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燕と夜叉  作者: 俊衛門
11/17

十一

 あたしは、どうやって帰ったのか覚えていない。

 無意識に車を走らせ、ロケット台を抜け、気づけば家の前にいた。異変はすぐに、気がついた。

 外出するときは固く家の扉を閉ざしていくのに、粗末な木戸からは錠前が外されて、扉は開け放されている。

 胸騒ぎがした。車からおりて家の中に駆け込むと、いつもはいるはずの姿がなく、テーブルには飲みかけたバター茶の湯呑みだけが置かれている。奥の寝室にも、やはり燕玲の姿はなく、乱れることなくきっちりと折り畳まれたシーツがマットレスの上にあるだけだった。

 冷たく、苦いものを飲み下すような心地がした。

 扉に走った。入り口を閉ざしていた複数の錠前は、すべて暗証番号式だった。それをいとも簡単に解除してしまう、燕玲の能力を低く見積もりすぎていた。あいつは、あたしがいない間も錠前を解除して、勝手に外出していた。その姿を見られたのだ。何で想像できなかったのだろう、あの子は三ヶ月目で言葉を解し、発することなど造作なくやってのけたのに。ふつうの子供と違うのに、あいつは”夜叉”と同じなのに。

 あの姿を見られたら――夫人は、会合が終わった後、町で買い物をしてから帰ると言ってた。もう、戻ってきてもおかしくない間だった。燕玲がどこまで行っているか分からないけど、だけどロケット台に行っているのだとしたら。そして、夫人と鉢合わせなどしてしまえば――。

「あの馬鹿っ」

 あたしは車に乗り込んだ。エンジンをかけるけど、あいにくとLPガスがほとんど底をついていて、なかなかエンジンがかからない。何でこういう時に限って、車を出したいときに限って、燕玲が家を出たときに限って。

 なんで、あたしだけこんな目に遭うんだ――。

「くそっ」

 やりきれなくて、けど何かをしなければと気が急いて、結局何もできなくて。そんなわだかまりが、口をついた。ハンドルにもたれかかって、窓を叩いて、すべてがうまくいかない、今を呪った。そんなことしても状況は好転するわけなどないのに。

 なんで、あたしだけ――!

 ふと顔を上げると、丘の稜線の向こうに、人影が揺らいでいるのを目にした。影は徐々に近づいて、夕方の靄と反射する金黄の陽光の中にある曖昧な線が、はっきりと形作る。

 車を降りて、あたしは影の方に向かった。

「燕玲、何をしているの」

 あたしの姿を認めた燕玲は、それこそ恐怖よりも、驚きを隠せないようだった。予想外の出来事があれば、誰でも思考を手放してしまう。今まさに、燕玲はそういう顔をしている。

「何をしているんだよ、あんた」

 燕玲が何かを言おうと、口を開きかけた。

 手を伸ばした。燕玲の、まだ柔らかく細い、栗色がかった髪の毛を掴んだ。燕玲が悲鳴を上げかけたのに、無理矢理髪を引っ張った。燕玲を引きずるように連行し、開け放したままの扉をくぐり、家の中に燕玲を連れ込む。

「何をしてんだよ!」

はずみで燕玲の身体を投げ出した。地面に倒れ込む燕玲を、さらに押さえつける。

「言え。どうやって錠前を解除したんだ」

 燕玲の目が見開かれる。恐怖に固まり、口は次のいいわけを探そうとして、でも何も言い出せず、それどころかどんな言葉も無駄であるということを悟っているようだった。

「言えよ」

 胸ぐらを掴んだ。小さく軽い体が宙づりになった。

「あ、あの……」

 ふるえる喉が、かすれた空気の音を漏らした。燕玲は力無く、あたしの反応一つ一つを確かめるように、言った。

「以前、金麗が――それ、外しているのを、見て……」

「へえ、それだけでねえ」

 あたしは襟を離した。燕玲は支えを失ったように、その場にしゃがみ込む。

「さすがだね、”夜叉”の血を持っていると、そういうところの進化はすごいんだ? 感心だねえ。錠前開けて、ついでに約束破る頭もあったんだ? なあ」

「ち、違――」

 それ以上燕玲が発することはなかった。無意識に降り上げた手は、等しく燕玲の右頬を張り、あたしの掌に熱を残す。予想以上に強く、思いの外荒く――殴った衝撃で、燕玲は倒れこんだ。

「何が違うんてんだよ、あんたはばれなきゃいいとか思ったのかよ。人に見られたらいけないって、あんたはふつうじゃないんだって、何度も言っただろ!」

 涙を一杯にためて、燕玲は下を向いた。それでも、声を上げることだけは、耐えているようだった。まるで自分が抵抗しないことで、それで許しを乞うているつもりになっているように。

「ロケット台なら、あたしは連れていってやっている。夜は好きにさせてやっている。それが何で不満だよ、何が気に食わない!」

「夜は……」

 涙声で、燕玲がつぶやく。あたしはよく聞こえるように、燕玲の首を掴み、顔を向けさせる。

「夜は、暗いから。だから、見つからないんだ……」

「見つからないだ? 何がだよ」

「暗いから、だからほんのちょっとなら大丈夫かなって、でも……」

 しゃくりあげて、詰まったような声で言うばかり。いらいらする。

 突き飛ばした。燕玲のすべてが、気に食わなかった。本当なら、もっとそれ以上にしてやってもいいことを、あたしはそれでもこらえているつもりだった

「ごめんなさい……」

 か細く鳴いた。ごめんなさい、ごめんなさい、と。何度か繰り返せば許されるという、卑しさが透ける謝罪だった。決して心からではない、ただ今ある恐怖のみを取り除けばそれで良いという意志があった。

「あんたは」

 どうしてこいつは、そんな風にしてられるのか。どうして自分が悪くないかのように振る舞えるのか。あたしが何をしたって言うんだ。

「あんたはどうして」

 何でこんな目に? あたしは何で、どうしてこいつのために――

「謝れば済むとでもっ」

 

 手を上げた。その瞬間に、周りから音が消えた。血が逆流して、膚の下の筋肉が不自然にうねり、思考が途切れた。

 

 わけもわからない衝動のまま、燕玲の頬を張った。不愉快な全てを消し去りたい一心だった。破裂音とともに燕玲が倒れ、そして血の滴が舞った。

「――え?」

 燕玲のこめかみから、血の筋が流れていた。白い膚に傷が、ただ一つのアクセントであるかのように薄く刻まれていた。

 自分の手を見た。中指の爪に、黒ずんだ血が付いた。殴った時に、あたしの爪が傷つけたのだろう。爪の間から、血の滴が一滴こぼれた。零れ落ちた血が、土に浸みて、黒ずんだシミを残した。

 燕玲の膚をなぞる血の雫が、まるで汗のように顎に滴り、燕玲の着る麻のシャツに赤い斑点となって散った。予想もせずにそれは鮮明で、本当にそれがヒトのものであるかのように綺麗な蕉紅色に染め上げる。

 燕玲はもう、謝る事もなかった。けれど抗議もしない、反抗的に睨みつけたり、哀れみを乞うようなこともしなかった。じっと頬に手を当てて、殴られたという事実を反芻するように、黙し、深い淵を臨むように俯いていた。

「あんたなんか――」

 あたしがそう言った、でもその言葉にはどれほどの熱が篭っていたのだろうか。うわごとみたいに口から出てきた言葉は、あたし自身の意思とは無関係のところから発せられているみたいに、現実味がない。

「あんたなんか知らない」

 けれど確実にあたしの言葉を借りて具現化した意思が、繰り返された。血を拭い、燕玲が立ち上がり、背を向けた瞬間、あたしはもう何も見ることが出来なかった。

 燕玲が扉を押して、出て行くまで。あたしはずっとそうしていた。


 燕玲は家を出た。


 夜の空気。冷え込んだ空間に広がる、まだ生まれたての気が満ちていている。気候の変動がここの所不安定であると報じられている中であっても、やはり冬は冬として機能していた。吸い込めば、肺の中一杯に凍りついた、細かな針を含んだような痛々しい空気が、体の内側から凍えさせるように。

燕玲が消えてから一週間。あの子の気配はどこにもなく、この家にも最初から存在しなかったかのように、何もなかった。全てが幻だったのだと、そう錯覚してしまうほど何も残さない。

 けれど、卓上に残った、銃を象った注射器。そして溶液のカプセルが如実に物語っていた。処分してしまえば、それで済む話なのだろうけど。

「それで」

 アミヤは尋問官よろしく、テーブルの周りを歩き回りながら問う。

「君は彼を追い出したというわけか。癇癪起こして」

「癇癪ってねえ……」

「そうだろう。君は少々、感情的に過ぎるからな」

「というか」

 あたしが顔を上げてアミヤの面を仰ぐ。少し、痩せたように見えた。頬の肉が削げ落ちて、瞼に濃い陰をつくっているのは、裸電球の光のためばかりではないだろう。

「何であんた、今頃来てんの」

「何故とは心外だ。君が来いといっただろう、あんな手紙を寄越してまで」

 手紙といえば、そういえばそんな手紙も出したような気がする。そう昔のことでもないのに、かなり久しい、それこそ記憶がかすむほどの過去であるかのような気がした。

「遅いよ」

 あたしはもう、自分の体も支えられないような気がしていた。肘を突いて、少し気だるい体をテーブルに預けるように、突っ伏した。

「遅いんだよ、あんたは。来てって言った時には来なくて、何もかんも終ってから来てもさ」

 でもアミヤは悪くない。理解しても、あたしは無理やりにでもそう思うことで、少し疲れた心の落としどころを探っている。そんな気分だ。

「燕玲と、何があったんだ」

 アミヤはテーブルの上の注射器を取り上げた。溶液のカプセルを出し入れして、何かがちゃがちゃといじくってから、またテーブルに置く。

「あたしには無理だよ、あの子」

 アミヤがその時に何をしたのかとか、そんなことはどうでも良く、そしてアミヤもまたあたしの口を突いた科白を、感慨もなく冷淡に受け容れた。

「どう無理だと?」

「あいつのこと、あんたは何の害もないって言うだろうけど。けれど、あいつの背中……」

「"飛天夜叉"の血のことを言っているのか」

 アミヤはもう、政府の役人が使う正式名称ではなく、普通にこの地方の”飛天夜叉”という俗称を我がものとしていた。

「何であいつをあたしに預けたって言ってたっけ?」

「今更それを聞くか?」

「潘金劉の遺言」

 どうしても父と言えない、男の名を呼んだ。

「そんな曖昧なもので、あたしのトコに来たんだっけね。娘を慮ってのことだか分からないけど、とんでもないもの遺したもんだよ、あいつは。あの野郎が余計なものこさえなければ、あたしだってこんな所で、あんなものを……」

 でも、その思いをどこかにぶつける事など出来るはずも無い。既に死んだ男に対して、恨み言も、罵倒も、虚しいだけだった。だからというわけじゃないけど、あたしが言える相手はアミヤしかいなかった。

「燕玲はどうしたんだ」

 アミヤはそのことを分かっているのかどうか知らないが、少なくともあたしの愚痴に付き合おうともせず、でも反論もしないで、あるがまま受け取ってそのまま呑み込んでいるように見えた。

「どっか行ったよ」

 別にそれでもかまわなかった、聞いてくれるなら。他愛も無く、こうして繰り返しているだけでも良かったんだ。そうするだけでも、大分楽になる気がする。

「前に説明したが、このナノマシンを打たなければ」

「知ってるよ。けど、だから何だっての? あたしに何をしろっての」

 アミヤは黙っている。あたしは続けた。

「あいつは、あたしの故郷を消した奴らと、あたしの弟を殺した奴らと同じなのに。普通の子供じゃない、異常に成長して、異常に覚えが良くて、とにかく何もかもおかしくって……ただの子供じゃない、あんな化け物の血を引いている奴が」

 あたしはただ、一呼吸でそう言って、でもアミヤの顔をまともに見る事も出来ず、吐き出したいだけ吐き出した。全部出して、そうしないとあたしはきっとパンクしてしまう。

危機感じゃなくて、予感みたいなものだった。

「化け物、ねえ」

 "金鵄"に火をつけ、いつもの定位置に陣取ったアミヤが、窓の外の月を見ていた。いつも通りに冷めた目で、物思いに耽るというわけでもなく、本当に眺めるだけの視線で。

「以前、君にも話したと思う」

 あたしのいう事を、肯定も否定もしないで、アミヤは言った。

「あのロケット台が、どういうものかを。ここに来る時に」

「ロケット台って、ああ」

 それもまた、遠い過去であるかのように、記憶にも残らないような、そういう意識の片隅に追いやった話だった。単純に興味がないとか、そういうことではなく、ロケット台の存在を毎日目にしていてもそこに至る経緯などあたしには何の関わりも持たない。そういう類のことを、いちいち覚えているはずもない。

「かつて月に行った人類の名残だっけ? そんな話を」

「だがその月移民計画も、暗礁に乗り上げた」

 紫煙は、夜の闇に溶ける。いくら存在を主張しても意味のない、そういう全てを代表するような儚さを以って。

「それも聞いた。だからなんだよ」

「でもこれは話していなかった。暗礁に乗り上げ、計画が頓挫した後も、月にはまだ移民がいたということを」

 初めて、アミヤの方から話題を振ってくるのに、あたしはちょっと信じられない気分でアミヤを見た。大体がこの男、話をするとなると大概が説教臭くなるから、内心身構えてもいた。

「計画が頓挫した理由は様々ある。環境の激変や、各国のパワーバランスが崩れ、紛争が各地で頻発したり、まあ色々だ。だが、そんな混乱の中で一方的に計画の終了が告げ、地上の政府は月にいる者たちに対して何かの補償もしなかった」

 だけど予想に反して、アミヤは一方的に喋るだけだった。いつか話した昔話の延長を、紡ぎ出すように。

「それが百年前。移民達を救済することなく、補償どころか一方的に地上との連絡を打ち切った。地上は月面の移民を捨て、一切の交通が断絶された」

「断絶、って……それは変だろ。月にだって、なんかこう、移動するロケットとかそういうのは」

「シャトルは限られていたんだ。もちろん、経済的に余裕のあるものは月を脱出できたが、多くは月に取り残された。当時の状況を知ることなどほぼ不可能だから、どういう経緯があったのかは分からないがな」

 "金鵄"が燃え尽きて、灰を落とす。くしゃくしゃになった箱から、アミヤは新たに煙草を取り出した。

「何もない、宇宙に。取り残された彼らは、自力で生きていく術を見つけなければならなかった。残り少ない食糧と、限られた空気が尽きるまで、彼らは月で、彼ら自身を生かすための道を模索した。遺伝形質を改造し、当時の持てる技術でヒトが宇宙に適応出来るようにしたと、記録ではそう残っている」

「あのさ」

 いい加減痺れを切らして、あたしは半ば遮るように言葉を被せた。

「それはいいんだけど、それがどうしたっての? 今それ、どうでもいいじゃない」

「分からんか、この話。では聞く、"飛天夜叉"はどこから来るのだ?」

「どこって宙……」

 ようやく、アミヤの意図するところが分かった。宇宙、仮性体のいる処。彼らは月からやってくる、蛇蝎のように嫌われる月の裏側から。

「"夜叉"たちは、確かに化け物かもしれない。だがそのルーツは、この上なく我々と近い」

 そう、告げた目線の先に、三日月が掛かる。

「彼らは我々と同じヒト。月に残された人類が、自らを造り換えた。そのなれの果てだ」


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