなく繰り返す因果。その結果、生み出され、けれどどうしようもなくなって、処分された。そういう哀れみめいた物語として、処理することだってできたのにのに。
なのに何で、この後に及んで、あたしをかき乱すようなことをする。
注射器を離した。いったん離して、そして再び首に押し当て。
引鉄を引いた。
ロケット台から、燕玲を背負って丘を登る。東の空が、朱色に染まり始め、黒と藍、深い赤紫をにじませた空から、薄い日の光が差してきた。
「行ってきたのか」
アミヤは、あれからずっと家にいたらしい。家主がいないのに、そのまま人の家に留まり続けるというのは、それはそれでおかしな話だった。
「それで、どうした」
アミヤが聞くのに、あたしは燕玲を下ろした。眠ったままの燕玲は、何も反応しないが、かすかに胸が上下して、寝息を立てている。
「これ、返すよ」
赤い溶液の方を、アミヤに差し出した。特に驚くような素振りは見せず、アミヤはそれを受け取る。
「打たなかったのか」
アミヤが言うのに、あたしは注射器を差し出した。アミヤは空になったカプセルを取り出して、新しくナノマシンの溶液をセットする。
「もう一回、やってみる」
あたしは注射器を受け取った。ここからあと一週間後、またもう一度打ち込んでやらなければならない。
「馬鹿な女だ」
「そうかもね」
眠る燕玲の手には、しっかりと勾玉が握られている。あたしは、燕玲の頬に触れた。あたしが傷つけた膚は、薄く痕が残っている。
「あんたは前に言ったよね。自分の領域にない物の事は、誰も真剣には考えないって」
「そうだな」
自分の領域にないことは考えない。だから、"夜叉"たちは自らの領域を狭め、自分以外の全てのものを領域の外に置いた。
「あたしも、領域にないものなら。あたしの手の届かないところにこの子がいれば、呆気なく引鉄引けたんだろうけどね」
それでも、あたしの手の中にあった。その領域に飛び込んでしまえば、あたしは無視は出来ない。
「もう少しやってみる」
アミヤは無言で、煙草の灰を落とした。