十
「あまり良い傾向ではないな」
燕玲の計測データを渡したときに、アミヤが言った。
「良い傾向ではない」
「なにがよ」
「燕玲の細胞計測のデータだ」
細胞採取、といっても燕玲の首筋の膚を金属メスでなぞり、こびりついた膚の破片を試験管に入れているだけなのだけど、それについてアミヤは言っているらしい。いつもはデータの数字を眺めて、基地に持ち帰るだけなのだけど、珍しいこともあるものだ。
「細胞がどうかしたの」
「転移している」
やっぱり中途半端に残したバター茶の湯呑みを置いて、口直しのつもりなのかしらないけど復刻煙草に火をつける。いくら状況が変わろうとも、その一連の動作は規定事項であるかのように。
「燕玲の体は、大半がヒトの細胞で構成されている。いずれ成熟したときに、ヒトの側に立つ存在とされるために、彼の体はヒトでなければならない」
煙を吐き出して、窓の外に目を向ける。これも規定事項。アミヤのいる風景が、ある種当たり前と化してきている。
「だが、ここにきて仮性体の構成する機械細胞が転移してきている。限定的に、飛行能力を有するためだけに残した仮性体の細胞が、元あったヒトの体の方を浸食しつつある」
何やら聞き慣れない単語が飛び出してきた。機械細胞、生身である細胞と、金属の機械を組み合わせた妙な造語は、なにやら狂気じみた実験の末に生み出された、悪魔的で胡散臭い発明品であるかのような響きがする。
「別に気が狂ったわけではない」
よっぽどあたしの顔が間抜けに見えたのか、アミヤは鼻先でせせら笑うように言った。馬鹿にしているとはいえ、この男が笑ったのを見るのは初めてかもしれない。馬鹿にされているのだけど。それはそれで腹が立ったけど。
「ヒトの細胞というものは、そもそもが高度な機械なんだ。分子を作り出すミトコンドリア、効率よく水分を吸収するゴルジ体、遺伝形質を決定づけるDNA……実に精密にそれらが噛み合い、駆動している。それはまさに機械そのものだ」
以外にもアミヤはロマンチストなのかな、なんてことを考えながら
「それで、その機械細胞ってのはふつうの細胞とどう違うのさ」
「奴らの素体は、金属で構成される。それは決して体外から接種した金属によるものではなく、自らの体内で生成するものだ。飛行能力、そして分子レベルで分解するあの光線も、すべてのメカニズムを内包した細胞。それが、彼らの持つ機械細胞だ」
燕玲が眠っている奥の部屋を振り返ってしまった。別に燕玲が起きてくるのを恐れたわけでは、ないけども。
「細胞には」
とアミヤは続ける。
「バイオ燃料の電池が内包されている。グルコースと、わずかばかり存在する星間物分子を元に電力を作り出す回路を、彼らは独自に細胞内に組みこんだ。それが彼らの生命力の源となる。炭素を基調としておきながらも、結果として炭素の体では生き延びることができない彼らは、細胞を完全に機械化した。今あるヒトの細胞よりも、より高度にな機械に」
「ああ、そう。よくわからないけどさ。じゃあ、いつかあの子が完全に"夜叉"になっちまうってことかい? そりゃ」
「今のところ、何とも言えないがな……」
どうも煮えきらない。あたしは少し声を荒げて、言った。
「はっきりしてよ。あんたは良いかもしれないけど、あたしはあいつと生活して、参っているんだ。この上、あいつが完全に、"夜叉"なんかになったりしたら」
「まあ、落ち着け」
嫌みなほどアミヤは冷静だった。もっとも、政府の安全保障を担っているのだから、たとえ軍人じゃなくともそのぐらいの度量は必要なのだろうけど。
「今は、細胞の転移が見られる。その程度だ。ほかの検体も、完全に仮性体と化すほどの変化はない。問題になるレベルではない」
「だからって……」
アミヤは分からないんだ。いくら数字の上で燕玲のことを知ったつもりになっても、実際にあいつに接しているのはあたしなんだ。計測のたびに、あの金属翼に触れ、日々成長する身体に、目測でも分かる筋肉量の増加に、あたしが何を思っているかなんて、データには現れないんだ。
なのに、平然と言い放つ。心配ない、問題ない。本当にそう言い切れるものか。
あんたは、何も分かっていないよ。
そんな言葉が持つ意味なんて、何もない。だから、飲み込んだ。
アミヤはあたしが黙っているのを見て、これ以上は何も言うことがないと判断したのか。時計を見て、言った。
「私はしばらく来れなくなる。溶液を一ヶ月分置いて行くからな」
「来れなく、って。何でまた」
「軍が動いているからな。そっちの方に時間がとられる」
「あれはインドの方でしょ。何であんたが?」
「馬鹿を言うな。軍が動くということは、理事会も動く。北面部隊とて、無関係ではない」
「ああ、そうなの。てっきり、あっちはあっちで動いているものだとばかり」
「暢気なものだな」
その響きに、嘲りの意はくみ取れなかったが――
「どういうことよ」
「別にふつうのことを言ったまでだ。市井の人間は、自分の身にふりかかることでもなければ、ひどく単純に無関心になる。いくらラジオで危機を伝えても、実感がわかない人々には、税金と、酒や塩の値上がりの方が大事と見る」
「うっさいね、あんた」
元々こういう奴だったけど、さすがにあたしも少し、大人げなかった。普段なら聞き流すことも、いちいちかみつく。
「あんたみたいなお偉いさんには分からないんでしょうけどね、あたしらも日々の生活に追われている。危機は感じているけど、それにばかり気を取られるわけにはいかないじゃない。あんたは庶民の暮らしなんか知らないんだろうけど――」
「私はシアトルの出身だ」
あたしが最後まで言い切ることを許さない、断固とした口調でアミヤが遮る。
「庶民か富裕層か、と言えば前者の方だ。だが、どちらであっても、君たちが人類の危機よりも自分の身近にあることを危惧する。そのことは何一つ、間違いはない」
まるであたしが落ち着きを取り戻すのを待つかのように、間を空けた。わざとらしく作り出した沈黙の中、生命活動ごと止めたようにアミヤの目は、じっと瞬きもせず、あたしの瞳ごと貫いた。たっぷり三十秒ほど、そのままにしていた。
目を逸らした。気恥ずかしさからではなく、明確な敗北を刻みつけられたという気分に、させられる。まるで付け入る隙など見せない、確固たる意志に裏付けられた瞳の前に。
「そして悪いことではない。誰もが、自分の領域のことしか考えないように出来ている、またそうでなければヒトはヒトとして存続は出来なかった。君たちは正しい、私もまたそうなのだから。世界のことなど考えられない、自分のことだけを考えていた」
アミヤは"金鵄"に火をつける。煙の匂いは、そのままアミヤ自身の気配だった。この家の、至る所に満ちている。
「自分の領域、手の届く場所、パーソナルスペース……そこあるのは、己自身だけだ。その領域に飛び込んだものに対しては、迎え入れるか排除するか、それを自らの意志で決めることが”愛情”などと呼ばれる。けれど、最初からその領域にないものには何の感情も生まれない。感情の発露は、今ある自分の領域にあるものに対してのみ起きうるものだ」
「それは」
意味を理解するよりも先に、あたしは訊いていた。
「あんたの哲学なのかい?」
「ごくごく、一般論だ。もう何万回と繰り返されただろう、当たり前に抱く定説の一つにすぎない」
細く棚引いた煙が、螺旋に巻いて、空中で霧散した。薄い線状の形が崩れて、境界もなにも曖昧な粒子の幕となって広がり、空気中に溶けてゆく。その様を、ひどく緩慢で呆けたような視線でアミヤは見送った。
「無関心でいるうちは、少なくともどちらもない。君たちは正しいよ、領域にないものをわざわざ取り入れる必要はないし、関心を持つことはない。無関心であること、ヒトにとって健康的な状態だ」
何をもって健康的と言うのかわからないが、そもそもこんな話をしたところで、何かの益になるということでもない。アミヤもアミヤで、他愛もない世間話、という風に喋っている。だから、アミヤの言葉が意味するところなんて、あたしは全くわからなかったんだ。
しばらくは来ない。その言葉通り、アミヤは全く顔を出さなくなった。一ヶ月といっていたが、それすらも飛び越して、もうそろそろ三ヶ月経つ。本格的な冬の到来、まるで針を含んだように凍り付いた空気を肺一杯に満たし、ひきつってしまったような手のひらをすり合わせて、氷の手指を温め、最初は降り積もる雪が珍しかったのが、今では朝から降ってるのを目にしたらうんざりする。そんな時期だった。
雪の季節だからといって観察が終わるということはないが、警戒レベルは引き下げられたらしい。というのも、連日連夜、仮性体の居場所を突き止めたと騒がれていたが、いざ情報通りに動いてみれば予測ポイントに仮性体の群は現れなかったのだ。出現位置はアフリカ、パナマ以西であるとされていたが、仮性体の姿はどこにもなく、その情報源が疑われ始めていた。
天文台の設備の改善と、情報伝達の精度の向上。当分の課題は、その二つに絞られた。ヒマラヤの天文台は今、急ピッチで改修工事を行っている。資材を運び込むトレーラーと低空ジャイロが、忙しく雪の中を往復しているのを、あたしは何度も目にした。改修工事を行いつつ、観察も続ける。そんな状態だから、アミヤはもう、基地の方に忙しいらしい。溶液は、基地から届けられるようになり、一週間ごとに来る軍の定期便にデータを託すようになった。そんなものがあるのなら、最初からそれを使えばいいのに、とも思ったが、多分今まではそういうところから経費を削っていたのだろう。
あたしはナノマシン溶液を受け取る。計測し、ナノマシンを打ち込み、数字をつづり、パック詰めして――そういう日々だった。燕玲の成長が、また再び始まったのを受けて、あたしが計る値も、日々大きくなっていった。今では燕玲は、来年小学校に上がる、と言われても不思議はな体格にまでなっている。
「服が欲しい」
アミヤに向けた手紙に、そう書いた。あたしの服ではない、燕玲に合った服だ。あたしの「子供」は、まだ小さいことになっている。子供服なんて買いに行けば、変に勘ぐられるかもしれない――と、そこまで書いたわけではないけども、アミヤはちゃんと六歳の男の子が着るような服を送ってきてくれた。
またさらに、手紙を書く。
「防寒着が欲しい」
果たして防寒着が届いた。ナノ単位で冷気を遮断するとかいう軍使用のガウンだった。
「暖房器具が欲しい」
果たしてペレット式の、薪炭ストーブが送られてきた。ガス燃料式と併せて、使った。
「それで、いつ来るの?」
手紙を送った。返事は来なかった。
会合で、奇妙な違和感を覚えるようになった。それは何一つ重苦しさも伴わない、ただ何というか、どことなくぎこちなさがある。それは皆があたしを見る目つきだったり、さりげなく送る目配せやささやく声の中にあった。
あたしの知らないところで、あたしについての事柄が、あたしに断りもなく進行している。そういう、空気だ。
「あんたのとこの子供、最近見ないな」
この発言は、村の長の息子によるものだった。あまり話をしたことがなく、従ってどういう素性かも分からないが、一番不審そうな目をしている。
「この間、あんたの子供を見たぜ。ロケット台の近くにいたな」
等しく、胸を貫かれるような。あるいは心臓を抉られるような気がした。夜に燕玲を連れ出している、そのことを言っているのだろう。
「それは人違いじゃないの? あたしは見ていないけど」
李夫人が口を挟んだ。
「燕玲はまだ小さいのよ。ロケット台といえば、ここからかなり離れているじゃない。そんなところに一人で、なんて無理よ」
「小さい? 小さいってなんだよ。俺が見たのは、もう七歳ぐらいのガキだったぜ」
確かに、燕玲はそのぐらいの体格にはなっている。けどそのぐらいの年齢の子供はどこにでもいるし、何も燕玲であるという証拠はない。
「じゃあ、燕玲じゃないんじゃないの? その子」
と夫人が訊くのに、
「けど、あの辺りに家はねえ。基地が出来てから、ほかの連中もほとんどが下に降りてきて、あの丘にはそいつの家ぐらいしかないんだ。いくら子供の足では遠いっても、町の子供はそれこそ、丘を登んなきゃならねえってのに、何でわざわざそんなところに行くかねえ?」
「でも……」
「あんたのとこの子供」
村長の息子は、それこそ不信感をそのまま絵にしたような顔をしている。
「どうもおかしいよな。あんたがここいらに越してきたときは赤ん坊だったと思ったけど、でも最近違う。あんたの家の周りでたまに子供を見るんだが、あれはあんたの子か? だとしたらおかしいだろう、どう見てもうちの子と同じぐらいの年齢だ。兄弟でもいるってのか? なあ」
そういって夫人に訊く。
「あんた、こいつの家に行ってたよな。兄弟はいたのか? 赤ん坊一人だったって言うなら、明らかにおかしいだろう。どうがんばったって、赤子が小学校に上がるぐらいにまでなるはずがない、この短期間では」
夫人はそれまであたしを擁護していたが、そこで初めて、同じように不信感を内包したような表情になった。夫人は見ているのだ、燕玲が不自然に成長している様を。もちろん見られたのは初期段階のときだから、現在の燕玲の状態がどういうものなのかは知らないはずだ。
けれど、夫人は――
「燕玲は、別にふつうよね?」
ある疑念を抱いた、その疑念が確信に変わりつつある。そんな様を、目の中に浮かべていた。
「何も、ありません」
だから気取られないように、あたしは平静を装った。出来るだけ自然になるように、でも嘘を突き通すには、それだけではないもっとも強い信念が必要だった。
「その子は多分、別の家の子です。燕玲はまだ一人で外には出られません。あの子はまだ一歳にも満たないのですから」
そう、燕玲は一歳にも満たない。ここにきたときは生後三ヶ月で、ここにきて半年経っている。一人で歩けるような年齢ではない。
そんな年齢ではないんだ。本来なら。
村長は、あたしたちのやりとりを見て、さすがにあたしに同情したのかあるいは会合の進行を妨げたくないのか、自分の息子をいさめる形で止めに入った。おまえの見間違いだろう、というようにあくまでも穏便にことを済ませ、あたしの方にはすまないね、と一応の謝罪の言葉を述べた。村長にとっても、ほかの人たちにしても、深く突っ込んだところまで追求しなければならない話題でもなく、それ以上何かをいうことはなかった。
ただ一人、李夫人は、会が終わるまでずっと、懐疑的な視線を向けていた。
夫人の疑いは、燕玲がそのような、想像を越えた速度で成長しているということが十分にありうるということ。その前段階を、夫人は知っているのだ。