一
空想科学祭2010参加作品
夢の中では、いつも同じ色をしている――柔らかな風の思い出と、髪をくすぐる小麦畑の景色だ。鮮やかで、どこか輪郭が曖昧で――そういう、夢の中。
風景は、黄金色をしていた。小麦の波が風の足跡を刻む。木々の葉が裏返って、銀色の背を見せ、枝葉が鳴り響いて心地よく奏でていた。山々の、緑色の稜線が空と交わり、蒼と混ざり合う頂に刷毛で伸ばしたような雲が掛かる。雲の隙間から伸びる光が伸びて、刃のような鋭利さで地に突き刺さる。
小麦の穂が頬を撫でて、腕と足に絡みついて、ほどけ。その感触を確めながら走っていた。二つ下の弟が駆け回るのを、あたしは追いかけていた。何度つかまえようとしても、するりとあたしの手をすりぬけてしまう弟。笑っていた。いつの間にかあたしが追いつかないぐらいに足も早くなっている。嬉しくて、でもまだ負けられない意地もあって、ほとんどムキになって追いかけた。
弟の手を取る。引き寄せて、抱きついて、転げ回った。柔らかな頬の感触が嬉しくて、くすぐったくて二人で笑った。笑い転げて、泥だらけになって、弟をしっかりと抱き寄せて――。
夢から覚めるとき、生々しく残った体温が物語る。二度と戻らない全てを、手繰り寄せても捕まえることができない事実を知る。ふと胸を突き上げてきた哀しみが、そのまま黴の臭いのする空間に霧散して、胸の内に棘を残して。
薄暗闇の中で、唯一存在を主張するものだった。白金の鎖に、瑪瑙を削りだした勾玉を掲げた。
「いいデザインだろう」
毛布に半身を包み、ベッドの上で半身を起こした男が、筋肉質な腕を伸ばした。指が、勾玉に触れ、次にあたしの頬を撫でた。
「あんたにぴったりだ」
ただ欲を満たし、浮世を忘れるために設けられた場所で、名も知らない男から物を贈られるとうことは殆どないものだ。軍管理の慰安所で、基本的に軍票以外の物のやり取りは禁止されている。やり取りされるものは、薬だとか武器だとか、非合法のものが民間に流れるのを危惧してのことらしい。とは言え、各部屋に別に監視の目があるわけでもなく、贈答が禁じられているとはいってもそんなものは一種の建前だった。
「どういうつもりなんかね。こんなんで、あたしの気を引こうっての?」
「そういう穿った見方、嫌いじゃない」
身を乗り出してランプを点けると、真鍮の台座と唐草文様の寝台が、橙の光とともに浮き上がる。この部屋の唯一の装飾とも言える。あとにあるものは簡素な構造の、朽ち木めいた天井の梁と黒く煤けたような壁。中央に鎮座する寝台の他に、主張するほどの家具は無い。
「あんたのために選んだんだから、大事にしてくれよ」
「良く言うよ、その辺の露天商で買ったような安物でさ」
勾玉を吊っている白金の鎖を首に提げた。小さいながらもそれなりに映えるつくりをしていて、意外にも胸元を飾るに足る輝きを放っている。
「似合うな」
「そ、ありがとう」
「本気で言ってんだぜ?」
「怪しいね、たかだか三日通った男になびくほど、あたしは安くないよ」
「つれねえ」
男は、心底残念そうに言う。
「そろそろ、行く時間じゃないの?」
あたしが言うと、男は腕時計を確かめた。年代もののアナログ時計だ。今となっては珍しい、ネジで回すタイプのクラシカルなデザイン。
「まだ、時間があるぜ」
薄汚れたマットレスに身を預けて男が手を伸ばし、あたしの体に触れてきた。胸から下、下腹の膨らみとその先にある茂みをまさぐって、求めてくる。
「この先は別料金よ」
こういう客は多いものだ――男の手を取って、押し止めた。規定は規定、守ってもらわなければ損をするのはこっちだ。
「つれねえことを言うなよな。どうせ、あの世に持っていけるものでもなし」
「あっちに行くなんて、別にあんたの都合よ。それでもこっち側に、きっちり落としてもらうから」
「きっついな」
男はマットレスから飛び起きて、服を着始めた。下着の上に防弾仕様のスーツを着込み、ベルトには単分子式のナイフ、銃器の類が収められている。人類軍共通の迷彩服を着込んだ男の階級は、伍長だった。第拾参方面部隊特有の三つ首犬の徽章、藍色のベレー帽を被る。
「浮かない顔してんな」
軍人の男が話しかけた。
「照明のせいでしょ」
「軍用列車が出るまでの間に、惚れ込んだ男がいなくなるのが辛いか」
「馬鹿言わないでよ」
こういう軽口にいちいち付き合ってはいられない。あたしはベッドに腰掛けて、脱ぎ散らかした肌着を身につけた。木綿の胸当てが締め付けてくるのに、少しばかり窮屈だったけど我慢して、擦り切れたショーツと化学繊維の夜具を着込む。
「アラスカまでどのくらいだっけ?」
別に男の行き先なんて、興味はなかった。けれど、あたしを抱く前に男が言った事が突然脳裏をよぎった。ほとんど意図せずに吐き出された言葉に、男はなんだか照れているように笑う。
「何だ、心配してくれてんの?」
「しないよ、馬鹿。聞いてみただけだ」
「何だ、残念」
ランプの光でブーツの紐を結ぶ男の顔は、よく見れば相当若かった。まだ二十歳前後ほどで、あどけない顔している。端整な顔立ちだった。しかし左半分を覆いつくす火傷の痕に晒されて歪なものとなっている。
「おおよそ四十時間ってところ? もっとかかるかな。大陸間列車って、たまに停まるんだよな」
「随分かかるんだね」
「まあな。連中がいるんじゃ、飛行機も飛ばせない」
これでも昔より短くなったんだぜ、といいながら男は乱れたシーツを綺麗に伸ばして、元の位置に戻した。別にそんなことは宿の人間がやるのだけど、軍人特有の律儀さなのだろうか。そんな心の声が表情に表れたのか、性分だと男は笑った。
「"アザゼル"なんて、どこから来るか分からない。なにせ、どんなに航空技術が発達しても、陸から飛ばすしかなかったのが俺達の限界。奴ら、いきなり宙から来るんじゃあね」
「"アザゼル"?」
「ああ、こっちじゃ"飛天夜叉"っていうんだっけか。アザゼル、聖書の外典、エノク書に出てくる堕天使のことだよ」
「エノク書だかなんだか知らない。あたし、あんたたちの神に祈ったことなんて、ないし」
「それどころか、どんな神にも縋らない、って顔している」
そんな顔をしているつもりはないのだが、相当辛気臭い面を晒しているのだろうか――だからといって、今更愛想良くする気にもなれず、"金鵄"の煤けた箱を取り出して一本取り出した。日本の古い煙草だというけれども、特に他の銘柄と変わったところはない。フィルターがないから、煙草の細かい葉が口の中に入り込んでくるのが煩わしいくらいだった。それでも最近では嗜好品が値上がりして、あたしの稼ぎで買えるのはこの位だから我慢して吸う。
「大陸間の移動なら、奴らに見つからないのかい?」
「それでも夜間の移動になるな。次のを外せば、あと十時間は出ない。それじゃあ、確実に作戦には間に合わない」
作戦――宙から飛来するあれを、自走式の高射砲で撃つ。当たりもしない火薬弾頭を浪費することのどこが作戦なのか。人類軍が置かれている状況を連合は必死で隠したがるけど、殆ど誰もが知っていた。宿にいる女の子達も皆、口々に噂している。人類軍はそうとうに追い詰められて、成す術も無く奴らの吐き出す光に晒され、ひたすらに骸の山を築き上げる。世界各地で同じことが行われていた。戦闘とも言えない虐殺、作戦と呼べない無謀な特攻が繰り返されて、それでも空中のあいつらには傷一つつけられない。今では空は人のものではなく、"夜叉"たちのものとなっていた。アラスカの作戦行動だって、どうせ後方も無く終るんだ。この男も。
「奴らに、目にもの見せてやるよ」
そういった男の言葉もどこか空虚に響いた。世界中で彼の仲間が、どんな最後を迎えたか。自分がどこに向かうのかを、何もかもを飲みこんでいるような顔だった。
「まあ、頑張ってよ」
「はは、嬉しいね。でもそこは御武運をとかじゃないのかな」
「そんな学はないからね。性に合わないことはしないんだ、あたし」
「あんたらしいな」
出会ってからほんの一夜。たった一夜であたしのことを分かったつもりでいるのだろうか、こいつは。
「そろそろかな」
ベレー帽を被り直して、男は窓の外を見やる。大陸間列車の、発着時に奏でる古びた汽笛めいた音が、港湾の街を震わせた。列車はこの後、四十五分間停車する。恋人や家族たちと、別れを惜しむために作られた、最後の時間。
「お前さん、名前なんて言ったっけ?」
男が突然、聞いてきた。名前なんていくつあるか分からないけども、あたしは特に考えることもなく言った。
「金麗よ。潘金麗」
「そうか、まあ縁があったらまたあおうぜ金麗」
「そうやってまた来た軍人は、あたしは知らない」
「俺は別だ」
そういって、男は首から下げた銀色のプレート――ドッグタグ、とかいったか――掲げて見せた。プレートは何枚もあった。
「俺は悪運が強いんだよ。こいつら全員がくたばっちまっても、俺一人、生き残った。今度だってまた生き残る」
「そういうことなら、カノジョにでも言ってやりなよ。いるんでしょ、一人や二人」
「二人もいるかよ」
寂しげに、男は窓の外を見た。軍人たちは二度と会うこともない家族と語らい、わずかな時間を過ごしている。
「五年前にな。連中が俺の故郷に現れた時に。嫁が一人いたんだけど、街ごと消し飛んじまった。俺は余所にいたから助かったんだけどな。それが一度目。二度目は、こいつらと一緒だった」
ドッグタグがふれあって、金属音を奏でた。ステンレスの地金には、あたしの読めない文字で刻まれている。軍人たちの、訳もなく消費される名前の数々。たった一筋の光の元に、かき消えてしまう無名の男たちの。
「三度目は、おそらく戻らない」
「何だい、ずいぶん弱気になったじゃないか」
「臆病風に吹かれたかね」
自嘲気味に男は笑う。よく笑う男だった。自分が楽しいからではなく、そう思えない自分を誤魔化している。そういう笑い方だった。無理に笑って、取り繕って、恐怖とか重圧とかから逃れたがっているという感じがした。
「あんた、名は?」
あたしが訊くと、男はちょっと驚いたように顔を上げた。
「何よ」
「いや、あんたが俺の名なんか訊くから。性に合わないことはしないんじゃないの?」
「気まぐれって言葉もあるわよ。それで、何て言うのさ」
男はちょっと考える仕草をして、言った。
「ジム・トロード、だ」
「そう、ジム」
列車の発車まで、あと三十分ほどとなっていた。男は――ジムは、外套を羽織った。焦げ茶色の、剛性繊維で編み込まれた軍正式採用のコート。
「また、来なよ。気が向いたらさ」
「ああ」
扉を開ける――閉める、その間際。ジムが最後に、振り返った。
「また来るさ」
確かかどうかも分からない言葉を、残して。