主人公を打ち切りたい
小説は、作者が好きなように編集できる。
面白くなければ削る。
展開が気に入らなければ書き直す。
主人公の行動が気に入らなければ、別の選択をさせる。
何度でもやり直せるからこそ、完成度を高められる。
一方で、現実は編集できない。
みっともない回も残る。
退屈な回もある。
何も進まない回もある。
「なんでこんなことをしたんだ」と後悔する回もある。
小説なら、作者の判断で削除されてしまうような場面でも、現実ではそのまま残り続ける。
「あのときの自分は、なんであんなことをしたんだろう」
そう思っても、ページを破り捨てることはできない。
過去に戻って、主人公を別の場所へ歩かせることもできない。
そして、何より厄介なのは、現実では自分自身が主人公だということ。
小説なら、
「この主人公、嫌いだな」
と思えば、書き直せばいい。
「こんな展開は面白くない」
と思えば、打ち切ってしまえばいい。
主人公が間違った選択をしたとしても、作者はその先を書かなければいい。
しかし現実では、そうはいかない。
嫌いな自分も、そのまま自分だから。
みっともない自分も、そのまま自分。
やり直したいと思ったところで、その場面を消すことはできない。
「あのとき、別の選択をしていれば」
と思っても、すでにページはめくられてしまっている。
だから、次のページを書くしかない。
小説なら作者が編集してしまうような場面も、人生ではそのまま残ってしまう。
みっともない回も残る。
退屈な回もある。
何も進まない回もある。
「なんでこんなことをしたんだ」という回もある。
しかし、それらを消せないからこそ、 後から振り返ったときに連続性が生まれる。
小説なら削除されるような無駄な場面が、人生ではそのまま残る。
そして何年後かに、
「あのときの無駄な回があったから、ここに繋がったのか」
となることがある。
もちろん、必ず意味があるという話ではない。
現実には、本当に意味のない失敗もある。
努力したのに何も得られないこともある。
あの時間は一体なんだったんだ、としか思えない出来事もある。
それでも消せない。
消せないまま、次のページに進むしかない。
そう考えると、現実というのは小説よりもずいぶん不親切な物語なのかもしれない。
伏線を回収してくれる保証もない。
過去の失敗が、未来で必ず意味を持つとも限らない。
主人公が成長するとも限らない。
むしろ、何話経っても同じところで躓いていることだってある。
それでも物語だけは続いていく。
作者が「ここで打ち切り」と宣言することもできない。
読者から「この主人公は嫌いだから、別の主人公にしてください」と言われても、交換することはできない。
自分で自分を書き直すこともできない。
だから、仕方なく次のページを開く。
昨日の自分がどれだけ気に入らなくても、今日の自分はその続きから始めるしかない。
そして今日の自分がまた失敗すれば、それも明日の自分に引き継がれる。
そうやって、本人の意思とは関係なく物語は続いていく。
小説を書いていると、つい「面白い人生」というものを考えてしまう。
劇的な出来事があって、伏線が張られて、最後には綺麗に回収される。
主人公は挫折を乗り越え、成長して、以前とは違う人間になる。
そんな物語なら、とても美しい。
けれど現実は、そんなに都合よくできていない。
何も起こらない日がある。
失敗したまま終わる日もある。
自分でも呆れるような選択をする日もある。
それでも翌日はやってくる。
昨日の続きを、今日も生きる。
もしかすると、現実の面白さはそこにあるのかもしれない。
作者が完璧に整えた小説なら、無駄な場面は削除できる。
けれど人生では、無駄だったのかどうかすら、その時点ではわからない。
十年前には意味がなかった出来事が、十年後になって突然、別の出来事と繋がることもある。
逆に、十年経っても意味がないままの出来事もある。
それでも、そのページだけを切り取って捨てることはできない。
全部、自分の物語だから。
だから今日も、気に入らない主人公を連れたまま、次のページを開こうと思う。
できれば、次の回ではもう少しマシな選択をしてくれることを願いながら。




