Luse Hue Sea
階段を駆け上がる。
ずきずきと全身の骨が痛むが、そんなものに構ってはいられない。屋上の扉の鍵は開いていて、勢いよく開け放てばコンクリートで固められた縁に、妃花が立っていた。
先日の雨で出来た大きな水たまりを、病院のスリッパで踏みしめる。視界の端がやけに暗い。その水音に気付いた彼女が、冷めた目で俺を見下ろした。
「…ひめ」
「来ないで」
名前を呼ぶ声が掻き消される。彼女は静かに俺から視線を外し、その小さな肩を震わせながら――
身体を宙に投げ出した。
「妃花ッッッ!!」
叫んだ俺の隣を、風が過ぎ去る。縁には誰かが居て、下を覗き込んでいる様だった。
ふらふらとその人に近づけば、彼は妃花の腕を掴んでいて。「手伝って」と声を掛けられ、その身体を屋上へと引き戻す。
「…何で、助けたの!? もう、生きていたくなんかない…、私の事なんか放っといてよッ!!」
青丹色の髪に今様色の瞳。
彼は妃花の背を撫でながら、妃花の罵詈雑言を全て受け止めていた。それこそ、全てを背負う覚悟で。
――俺は。
妃花の恋人である俺は、何も出来なかった。
全てを背負う覚悟も無かった。ただの、弱虫だ。
視界が黒く染まって行く。もう何も見たくない。
結局俺には、何も救えなかった。妃花のヒーローには、――
「皇牙く~ん、お、き、て~」
ふと、目を覚ます。嫌な夢を見ていたらしい、バクバクと心臓が跳ねるのを必死で抑えながら、俺は自分を見下ろすその人の目をじっと見つめ返した。
「…おはようございます」
「はい、おはよ~。もう呼んでも来ないから部屋迄来たら爆睡。疲れてた?」
その人の名前は奉日本乱。自分が今身を置いている連龍会で、直参の立場にあるヤクザ組織を率いている人。良く笑い、良く怒り、――組員の為に、弱い立場の人の為に、自分の命も厭わないどうしようもない人。
「…いや、アラームかけ忘れてました」
「あは! ほら、打ち合わせ始まるよ? 君が居ないと始まらないんだから、皇牙君」
そう言えば乱さんは俺の肩を叩いた。
九頭竜皇牙、大層な名前だなとつくづく思う。胸やけがする位強そうなものが羅列した名前。本人は至って穏やかな生活を望んでいるのに…等と思いながら、俺は漸く重たい腰を上げて自室から出た。
奉日本組のやる事は大体荒事だ。連龍会に反旗を翻しそうな組織を見つけてはねちねちと情報を集め、治安維持の為に〝話し合い〟を設けて交渉が決裂した場合は〝お仕置き〟をさせて貰う。
連龍会以外のヤクザと数多の犯罪がひしめき合う〝波隆一番街〟を取り仕切っているのも奉日本組。化野団地やその他の地域での金融、風俗、不動産関係は他が担っているが、此処だけは奉日本組独自の取り仕切りを行っている。
理由は二つ。一つ目が、此処が一番関西の極道組織〝千華連合〟が集まりやすい場所である事。二つ目がその千華連合に太刀打ち出来る頭のいかれた集団が奉日本組しか居ない事。
そして今、その一番街の全体統率を担っているのは俺だ。
「今日は一番街の全体報告しないとだからね~、少なくとも全部を任せて貰ってるんだから、いい報告はしたい所だけど」
ちらり、と乱さんが俺の方を見る。一週間前から口煩く報告書を作れ作れと言われ、のろのろと書類を作成させられていたのはこの所為か。未だに眠たい目をぱちぱちと瞬きさせながら俺はそれに答えた。
「犯罪率は一部減ってます。半グレ達が千華より、俺らに着いた方が安全だと思ったからでしょう。千華は平気で…、人を切りますから」
言い掛けた言葉が詰まる。俺はその惨状を良く知っている。高校時代を全て、そこで過ごしてきたのだから。足の止まった俺の方を振り向いて、乱さんがにこやかに笑う。
「…本当に君が来てくれて良かったよ、皇牙君」
千華の恐ろしい所を語れる存在であり、そこから生き延びた逸材。他の組の構成員達は乱さんが俺に利用価値を見出したのだと口を揃えて言うが、奉日本組の人間はそれが完全に間違っていると確信を持って言えるだろう。
――あの人は打算で、人を助ける事は絶対しないですから。
何時か本部長である彪に言われた言葉を思い返す。あの時の空はもう黒かった。
最後に思い出せるのは雨上がりの晴れた青い、青い空に浮かぶ、彼女の姿だけ。
淡い桃色に染めた髪と彼女の好きな黄色のカラーコンタクト、違う自分になりたいから、あの両親に似ていると言われたくないから、と言う理由で何度も整形を重ねた彼女。
元気だろうか、今何をしているのだろうか。
そう思いを馳せる日々だ。
もう、会う事は許されないだろうけど。
俺は、島原で生まれた。そこは鏡都の山奥を拓いた広大な土地にあり、まるで全てから隠されるようにひっそりと都市が広がっている。碁盤の目の様な並びで、古い家屋がずらりと建てられており、一般的な都市部にある様なビルはなく、コンクリート作りの研究所や団地、工場がひしめきあっている工業地帯と言う印象があった。
工場と家屋が隣り合っている事も珍しくなく、その所為で空気は淀み空は何時も霞がかっていた様な記憶があった。
アパートの一室に帰れば泣き濡れた母がいる。かと言って俺の姿を視認すれば鬼の形相に成り代わり、怒号や、ものを投げる毎日だ。
〝御前なんか産まなければ良かった〟、〝彼奴から逃げられないのは御前の所為〟。
そう言ってはヒステリックに泣き叫んで、また疲れて壁に凭れて泣き通すだけ。
父はあまり家に帰ってこない。俺が物心ついた頃から他の女の所に行く事が多くなり、止めようとする母を殴る光景が日常茶飯事となった。朝になれば父が残して行ったと思われる、少し香水臭い生活費が机の上に乗っているだけ。そんな生活が何年も続き、母は精神を壊してしまったのだと思う。
父は生活費と学費だけは支払ってくれていたのか、俺は難なく中学に通う事が出来た。しかしそれが、母にとっては〝息子だけ父に愛されている〟と感じる様になり、中学二年生に上がった頃から自分に暴力を振るう事が多くなっていった。
弱い母の力だから、正直痛くもかゆくもなかったけれど、「何でこんな事をするのだろう」と言う疑問だけはずっと心の中に残っていて。
もしかしたら自分はもうここに居ちゃいけないのかも知れない、と思う様になって島原でそう言った子達が集まる街の広場に通う様になった。
元々島原の中でも覚せい剤や犯罪は身近に横行していて、両親にクスリをやらされそうになっただとか、虐待から逃げているだとか、売春を強要されているだとか、そんなどうしようもない子達と共に寒くても朝を迎えられる安心感は計り知れなかった。
そこで知り合ったのが、楊内妃花だった。
薄い桃色の髪に黄色の瞳。日本人離れしたその容姿に最初は戸惑ったけれど、何度か話して行く内に妃花はその理由を悲しそうに語ってくれた。
「…元々、父の虐待が酷かったの。それを母はあたしが父により愛されているって勘違いして、父が居ない時は母に殴られてた。…あんな親から生まれたって思われたくなくて、似てるって言われたくなくて、バイト…あは、ま、身体売ってお金貯めて整形したの」
「…」
どうしてそんな勘違いするんだろうね、と妃花はぽつりと呟いた。
どうも答えられない。自分は母親ではないから。
それでも、もしかしたらこうなんじゃないかと言う自分の考えを吐き出す。
「……元に、戻りたかったんだと思う」
自分が居なかった、子供が居なかった、あの時の二人の仲に。
言葉で言っても伝わらない悔しさを、不安を自分で発散していたんだと思う。
妃花はそれを聞いて、――顔を歪ませて吐き捨てる。
「…じゃあ、ヤんなよ…。あたしは産んで欲しいなんて頼んでなかったのに」
「…そうだね」
もう取り戻せない日々を願う母も、もうどうしようもなくなった自分達も、惨めだ。消えてなくなりたいと願ったって、自分で死ぬ勇気もないのだから。
それから数年、暫くはネカフェに泊まりたまに売られる喧嘩を買いながら、バイトをして広場で駄弁ると言う生活を送っていた自分だったが、十七の時ある一人の男に声を掛けられる。
「以前、君と喧嘩して負けた大人から聞いてんけど。君めっちゃ強いらしいなぁ」
褐色の肌に紫の髪をオールバックにした中年男性。誰しもが知っている。千華連合に所属している半グレ組織〝蛛廻糸〟の中の【団居】と呼ばれる一つのグループ、そのリーダーである萩生田美早だ。とどのつまり、自分が以前戦った相手はヤクザの端くれだったと言う事だ。
どこかの漫画か何かで見た事がある、確か落とし前つけろみたいなので拉致されて海に沈められたりされるんだっけか…、等とぼんやり思っていたら萩生田は一枚のカードを差し出してきた。
「…名前、と住所?」
「名刺や。…君、萩生田組に来やん? その腕、買いたいなぁ思て」
「…俺が、ヤクザに?」
広場に居た子達からどよめきが起こる。何せ千華連合は西部最大の極道や半グレ、共生者が入り乱れる組織、東部の連龍会とは比べ物にならない程の枝会数と構成員を束ねているのだ。そこの一次組織のリーダー格から直々に声を掛けられたのだから。
ウチのグループに入れば階級にもよるけどまぁ稼げんで、最初は雑用やけど荒事得意なんやったらそっちでええ所迄いける思うわ、等美早からするすると説明を受ける。この時俺は一刻も早く働いてこの街を出たいと考えていたものだから、稼げると聞いて断る選択肢は消え去った。
一晩考える猶予を貰い、早速妃花にこの事を話す。好感触かと思われたが、妃花は怪訝な顔をしていた。
「…蛛廻糸って、凄く怖い所だって聞くよ? 大丈夫なのかな」
「まぁ、言う事聞いてればいけるんじゃない? 盾突く様な事さえしなければ」
確かに蛛廻糸の悪い噂はかなり聞く。リーダーの一条真澄はただ興味の為に人を殺すし人を食べる等の話も聞くし、萩生田自身も使えない部下は容赦なく切り捨てるとも。
この時は妃花の言いたい事を上手く汲んであげられなかった様に思う。今更後悔したって遅いけれど。
「…そうなのかなぁ、心配だよ」
「…大丈夫、何とかやってみる。…まとまった金が手に入れば、東部に行こう。ここから出よう」
「……うん」
妃花は無理矢理に笑顔を作って頷く。
正直、金の為なら嫌な事は我慢しなければいけないと思っていた。それが度を越えたものでなければある程度妥協はしなければならないと、バイトをこなす上でちゃんと理解していた。
――入った先で、地獄のような光景を見た。
その矛先は常に自分ではなかったが、メンバーの悲鳴が毎日必ず奥の部屋から聞こえていた。時には仕事している部屋で一人のメンバーがミスについて延々詰められている様子を強制的に聞かされもした。そして決まって、そのメンバーは翌日には跡形もなく消えているのだ。
なのに、血の匂いが残る仕事部屋で、何事もなかったかのように笑顔で振る舞う美早や周りの組員達の態度に、自分だけが拒否反応を示してしまった。
耐え切れなくなってしまった。ヤクザってこんな仕事なのか。一度のミスで殺される様な、そんな所だったのか。考えが甘かった。そしてそれを良しとして、自分は助かっているから大丈夫だと笑える様な人間なのか。そんな所で、やって行ける自信が無い。
それでも歯を食いしばって、精神を病みそうになりながらも俺は何とか数年の勤務で得た給料全てを持って、妃花と駆け落ちをした。何も教えられていないから、仕事机の上に辞職願を出して。
「東部には連龍会が居るから、流石に千華連合は堂々と入って来れないよね」
部屋探しをして小さなアパートを借りて。少ない荷ほどきをしている最中だった。妃花が窓の外を見ながらそんな事を呟く。
「…波隆一番街には近づかない事。あそこは千華連合の密偵が居るって噂だから。それ以外ならきっと大丈夫。公然で何かしてくる様な奴等じゃないさ」
「…そうだね、…これでようやく、新しい生活が始まるんだね」
新しい自分になりたい。そんな妃花の願いを叶えてあげたくて、「じゃあ、東部に二人で行こう」と出会った最初の頃に冗談ぽく言ったその言葉が、まさか現実になるなんて思わなかった。
空は青くて、太陽の光が地面に届いてキラキラと輝いている。綺麗に整備された道と建造物。初めてビルと言うものを見た時、レジャー施設に行った時、アパートの窓の外に沈んでいく真っ赤な夕日を見た時、二人で感動した事を覚えている。
全てが上手く行っていた、そう思っていた。
階段を駆け上がる。
ずきずきと全身の骨が痛むが、そんなものに構ってはいられない。屋上の扉の鍵は開いていて、勢いよく開け放てばコンクリートで固められた縁に、妃花が立っていた。
その日は珍しく大雨で。
でも冷蔵庫に何もないから買い物だけしておくね、と朝に妃花が言っていて。気を付けてね、と言えば皇牙君もね、と返されて。
仕事から帰宅して鍵を開ける。電気もついていない部屋を見て、まだ帰ってきていないのかと言う思いより先に〝何かあった〟と結論付けた。急いで電話をかけるものの、繋がらない。既読にもならない。お昼の連絡には返してくれていた。
そこから、何かがあった。
先日の雨で出来た大きな水たまりを、病院のスリッパで踏みしめる。視界の端がやけに暗い。その水音に気付いた彼女が、冷めた目で俺を見下ろした。
何度目かの電話が繋がる。然し出た声は妃花ではなく、中年男性のものだった。
「…ひめ」
「来ないで」
名前を呼ぶ声が掻き消される。彼女は静かに俺から視線を外し、その小さな肩を震わせながら――
身体を宙に投げ出した。
「はっ………、え……なん、で……」
美早の指示した倉庫の中に入れば、掠れた声が自然と漏れ出た。
血だまり。所々に落ちた衣服。汚れた鞄、割られたスマホ。その先に白い肌が見える。
「妃花ッッッ!!」
そこから数日後、ようやく目が覚める。主治医が言うには倉庫内で血まみれになって倒れていた所を奉日本さんと言う人が助けてくれたらしい。全身の骨が歪に音を立てる。かなり執拗に暴力を振るわれた様だった。それでも、喉から声を絞り出して彼女の名を呼ぶ。
「…楊内、妃花は…、一緒に、倒れていた、女の子は」
「嗚呼、彼女も横のベッドで……」
ふと主治医の声が途切れる。何事かとゆっくり首を回せばそのベッドには誰も眠っていなかった。
嫌な予感が脳裏をよぎる。その瞬間、〝見つけなければ〟と言う気持ちに身体が反応しベッドから飛び起きた。
後ろから主治医の声が聞こえるが、俺の身体は全く言う事を聞かない。
痛みが後からやってくるが、そんな事は気にしていられなかった。今は早く、一刻も早く。屋上への道を探せば、やっぱりそこには妃花が居て。そうして、後は繰り返し。
妃花の恋人である俺は、何も出来なかった。
全てを背負う覚悟も無かった。ただの、弱虫だ。
視界が黒く染まって行く。もう何も見たくない。
結局俺には、何も救えなかった。妃花のヒーローには、――
病室のベッドに戻され、ぼんやりと窓の外を見遣る。
そうして気付いた。
色が、なくなっているのだ。
青かった空も、白い雲も全て灰色がかっている。初めは気の所為か、殴られた後遺症なのかとも考えたが、それは退院する当日まで続き、たまらず主治医に話せば色々と検査をされ、「後天性の色覚異常」だと言う事を伝えられた。脳にとんでもない負荷やストレスがかかると、そう言う事が引き起こされるらしい。
その検査と治療方針の打ち合わせが長引き、結局退院日が一週間ずれ込んでしまった。少ない荷物を鞄に詰めて病室から出る。入り口には主治医が立っていた。
「…お世話になりました」
そう言って頭を下げ、ふらふらと歩き出す。病院から出れば蒸し暑い空気が肌にまとわりついて、思わずため息を吐いた。兎に角今は家に帰って、――そう考えてはたと気付く。
自分に帰る場所なんかあるのだろうか。あの家はきっともう萩生田組の奴等が突き止めている。もしかしたら働いている職場にも自分が元ヤクザの組員だと言う事がバレているかもしれない。そうしたら、自分の帰る場所なんて。
ピロン、といいタイミングでスマホの通知が鳴った。恐る恐る画面を見てみれば自分が働いている職場の社名が映し出されている。件名は『今回の事故について』。
嗚呼、バレてしまった。
それなら中身を見なくても分かる、と半ばやけくそでその通知を消す。
あてもなく歩いて行けば、あのアパートの前まで辿り着いていた。嫌な予感はしたものの、自分の荷物もあるのでここには帰らなければならない。震える足に鞭を打って、鉄製の階段を上る。
アパートの部屋の鍵は、開いていた。
「……は、」
中は悲惨なものだった。泥だらけの靴跡が幾つも床を汚し、衣服や小物は床に投げ出され踏み荒らされている。通帳や財布は跡形もなく持ち去られていた。――妃花の分まで。
と、コンコンと開けていた部屋の扉をノックする音が聞こえる。その方向へ視線をやれば大家さんが無表情で立っていた。
「…あの、」
「退去費用は要らないから、キチンと掃除して明日までに出て行ってね」
それだけぴしゃりと言い放つと、大家さんは自分に目もくれずさっさと階段を降りて行ってしまった。自業自得だろう、それなのにどうしようも出来なくてつい視界が波打つ。誰が見ているかも分からないけれど、その表情を隠す様に下を向いた。すると、
「あ、いたいた。皇牙君」
少し掠れた、子供っぽい声が響く。思わず顔を上げれば、そこには青丹色の髪の青年が天狗下駄をカラカラと鳴らしながら脱ぎ、部屋に入って来ていた。
「…あ、あの、誰」
「俺? 奉日本乱。名前くらいは聞いた事、あるんじゃない?」
「…たかもと」
名前を復唱してはっと思い出す。自分が倉庫内で血まみれになって倒れていたのを助けてくれた人の名前だ。てっきりどこぞの漁師のおじさんが助けてくれたのかと思っていたのだが、まさか自分と同い年位の人だったとは。
緋色の羽織に龍があしらわれた黒いシャツ、袴の様なデザインのパンツを履いた、奇抜と言えば奇抜な出で立ちの彼は背中に背負っていた大きな荷物を床に置いて一呼吸ついている。
「嗚呼、その節はどうも、ありがとうございました。…あの、何か?」
「いえいえ、あそこは奉日本のシマだからさ~、よそ者が入って来ると必然的に連絡が来るんだよね」
「へぇ、……ん、シマ? まさか…」
引っ掛かった言葉に、ばっと視線をそこに向ける。乱さんの左胸の辺りにはしっかりと想像していた通りの、代紋が刻まれたピンバッジがつけられていた。思わずひゅ、と喉が鳴る。後退りしようとした自分の腕をすかさず彼は掴んで、自分の方へと引き寄せた。
「君の事は調べさせて貰った。西部にある千華連合蛛廻糸のメンバーなんだってね」
「…否、あそこはもう、辞めて…」
「皇牙君、知らないだろうけど仮にもヤクザみたいな組織、辞表ごときでは辞められないよ」
「え」
すっとんだ声を上げれば、乱さんはくすくすと声を抑える様に笑いながら「やっぱり知らなかったんだ」と呟いた。
「…だから蛛廻糸の奴等は連龍会のシマに危険だけど乗り込んできたって事。辞表を突きつけられて辞めるのを認めれば面子が丸潰れだしね」
「……そういう事だったんですね」
乱さんの言葉を聞けば、掴まれていた腕を振り払ってふらふらと部屋の外へ向かう。
「…何処行くの?」
「萩生田さんの所です」
「行けば殺されるかも知れないよ?」
「分かってます」
どんなに望んだってもう妃花との日々は帰ってこない。きっと自分が逃げ続ければ命の助かった妃花もまた危険に晒される危険があるし、自分だってまともに生活していけないだろう。
それならもう楽になりたい。どうせ、何もしなければ野垂れ死ぬ運命だった自分の人生だ。後悔なんて残っちゃいない。
「別にやりたい事もありませんし、出来る事もないので」
そう言って踵を返そうとすれば、また腕が掴まれた。
くすんだ灰色の瞳が、自分を見つめる。口角を緩めた唇から、言葉を紡ぐ。
「だったらさ、奉日本組に入りなよ。やりたい事、見つかるかもしれないよ?」
「…は?」
突然の乱さんの申し出に、一瞬思考が真っ白になる。
奉日本組に入る? 蛛廻糸もまだ抜けられていないと言うのに? 言いたい事は山ほどあったが、それより先に乱さんが口を開いた。
「だって蛛廻糸に戻っても殺されるんじゃ勿体ないよ。もうささっと九頭竜皇牙君は連龍会のものになりましたって言った方が、蛛廻糸も手出しは出来ないと思うんだよね。そしてこれは楊内妃花さんの為にもなる」
「…妃花の?」
「連龍会の人間の彼女だよ? 気軽に手なんか出したら連龍会が怒る。千華連合はまだ連龍会とは喧嘩したくない筈だ。れん、…千華連合の人間からそう聞いてる。だから君が奉日本組に入りさえすれば万事解決な訳」
「……」
乱さんは優しい笑顔で自分を見守っていた。それでも自分は首を横に振る。
「…それでも、俺は連龍会には入れません。迷惑を掛けますし、妃花を守る為と言うならそれこそ自分が死んでしまった方がもう二度と狙われる事はないんじゃないでしょうか」
「…頑固だなぁ。…じゃあ分かった、西部迄行く旅費は持ってる?」
「え? あ」
そう言われて通帳等が入っていた棚の方を見る。勿論そこに通帳はなく、無残に中の物が床に散らばっているだけだった。
「…その旅費を稼ぐバイトの様なものだと思ってくれればいい。また一から面接して住む場所も探してなんて、面倒でしょ?」
「……」
乱さんの言い分に、自分は何も言い返せなかった。確かにそうすればすぐに明日からでも働けるし、何より。
「…もしかして、住み込みですか?」
「勿論、住む場所も食べるものも保証してあげる」
待ってましたとばかりに食い気味で乱さんが頷く。これ以上に良い話はない。
だからこそ、自分はその話をまるっと信じる事が出来なかった。――タダより高いものはない、と言う事だ。
「…その仕事って、タコ部屋とかですか?」
「……」
俺の発言に、乱さんがきょとんとした表情を見せる。
次の瞬間、部屋中に響き渡る様な声で大爆笑され――俺の言葉は何処かへ吹っ飛んで行った。
「あはは!! タコ部屋なんて知ってるの? 物知りだねぇ~、でもそれは労基第五で禁止されてるよ。嗚呼、隠れてやってる所は未だにあるだろうけどね」
「……はぁ、そうですか……」
こんなに笑われると思っていなかったからか、顔が熱い。昔見た漫画に確かその事が載っていた様な…だから覚えていたのかも知れない。
一頻り笑い飛ばした後、乱さんが着ていた羽織を脱いで「さてと」と声を上げる。
「じゃあ、始めようか」
「え、何を?」
余りにも突然の号令に、ぼけっと突っ立っていれば、乱さんは自分に手袋やビニール袋を押し付けた。そう言えば、と顔を覗かせれば乱さんが持って来た荷物の中身が見える。モップに雑巾、何かしらの薬剤も入っていた。
「退去掃除! 二人だけなんだから気合入れてやるよ」
「……嗚呼、否、奉日本さんに掃除させる訳には」
仮にも組長なんだし、と言う言葉は乱さんの次の言葉で掻き消された。
「俺掃除好きだから別にい~の。あ、でも自分の部屋とかはあんま掃除したくないタイプでさ」
「はぁ…」
あれよあれよと言う間に話題が置き換わり、乱さんからの質問に答えつつ自然と掃除の手を動かす。その時点で、この人は何か違う人だ、と察しがついた。周りを巻き込んで、大胆な事を提案する割にはちゃんと考えていて。自分を奉日本組に引き入れるなんて、最初は何かその場凌ぎの方法かと思ったが、よくよく考えれば一理ある。
妃花はきっと西部には戻らないだろう。それなら連龍会が取り締まっている玖都で安全に暮らせるはずだ。自分が監視をすれば良いのだから。
「皇牙君、キッチンの排水溝やば汚いよ!? ちゃんと掃除しないと~」
ぼんやりと床掃除をしていれば、上から乱さんの声が降って来る。何か答えようと口を開こうとすれば「この電子レンジ最新のじゃん!」と、もう違う話題にすり替わっていた。開いた口の行き先が見つからない。
「……変な人」
俺は無意識に微笑んで、また掃除に取り掛かる。
外はもうすっかり暗くなっており落ちて行く陽が、夜が来る事を告げていた。
「お疲れ様~」
かしゃん、と缶ビールが軽くぶつかる音が響いて、俺と乱さんはすっかりピカピカになった部屋の中で小さすぎる打ち上げを始めていた。
こんな所で飲み食いしたらまた汚れませんか? と言う問いには笑顔で、だったら汚さない様に食べてね? と返された訳だが。久しぶりに美味しいと感じた味の余韻に浸っていれば、その様子を乱さんが横目で見ているのに気づき、慌てて表情を戻せば隠す様にビールを煽る。
先程迄やる気も食欲も何もなかったはずなのに、今じゃお腹が減って、身体中筋肉痛で、暖かい布団で寝たい気分だった。これは何て言うんだっけ、確か充足感。
「…少しは元気出た?」
足を投げ出して座る乱さんが目を細めて微笑みかける。
意気揚々と肯定するのも何だか恥ずかしくて、まぁまぁですと答えればそれで充分だ、と呟いた声が聞こえた。
「まだまだやり直せるよ。大丈夫、一緒にがんばろ」
「…はぁ」
果たして本当にやり直せるのか。幾ら食欲が出てきたとしても将来への不安は拭えない。生返事を返してふと、疑問が思い浮かんだ。
「……、何か…乱さんって、凄い世話好きですよね。別に放っといても良い人間の事、助けたがるし」
「え? そう?」
「巻き込まれたくないから、助けない人、見て見ぬふりする人だっていますよ。…少なくとも、妃花と貴方は何の関係も無い。自殺を止める事は、野暮だと思わなかったんですか?」
「え、うん。思わない」
語気を強めて投げ掛けた言葉は呆気なく返された。
乱さんはと言うと、まるで野暮の意味が分からないかと言う風にきょとんと首を傾げている。
「…人生滅茶苦茶で、帰る場所も無くて、頼れる人もいなくて…そうなったらもう死ぬしかないでしょ。死んだ方が幸せに」
「ならないよ」
矢継ぎ早に言葉を並べるものの、乱さんはしっかりと自分の目を見て否定した。
それだけで、次の言葉が出なくなってしまう。
「…腕を掴んだ時、彼女は掴み返した。恐怖で顔が歪んでいた、確信したよ。未だ死にたくないって彼女は思ってる。やり直せるチャンスがどこかにないか探してた。そんな人、死んだ方が幸せになんてなれる訳がない」
「…」
「死にたいって呟いてても、薬飲んでも、飛び降りようとしても、まだやり直したいと心の何処かで思ってる人は居る。ならそのチャンスは俺があげたい」
「…恩を仇で返されたら? 裏切られたらどうするんですか? 誰もが、貴方に感謝して良い事をするとは限らない、俺だって…」
もしかしたら千華に、萩生田さんに許してもらう為に、貴方の情報を売るかも知れない。
そう言えば、乱さんは暫くぽかんとしていたが、また表情を崩して微笑んだ。
「…本当にそんな事考えてるんだったら、今ここでばらさないでしょ」
「…た、例えです。そう言う危機感とかはないんですか?」
「無いよ」
その瞬間。
乱さんの瞳が俺の心臓を射抜いた。呼吸を忘れる。まるで心臓を鷲掴みにされている様な、指一本でも動かしたら終わりの様な、張り詰めた感覚。
その中で、彼は静かに口を開く。
「俺はチャンスをあげるだけ。その後の事は知らない。それはその人次第で、幸せにも不幸にもなる。でも自己責任だよね、自分が選んだ道、だから俺に歯向かおうとしても、俺を売っても、或いは裏切っても構わない。全員返り討ちにするだけ。その覚悟を、俺は持ってるだけ」
「………ぁ」
掠れた吐息を漏らすのが精一杯だった。軈て彼がにこりと笑うと、一気に身体中の力が抜け、冷汗が噴き出る。
勝てない、きっとこの人には永遠に。そう、思い知らされた気分だった。
「勿論、俺の為に何かしてくれる子とか、感謝を忘れないでいてくれる子には俺ももっと力になってあげたいって思うよ。当然の事だよね」
「…なる、ほどですね…」
「俺は神様じゃないけどさ、全員平等にチャンスを掴む権利はあると思うんだ。それをモノにするかどうか、そこが格差社会とか差別になってる要因の一つでもあるんじゃないかな~って。結局九割行動次第なんだよ」
「……後一割は…?」
空っぽになったビール缶をくしゃりと握りつぶす。
こういう事は言いたくないんだけどね、と前置いてから乱さんは静かに呟いた。
「運」
「……運、ですか」
「君が俺に出会えたのは、彼女を助けられたのは運が良かったから。だからここからが君の行動次第」
そう言って袋にゴミを詰め込むと、乱さんは荷物を持って玄関へ向かう。
じっとしているのも憚られたのでお見送りにでも行くか、と立ち上がろうとした自分に、乱さんは声を掛けてきた。
「今日はゆっくり休んで。明日十時から、宜しくね、皇牙君」
玄関の扉がゆっくりと閉められる。中途半端に立ち上がっていた俺は行き先を失い、結局玄関の鍵を閉めてまたすぐ同じ場所に戻り、その場で寝転がる。
一人きりの部屋はがらんとしていて、無性に虚しくなった。何時もは妃花の作ったご飯を食べて、バラエティ番組を二人で観て、妃花が先に眠くなるから、隣の寝室から聞こえる穏やかな寝息を聞きながら残った仕事をしていた。
「………本当にもう、終わったんだな」
ぽつりと呟いた言葉は誰に聞かれる訳でもなく、夜闇に消えて行った。
翌日、午前十時。連龍会前に自分は居た。千華よりは小さいものの、しっかりとした佇まいの本部を前に緊張している自分が居る。今日からここで働くのか…上手く行く未来が想像できなさ過ぎて、早くも重い溜息が出た。と、
「皇牙く~ん、おはようおはよう」
軽快な声が門の向こうから響く。何時もの羽織や袴姿ではない、緩いジャージに身を包んだ乱さんときっちりとスーツを着こなす男、何故か目を布で覆った女が俺の前に現れた。
スーツの男は分かる。でもこっちは誰…? 明らかに困惑している自分の表情に気付いたのか、乱さんが手を差して紹介を促した。
「連龍会直参奉日本組、本部長の琴継彪です。宜しくお願いいたします」
「あ、はい。ええと、九頭竜…」
頭を下げようとした瞬間だ。
自分の懐に、先程の女があり得ない速度でしがみつく。
「いぬがみだよぉ~~~~~!! おっき~~ねぇ~~」
「え? は、な」
「ひめか? いろないの~? ちだ~、ままこわぁ~~い」
「ちょ…」
「はぁい、狗神。そこまで」
何も言葉に出していない筈なのに、女――狗神の口から俺の情報が吐き出される。驚きに身体を動させないでいると、彪と名乗っていた男が無理矢理狗神を引き剥がした。
「すいません。狗神、触れてる相手の情報を延々と読み取っちゃう癖がありまして」
「…く、癖…」
癖と片付けるには難し過ぎる彼女の癖に、何を返せばいいのやら分からなくなる。が、暫く冷静に考えてみれば思い当たる節が一つ。
「……共生者、ですか?」
「…」
狗神は相変わらずきゃっきゃと騒いでいたが、一瞬で二人の顔つきが変わった。何か不味い事を言っただろうか? と困惑する俺を他所に、乱さんが「とりあえず立ち話もなんだから中入って」と俺の背を押す。
中は酷くこざっぱりしていて、丁寧に掃除が行き届いている様だった。廊下を歩き、中庭に廃材や何かしらの器具が散乱しているのを訝し気に眺めながら、奥の小部屋へ通される。座布団と机、照明があるだけの簡素な部屋。客間と言うよりは控室の様な。
「彪君、お茶汲んできて。狗神は?」
「く~~!」
「クーね。多分冷蔵庫に残ってると思うからそれ持ってきて」
「はぁい」
彪が一礼してから部屋を出る。狗神は乱の傍で今は大人しくしている様で、それを眺めていた乱さんが視線を俺の方へとずらした。
「…さて、君を雇う前に少し聞きたい事があるんだけど良いかな」
「…はい」
ばさり、と机上に数枚の写真が並べられる。千華連合の一次組織のトップとその若頭だ、こんなものどこで撮られたのか。と、不可解な写真を一枚、手に取る。
「…これ、自撮りなんですね」
千華連合に所属する半グレ組織〝冀翼会〟会長、阿刀田恋司。明るい空色の髪に黄色いメッシュの入った褐色の男だ。主に島原全般の風俗を担当していた。写真の中の彼は余りにもぎこちない笑顔で自撮りをしている。――他は盗撮の様に全員の目線が合っていないのに。
「…恋司はね、ちょっと前に俺が助けた事があって。そこから見返りに千華連合の情報を流してくれてる。これは今現在の一次のトップとそのサブリーダーだね? …恋司を除いたこの中で共生者は何人? 勿論、知ってる範囲で良い」
「……」
指が動く。確か記憶の中では桃色の髪をしていた青年と阿刀田さん、そして浅紫色の髪の男性を並べる。
「…俺が知ってる共生者はこの三人、です。後萩生田さんも、共生者だと思います」
「……成程」
千華連合所属〝蛛廻糸〟リーダー、一条真澄。
千華連合所属の半グレ組織〝零れ萩〟リーダー、四十八願弥吉。
弥吉さんに至っては、自分が蛛廻糸に入った当時に見た頃からこの写真の現在に至るまで、全く姿形が変わっていない。老いが見られないのだ。一条さんはそれこそ見た目では分かりにくいものの、良く萩生田さんが一条さんの能力について口にしていたので知っている。
蜘蛛が、ルーツで足が生えるとか何とか。聞いただけでおぞましい。
「他の人達は知らない? 何か、断片的に覚えてる事はない?」
「…ん~~……、あ、この人は〝つゆりさんは偉大なるお狐様や〟って阿刀田さんと言い合ってました。龍剣会については殆ど会った事がないので何も知りません」
狐目の青年の隣に写る深緑の髪の男性を指差す。見切れてしまっているが確かこの人は若頭だった筈だ。そんな事を思っていると、乱さんが苦い顔をして息を溢す。
「……へぇ、お狐様ってお稲荷様って事? 神格がヤクザにねぇ。九重さんクラスがあっちにもいるって事…」
「…どうして神格がヤクザになってるんでしょう…」
ガサガサと写真をしまいながら、乱さんが「恐らく」と言葉を続ける。
「何かしら千華連合と契約しているとか…、見返り、取引をしているとか? そうでなければ、あんなヤクザ組織に身を置く理由が分からない。態々人同士の争いに身を投じる神格なんて居るのか…」
「…千華は、ゆくゆくは連龍会を攻撃する気でしょうか? 俺は水面下で何が行われているのか分かりませんが、壱番街には既に千華の人間が入り込んでるって噂がありますし」
「状況的に鑑みて、ゆくゆくはそうだろうね。東部を乗っ取って全国統治みたいな野望が千華にはあるのかも知れない」
ありがとう、聞きたい事はこれで終わりだよ、と乱さんが言ったのと同時に彪が部屋に入って来る。てっきり熱々の緑茶が出てくるかと思ったが、お盆に乗っていたのは冷えた麦茶だった。
「今日最高気温二十九度なんですって。冷たい方でいいですよね」
「気ぃ利く~有難うね」
「…あざっす」
全員でごくごくとそれを飲み干す。気温については気にしていなかったが、身体に冷たい感覚が行き渡れば、漸くそこで自分はうっすら汗をかいている事に気付いた。
六月の下旬だと言うのに、もう夏みたいな気温になるのか。これじゃ八月がどうなるのか…と人知れず心の中で愚痴をこぼしていれば、乱さんが徐に書類を数枚取り出した。
「さて、皇牙君。ここからは奉日本組に住み込みバイトする為の手続きだ。少しの間だけど、君には奉日本組がどういった事をしているのか、キチンと覚えて貰わないといけない」
差し出されたそれにはずらりと文字が羅列されていた。恐らく契約内容なのだろう。萩生田組の時はこんな事しなかった様な、どちらかと言うと会社の契約書に近い。
「奉日本組は連龍会で荒事を担当している。勿論、それぞれの一次組織も強い人達はいっぱいいるけど、それぞれの業務…例えば蛇牀組は金融業と不動産業、天宮城組は風俗業等結構でかめのビジネスを持ってる。だからその代わりに、俺達が表立って抗争やその火種を潰して行ってる感じ」
「……そうなると、奉日本組はビジネスを持ってないんですか?」
「いや、建設業を持ってる。ただ他よりも割合仕事がシンプルだから、荒事も任せられてるって感じかも。心は争いごと苦手だし、聖さんは持病持ってるしって感じで無理が出来なくてね」
「…成程…」
「そして俺達は波隆壱番街の全般の管理もしている。千華が入り込んだ、連龍会以外のヤクザが沢山いる無法地帯ね」
「…え」
乱さんが書類を捲る。そこには波隆壱番街に存在しているヤクザの名前がずらりと並べられていた。
「他のヤクザに連龍会のルールは通用しない。でも壱番街で働いている堅気の人間はいっぱいいる。その人達に危害を加えない様見張り、法律違反の事をしたら取り締まる。それが俺達の仕事だよ」
「…それ、警察のする事では」
「玖都は諸事情で警察があんま機能してないんだな~。特に壱番街なんて警察なんて関係ねぇ殺してやるって息巻いてる奴等が多いし、あそこには交番も立ってないし…。誰かが何とかしなきゃならないんだよ」
「…へぇ……」
正直意外だった。玖都のどこに行っても一般的なお巡りさんやパトカーが巡回しているのを見た事があるし、スピード違反したバイクをこれまた猛スピードで追い回しているパトカーも見た。なのに壱番街には警察が居ない。そこに住んだり、働いている人達にとっては恐怖そのものでしかない。
そう思うといかに波隆壱番街がやばい所なのか、想像に難くないだろう。…もしかして。
「乱さんが、そこの警備を買って出たとか?」
一瞬の沈黙。その答えを発表したのは真顔で手を叩く彪だった。
「大正解~。本当、やんなっちゃいますよね~、まぁそこで働いてる人達全員と話し合ってマージンは少しは取れますけどほぼボランティアですよ? どんだけ仕事増やすんだってさ」
「いや、彪君には振ってな…」
「ア・ン・タ・の!!」
ぐいっと顔を近付け怒鳴る彪に、流石の乱さんも何も言い返せない様だ。細い身体を丸めて申し訳なさそうにしている。
「大体! 何で部下に振らずに自分で片付けようとするんですか?! アンタのやるべき事はもっと他にあるでしょうが!! 睡眠!! 食事!! 体を休めること!!! 日々のパトロールとかそう言うのは部下に任せておけばいいんですよ!! 何で泥仕事を率先して引き受けるかなぁ~この人~」
「ごめんて…だから人手を用意したんじゃ~ん……」
ガミガミと母親の様に怒鳴る彪に、それでも尚謝意を感じない乱さんの態度が何だかおかしい。これが奉日本組の日常なのだろうな、とぼんやり考えていた所で〝人手〟と言うワードが頭に引っ掛かる。
「まさか、俺の仕事って」
ぽつりと呟いた言葉は三人に聞こえており、待ってましたと言わんばかりににこやかに乱さんが切り出した。
「君には今日から波隆壱番街のパトロール業務を任せたい。西部に行く迄一か月。その間に代わりの人は見つけるから、それまでお願いできるかな」
じめっとした暑さが全身に纏わりつく。立っているだけで汗ばんでくる気候だと言うのに、横に居る彪は涼しい顔でスーツを着て歩いている。代謝が良くないのか、汗をかかないタイプなのか…いずれにしても羨ましかった。
「ここは夜の方が治安が悪いですからね、そろそろ何処かの飯屋にでも行って休憩しましょう。疲れたでしょ」
「…はい」
時刻は午後六時。十二時にご飯を食べてからずっと歩いたり店の人と話したりでもうくたくただ。萩生田組に居た頃は簡単な事務作業を涼しい部屋でやりながら、呼ばれたら荒事に参加する様な日々だったから、こっちの方が余程過酷と言える。
俺の返事が死にかけなのに気付いたのか、彪は振り向いてそうしてさらりと言い放つ。
「まだ始めて三日ですよ。途中でぶっちとかしないで下さいね」
「…分かってますって」
そう言われれば、打ち上げをした時の乱さんの言葉が思い起こされる。〝歯向かって来ても、売っても、裏切っても返り討ちにするだけ〟。――俺が逃げたらきっと、あの人は俺を殺すだろう。
疲れているだけで、逃げる気は全くないのだが。寧ろ、もっと酷い事をされるよりはましだ。天国だともいえるだろう。
「はい、メニューです」
彪が入ったのは壱番街に何軒か建っているファミレスのチェーン店だった。この物価高の影響を受けていないのか、安いのに味が変わらない。二人でたらふく食べても三千円以内に収まるこのファミレスは、大家族や中高生にとても人気だった。
「…じゃあこれとこれ、後これも美味そう。あ、彪さんドリンクバー付けます?」
「お願いします。俺はもう少ししてから食べようかな。とりあえずドリンクバーだけで」
「はぁい」
注文をすれば今から忙しい時間なのか、すぐに料理が運ばれて来た。一口、それを口に入れる。学生の頃から変わりない味がそこに居て、俺はぺろりと一つ目の皿を片付けた。
と、その様子を珈琲を飲みながら見ていた彪が不意に口を開く。
「…どうです? 最近。乱さんと関わる様になってから、良い感じですか?」
「ごほ、……い、良い感じかはどうか分かりませんけど、良くはしてもらってます」
良くはしてもらっている、その言葉に嘘はない。けれど。
「…こんなに良くしてもらって、良いのかなとは正直思います。だって、俺は別に恩返しをしている訳じゃないし」
倉庫内で倒れていたのを発見し、妃花諸共病院まで連れて行ってくれたのも乱さんだし、妃花の自殺を止めて俺に職と住居を与えてくれたのも乱さん。その職も、西部に行く旅費を稼ぐ為。決して乱さんに金銭を返す為ではない。流石に、何かしらの形で返そうとは思っているが…。
「あはは、戸惑ってる。まぁ確かに、あの人良く分かんないですよね。良い人なのは間違いないんですけど、一人一人にキチンと向き合いすぎって言うか」
「…あの人、本当はどんな人なんですか? もしかして何か、本当に裏があったり」
珈琲を持つ手がぴたりと止まる。
何か不味い事を言っただろうか、と心臓の鼓動が強く跳ねた。
「裏なんかありませんよ。あの人は心の底からアンタにやり直して欲しいだけだ。この一か月の間であわよくば西部に行くのを辞めて、引き抜けないかな~って思案してますよ」
「……そんな」
「まぁ、そこは考えてみたらどうですか? 一か月の間に代わりの人材は見つけるとは言え、アンタが残ってくれたら巡回の強度も変わる。一か月後には戻りたくな~いって思ってるかもよ」
「……考えては、みます」
やり直して欲しい。――その言葉に酷く心が翳る。
自分の所為で妃花を酷い目に遭わせてしまった。全部自分の浅はかな考えの所為で。その罪を償うには西部に戻って自分が犠牲になるしかないと、死ぬしかないとと今でも思っている。
「…乱さんは、死んで逃げるのが一番嫌いな人なので。生きて苦しまないと、贖罪ってのは」
ぽつりと彪が呟いた。その横顔を眺めていれば、ふと素朴な疑問が沸き立つ。
「……彪さんは、何で奉日本組に入ったんですか?」
「え、俺ですか? 嗚呼、まぁ、……乱さんに助けて貰ったんで」
彪の回答は予想通りと言えば予想通りだった。恐らくチンピラから救われて、みたいな話なのだろうか。
「…俺、昔いじめられてたんですよ。家族も同級生も頼れなかったんで、金でいじめてる奴等より強い奴雇ってリンチしてたんです」
あ、全然違った。もっとバイオレンスな話だった。
吃驚して言葉を紡げない俺を他所に、彪は淡々と話しを続ける。
「その時佐久間晴って言う、俺をいじめてた奴が身を守るために、俺と同じ様に〝チンピラ〟を雇おうとして、瀕死の怪我を負わされた。それを助けたのが乱さん。…そこで初めて怒られたんです」
――ちゃんと誰かに、〝助けて〟って言ったの?
あの時の冷たい瞳は今でも思い出す。それが自分の戒めになっている、と彪は静かに呟く。
「あれから散々でしたよ。雇った先輩達には何とか謝罪は出来ましたけど、リンチしたいじめっ子達やその両親には殴られるわ怒鳴られるわで。親とも今は絶縁状態ですしね。俺がヤクザに入ったから」
「……それで、良かったんですか? もしかしたらもっといい方法があったかも…」
「これが最善の方法だったと思いますよ」
俺の言葉は、彪によって上書きされる。
「どっちみち俺が報復と言う手段を取った時点で、戻れない所まで過ちを犯した事には変わりないんです。黙っていたらもっと酷い事になって、最悪俺はここに居なかったかも知れない。…何かを失っても、二度と元通りにならなくても、受け止める事が贖罪です」
にこり、と彼が笑う。生きて苦しまないと、と言った意味が分かった気がした。
理解すれば耐え切れず、おずおずと更なる疑問をぶつける。
「………もし、もしですよ? 俺が此処に残りたいって言ったら、彪さん的にはどう」
「大歓迎です。でもブラックですからね、逃がしませんよ」
「おわ…」
食い気味に賛成されれば、余りの圧に声が漏れる。
その様子に真面目な顔をしていた彼が、ふと表情を崩した。
「ま、中々楽しい所ですよ。多分飽きないし、普通よりは幸せになれると思います」
「……そ、すか」
その笑みに、つられて俺も微笑む。
と、俺の後方――ドリンクバーが設置してあるスペースの方から、カップが割れる音が響いた。
「…?」
何気なく振り返れば、そこには小さな女の子を抱きかかえて必死に謝る男性と、いかにもチンピラですと言った風貌の男が三人居た。瞬時に状況を理解すれば体が動く。
「おい! どうしてくれンだよこの服二万もしたんだぞ!? しかももう二度と手に入らねぇモンなんだけど!?」
「す、すみません、娘が周りを見ておらず…走り出してしまい…」
「謝って済む問題かよ!! おい、この後時間あンだろ、御前事務所来い!!」
男の一人が男性の胸倉をつかむ。
それに身体が反応してしまったのだろう、抵抗しようと男性の腕が男の顎を掠めた。
「ってぇな!!」
怒号と共に、男性の頬に男の拳が突き刺さる。派手な音を立てて倒れ込んだ男性の娘が泣きじゃくりながら駆け寄って行く。――その腕を、別の男が掴んだ。
「もうこの子連れて行きましょや。そしたらパパも大人しく言う事聞いてくれんでしょ」
「やだああーーー!! パパァーー!!」
じたばたと暴れる少女の抵抗は無に等しいもので、男が軽々とその身体を抱き上げてしまう。
殴った男はむす、とした顰め面のままだったが、やがて溜息を吐いて倒れる男性に言葉を投げる。
「チッ、そうすっか…おい御前、売られたくなきゃ壱番街にある竜王組の事務所に来いよ、良いな」
「…ひ、ひかり…」
よろよろと伸ばされた腕は、呆気なく蹴り払われる。
三人のチンピラは金も払わずに店の入り口まで向かい――
「……あ? 何だよ御前」
そこで待っていた俺と彪に阻まれる事になった。
胸糞悪い。ただそれしか思い浮かばなかった。彪も何時も通りの表情を浮かべているが、目に全く光が無い。ある意味怖すぎる。
「…奉日本組だ。店に迷惑をかけるな。あの男性の治療費、そして女の子を返してもらう」
「はぁ?! 汚されたのは俺の方で被害者なんすけど!! それでも俺らが悪いんすか!?」
「やり返し過ぎです。加害者になってますよ」
彪が静かに言う。それでも男達は何を言ってるんだ、と言わんばかりに怒鳴り散らす。
「冗談きついっすわ!! 何にせよ手を出したのはあっち!! あっちが全部悪いっすよ!!」
「ただの子供の不注意で、そんなにキレるアンタらの器が小さすぎるだけでしょ」
「……んだとガキ!! お高く止まってんじゃねぇよ!!」
そう言って彪の胸倉を掴み上げる。彪はやり返しはしない様だ、冷静に男達の動向を見定めているのだろうか。それでもこちらに危険が及ぶ可能性を鑑みて、その手を掴んで止める。
「…暴力は辞めた方が」
「黙れ!! うるせぇんだよてめぇら!!」
言い掛けた俺の言葉より先に、彼の怒号が飛んだ。
風を切って拳が眼前に迫る。余りにも遅いそれをいなして、反射的に鳩尾に一発入れれば、それだけで彼は蛙が潰れた音を喉から吐き出して床に倒れた。
「……おお、すげぇ」
珍しく目を見開いている彪がそう溢す。残りの二人は何が起こったと瞬きを繰り返していたが、軈て状況を飲み込んだのか、少女を持っていない男が今度は襲い掛かって来た。
やはり遅い。萩生田組の組員でもこんな体捌きはしない。腕を固めて地面へ倒す。もう少しでも力を入れれば折れてしまう、――と言う所で、最後の男が声を張り上げた。
「このガキがどうなってもいいのか!? 由木尾を離しな!!」
「……っ」
見れば男は少女の喉にナイフを突きつけていた。少女は恐怖と絶望で表情が歪んでいた。
身体が動かなくなる。呼吸が速くなる。
――妃花が飛び降りた時の表情と、一緒だ。
どうするべきだ? 周りの人間をざっと見渡しても、後ろから奇襲できそうな男はいない。それどころか皆、恐怖に怯えた表情で自分達を見ている。怖いのだ、暴力を振るう自分と今相対しているチンピラ達に、違いなどないのだから。
ぼんやりと立ち尽くしていた俺の頭に鋭い蹴りが入れられる。店内からは悲鳴が響き、俺は備え付けのテーブルや椅子と一緒に派手に倒れ込んだ。
「げほ…っ、ッてぇ……」
全身が痛い。まだ退院して日も浅いと言うのに、また傷が開いたら乱さんに怒られる、等妙に冴えた頭の片隅で考えていれば第二撃、三撃と身体に蹴りを叩き込まれる。
「ちょっと様子見してたらいきがりやがってよ! 竜王組の宇津次、ナメてんじゃねぇぞ!!」
知らねぇよ、と心の中で毒吐きながら朦朧とした意識が軈て落ちて行く。
そうして、最後に振り上げられた足は――――地面に落ち、彼は徐に少女を離してナイフを、
自分の喉元へ突きつけた。
「え?」
一瞬。そのナイフが彼の首を一閃、薙ぎ払う。
ぷしゃ、と灰色の液体が窓ガラスに吹き広がり、彼の身体はゆっくりと地面に倒れ伏した。
悲鳴。店内が恐怖に包まれる。
俺も彪も、何が起きたのかまるで分からなかった。
彼は自分の意思で、自分の喉を裂いた。
でも最期見たあの呆けた顔は何だ?
あれは本当に、〝彼自身〟が行った行動だったのだろうか。
「うっさいのは、敵わんすねぇ…」
同刻。同じファミレスで、その惨状を静かに見守る影があった。空色の髪に黄色のメッシュを入れた少しだけ顔色の悪い褐色の青年。彼は今、目の前の青年と密会をしている最中だったのだが、運悪くあの場に居合わせたのだった。
「…何も殺す事なかったんじゃない?」
目の前の青年――奉日本乱は大きく伸びをしながら、恋司に低い声で諭す。その声に微かな怒気が孕んでいると分かれば、恋司はびくりと身体を震わせしどろもどろに言葉を繋ぎ合わせる。
「あ、ちゃ、ちゃうんすよ、あの、竜王組って島原におった奴等ですわ、最近千華の情報、流しとる奴等おるて、目星、つけとったんですよ」
「…まぁ良いけど。んで? 首尾はどう?」
乱が話題を戻せば、ほっとした様子で恋司が幾枚かの写真を並べる。――店の入り口では、慌ただしく警察や救急隊が動いているのにもかかわらず、だ。
「彼、――九頭竜君の事をやっぱ探しとる感じはします。萩生田の事やから、こうして脅せば帰って来ると思てたんやないですやろか。目論見が外れたと分かればまた玖都来ますよ」
「ふぅん…、大歓迎だよ。今度はちゃんとおもてなししないとね。…それはそうと」
「はい?」
乱は懐から恋司の自撮り写真を取り出すと、指で弾いて彼の前に投げる。
「何これ。御前の写真は要らないってんだよ。知ってるし」
「いやん、ええやないですかぁ…。所属のトップとサブ撮って来い言われたら、そら自分も写りますやろて…」
「これ、どこぞの物好きに連絡先付きで売ってあげても良いんだけど?」
「嫌や!! ごめんなさい!! 燃やして捨てて下さい!!」
びたんと机に額をこすりつけて謝る恋司の姿に、溜息を吐けば「まぁ良いよ、記念に持っとく」と言って乱は写真をまた懐にしまう。そうして、並べられた写真の内の一枚を拾い上げれば小さく呟いた。
「…萩生田って、裏切り者はすぐ殺すの?」
「…いや、どうでしょう。利用価値があればそれだけの為に生かしたりします。千華の…〝無産者〟と同じ扱いを受けさして、機能せんくなったら捨てるんでしょうね」
「〝無産者〟?」
乱の言葉に、恋司がこくりと頷く。
「俺ら所属して名前がある所はそれなりに大きい組織ではあるんすけど。その組織の中のメンバーが作った組織…分かりやすく言えば枝会みたいなモンすね。それらは全然知らんのが多いんですわ。会長や俺らリーダーから許可を受けた訳でもない、勝手に作れるんす。そんで噂ですけど、……そん中の底辺の底辺…所謂〝無産者〟呼ばれる奴等は上のサンドバッグになる事も多い。…まぁ分かりやすく言うたら、ブラック会社の上司と部下みたいな関係になるんすわ。ただのストレス発散の為に使われる、力のない奴等。呼び出されて大概殴られたり、見せモンにされたり、噂やけど、掘られたり…」
「……陰鬱な団体だね、千華ってのは」
その言葉に、恋司は何も言い返せなくなってしまう。
「…やからまぁ、九頭竜君がどうなるかは萩生田の気分次第ですわ。俺としては西部に帰って来させん方が無難と思いますけどね」
「そうね、……それじゃ引き続き、萩生田組に動きがあったら教えて欲しい」
「了解です、ほな俺はこれで」
恋司が写真をしまい、騒がしい入口を避けて従業員用の裏口から出ようとする。
その様子を何気なく眺めてついて来ていた乱だったが、徐にドアノブを握る手に己の手を重ねた。
恋司が何事かと、乱の方を向く。
「あ、あの?」
「…聞きたい事があるんだけど」
「な、何でっしゃろか…」
「…何であの竜王組の人達に能力が使えたの? 君の能力は親しくないと使えないよね?」
ぎこちなく受け答えする恋司だったが、乱の問い掛けに一瞬きょとんとすれば「嗚呼」と声を上げて微笑んだ。
「壱番街は比較的来やすい所なんで。夜に居酒屋はしごして、時間かけて壱番街のヤクザ全員と仲良うなったんす。別に何しようとかやないですよ、その方がやりやすいなぁ思て」
「……コミュ力お化けの形だけ陽キャめ」
「酷い…ただ、何か役に立てればええなぁ思てただけやのに…」
「はいはい、今日は役に立ったよ。ありがとね」
ぶつくさと文句を垂れる恋司の姿を裏口から見送れば、乱は入り口で未だに聴取を受けている彪の姿を一瞥し後、その場を後にした。
時刻は午後十時を回ったところだ。
疲れた、――用意して貰った小さな部屋の布団に倒れ込んで、俺は長い溜息を吐いた。
あれからかなり念入りに聴取を受けさせられていたのだが、女の子の父親が間に入って説明してくれたお陰で、比較的早く解放された様に思う。
彼は大泣きしながら何度もお礼を言っていた。女の子の方もすっかり笑顔になって抱き着いて来て、何と言うかむずがゆいと言うか。ヤクザってこんな人に愛される職業で良いのか? そう思っては萩生田組に居た頃を思い出す。
「……あれよりは、数倍マシか」
仲間を平気で切り捨て、カタギの人間を怯えさせるような事をして楽しむ様な人間の所よりは、何億倍も…比べるのも烏滸がましい位、此処は居心地がいい。
そう独り言ちては襲い来る睡魔に勝てず、その日はすとんと寝落ちてしまった。
「……ぁ、れ」
ぼんやりと辺りを見回す。目が覚めるともう窓の外は明るくなっていて、時計を見ればもう昼の十二時を回っていた。ふと頭の中が鮮明になる――しまった、遅刻した。
ふらふらと乱さんの部屋に向かえば、彼は相変わらずパソコンの前に引っ付いて作業をしていた。俺に気付けば「おはよう、だいぶ寝てたね」と声を掛けて来る。
「おはようございます、すいません、寝坊しました…」
「嗚呼、良いんだよ。それよりもよくやってくれたよ、昨日の一件」
「……あ、いや…」
果たしてあれが本当に正しかった事なのか分からない。俺が言い淀んでいると、乱さんはキーボードから手を離して俺の方を向く。
「…カタギの人間を、玖都に住んでいる一般市民を守った。それは俺らがやるべき仕事の一つだし、きちんとやり遂げたのだから誇るべき事だ。本当に感謝してる」
「……ありがとうございます」
「まぁ確かにこれがヤクザの仕事なのかと言われたら微妙ではあるけれど。でもだからってあそこで見過ごす人間は、奉日本組には要らない。俺がやりたいのは抗争じゃなくて、皆が平和に過ごせる様な街づくりだから」
「…街づくり」
乱さんの言葉を聞いて開いた口が塞がらない。それならヤクザなんかより国の仕事に就いた方が早いのでは? そう思っていた俺の考えは乱さんには見透かされていたらしい。
「…国の仕事に就くより手っ取り早い手段があったから、連龍会に入っただけだよ。君は知ってるかな? ここ玖都は表向きには統京都知事と連龍会、つまりは化野一族が取り仕切っていると言われてる。でも実際は実権の全てを連龍会が握ってるんだ」
「…ヤクザが一つの都市をすべて管理してるんすか? それは、聞いた事が無いです…」
玖都の事は、萩生田組に居た時に噂をちらりと耳にした位だ。後は島原と距離があって逃げるには丁度良さそうだと思った位。玖都には連龍会と言う別の大きいヤクザが居る、と言う事は知っていたが、まさか都市の実権迄握っているとは。
「つまり連龍会に入れば街の管理やら何やらに携われるってね。暴力で全てを支配するよりは、一般市民が暮らしやすい街を作って行ければいいなって思ったんだよ」
「……ヤクザって言うより自警団みたいですね…何か」
「あは、まぁそうだね。俺がやりたいのは自警団かも、……もうこの街で誰も悲しんで欲しくないからさ」
「…」
ふと乱さんが遠くを見つめていた。この人が過去にどんなことを経験してそう言う思考に至ったのかは良く分からないが、その言葉にはずしりと響く重みがあった。
「…じゃあ、彪さんも、狗神も、悲しんで欲しくないから助けたって事ですか?」
「そう言う事。まぁ狗神の方は出張先で出会ったからこの街ではないんだけど、それでも放っておけないじゃない、出会った時はもう少し小さい女の子だったし」
「…あの、狗神………あの子は、何者なんでしょうか?」
俺は出会った当初から疑問に感じていた事を乱さんにぶつけてみる。
ヤクザに拾われ、そこで仕事をしている女性は少ないが居るだろう。それは理解しているつもりだが、狗神はコミュニケーション能力がゼロに等しい。簡単な受け答えは出来るものの、質問が一度複雑なものになればうーうーと唸って首を傾げるだけ。
それに人間離れした身のこなしと、嗅覚の代わりに抑制された視覚。乱さんは〝共生化した際に危険だと判断したから視覚を抑制した〟と言っていたが、正直それだけじゃ何も分からない。
乱さんは暫く黙っていたが、軈て「そろそろ話しとかないとね」と言えば狗神を呼んで、傍らに座らせた。狗神は落ち着いた様子で乱さんにくっついている。
「彼女の本名は료 수아《リョ・ソア》。嵌民国で生まれ育ち、…人身売買で夜淵に引き渡された実験体だった」
夜淵。いま世界中で話題になっている、〝玖泉〟をばらまいている新興宗教団体。それの…実験体? 言葉を失う俺を他所に、乱さんは話を続ける。
「彼女は相手の心や情報を眼で読める。次に何をしようとしているか、どういう動きをするのか読み取って理解出来るんだ。それが驚異的な身体能力にも繋がっている。…それともう一つ、心の他に断片的な対象の過去の情報を読み取る事も出来る」
「………、…ぁ、じゃあまさか」
出会った際に彼女が抱き着いて来て「ひめか」と呟いていたのは、俺の情報を読み取っていたからなのか。理解すれば何となく胸のつっかえが取れた気がした。
そんな俺とは裏腹に、乱さんは何処となく暗い表情で言葉を続けていく。
「…そう言う事。でも一つ問題があって。…この力は自身で制御が出来ないんだ」
「え?」
思わず間抜けな声が出る。
確か黒血、共生者は自分で自分の力をコントロール出来る筈だ。彼女だって共生しているのだから出来る筈。
「…普通、〝共生化〟すると黒血、共生者は自身の力をコントロールする事が出来る。でもこの子は出会った時に、暴走状態に陥り――脳のほとんどが焼き切れた。あの施設でどんなものを見たのか、それは俺達には分からないけど少なくとも精神を崩壊させるには十分な凄惨な体験をしたんだろうね、医者からは〝力の使い過ぎで暴走し失われた脳は戻る事はない〟と言われた」
「……そんな」
狗神は二人の会話の内容について行けていないのか、眠そうに欠伸をしている。
精神を崩壊させる程の、凄惨な体験。考えても俺に想像は出来なかった。
「脳が戻らなければ知能は戻らないし、制御する事も出来ない。黒血だから脳がほとんど機能しなくても寄生されて生きられるのは運が良かったけどね。…何とかしてやりたくて、医者と相談して、力の根源である視覚を抑制した。…結果は、見ての通りね」
「…視覚を奪えば、取り敢えず無暗に力を使う事はないって事ですか」
「そう言う事。でもどこで外れるか分からないから、もう少し改良したいんだけど中々難しくてね。重かったり固かったりすると、狗神嫌がっちゃうから」
「…犬かな?」
口を突いて出てきた言葉に、乱さんが笑う。狗神も何やら乱さんが楽しそうなのでにこにこと口角を上げていた。先程迄は楽しそうだな、としか考えられなかったその様子が、今はとても尊いものの様に思えてしまう。
彼女は今何を考えているのだろうか。少なくとも、彼女が感じていた凄惨な体験を思い出さない儘過ごして欲しいと、今はそう願うばかりだった。
奉日本組で働き始めてもうすぐ一か月。
本心ではもう奉日本組に残ると決めていたのに、いざ本人の前でどう話せばよいのか分からなくて結局こんな日にちになってしまった。
今日こそは言おう。必ず言おう。
そう、心に決めて俺は何時も通り、乱さんの部屋を開けた。
「おはよう皇牙君、今日も暑いね~」
「……おはようございます、…暑い、っすね、あ…」
「今日はね~、最近壱番街で悪さしてるヤクザの情報を…」
少しの会話の後に今日の仕事内容を告げられ、瞬く間に移籍の話を切り出すチャンスは失われていく。
今日言えなかったら、何時言えば良いんだ…。いっその事手紙でも書くか? と血迷った考えを浮かべていたら、ふと乱さんが声を上げた。
「あ、そうだ。皇牙君。今日は彪君別件の仕事があってね、悪いけど一人で見回って貰ってもいいかな」
「…はぁ、まぁいいですけど」
一人で波隆壱番街を回るのはこれが初めてだ。
少しの緊張と、――かなりの不安が心の中を支配していく。壱番街は、千華連合の人間も集まりやすい土地。恐らく萩生田さんは、未だに俺を探しているのだろう。つまり、もしかしたら。
ぐるぐると思考を巡らす俺の手を、誰かが握った。乱さんだ。
何時も通りの表情。
柔らかい笑みに、くすんだ灰色の瞳が細まる。
「大丈夫、君の事は守るから」
「………ぁ」
こういう時は多分、お礼を言わなきゃいけないんだろうに、言葉が出てこない。
しどろもどろになる俺の横にいつの間にか移動していた狗神も、笑顔で「まもる~!」と意気揚々に拳を振り上げている。冷汗が止まらない。
「ぁ、の、ありがとう、ござ、ぃます…あ、あの! もう行きますね!」
「あはは、うん。行ってらっしゃい、気を付けてね」
バクバクと鼓動がやけに早く波打つ。面と向かって守るなんて言われた事がないし、言われる様な人間ではない事は自負していた筈なのに。
顔が熱い、今の俺はどんな顔をしているだろう。
気付けば涙が止まらなかった。
産まれてきて、初めてだった。
目上の人から褒められたのも、優しくされたのも、居場所を守ろうとしてくれたのも。
もっと早く出会えていれば、もしかしたら今頃幸せに妃花ともやれていたのかも知れない。
たらればなんて無駄だと思っていたけど、今だけはそう思わざるを得なかった。
「……頑張ろ、」
乱雑に涙を拭けば、俺は少しだけ軽い足取りで身支度を整え、玄関へと向かった。
今日は話し相手の彪が居ないので、スマートフォンを弄りながらふらふらと壱番街を歩き、怪しい人間が居ないかをチェックする。蒸し暑さはだいぶ落ち着いてきたが、そうなるといよいよ夏本番の暑さがやって来る。
そろそろ夏服を買っても良いんじゃないかな、と思いながら通販サイトを行ったり来たりしていると、後ろから女性に声を掛けられた。
「あの、すみません」
振り向けば、スーツ姿の真面目そうな女性が、青い顔をして立っていた。具合でも悪いのだろうかと声を掛けようとして、喉が鳴る。理由は一瞬で分かった。
女性の後ろに、居る。
褐色の肌に紫の髪をオールバックにした中年男性。
誰しもが知っている。
千華連合所属〝蛛廻糸〟、【団居】リーダーの萩生田美早。
ぶわりと全身に鳥肌が立つ。あの日の恐怖がフラッシュバックして、思わずスマートフォンを地面に落としてしまった。カシャン、と軽い音が響く。
「…久し振りやねぇ。皇牙君、…生きてたんやね」
「……は、ぎうだ、…さ」
銃声。
俺が何かを言う前に、スーツ姿の女性のこめかみが赤く、丸く染まる。
全てがスローモーション。萩生田さんに出会ってからの情景がまるで理解不能だ。
何でこの女の人は、――死んでいる?
「声掛け役ありがとうねえ。さて、皇牙君」
「っ……、ぁ」
「あっちで話、しよか。あんまり抵抗せんでほしいんやけど」
女性の遺体など目もくれず、その乱れた髪を靴で踏み、顔を蹴り付けながらその人が近づいてくる。その後ろに控えている部下は十数人、そのどれもが殺気立った瞳をぎらつかせながらこちらを見ている。
勝てない、人間の俺じゃ。
不意に、視界が翳った。
気付いた時にはもう遅く、萩生田さんの肘打ちが俺の側頸部を叩きつけた。肩が外れた様な痛みと息苦しさに、たまらず膝をつく。起き上がりたいのに、全身の力が入らない。
朦朧とする意識の中で、萩生田さんは何時も通りの表情を浮かべながら、動けない俺の手首を拘束する。
「ほんまに、一時はどうなる事かと思ったけど、ま、あの女の事は見逃しましょ。君がこのまま千華に帰って来るんやったら」
「…ッ…、ほ、んと…、に…?」
俺の問い掛けに暫く黙っていた萩生田さんが、徐に俺の首根っこを掴み上げた。
それだけで喉が締まり、呼吸が出来なくなる。抗えそうだった痛みがまた全身を追い詰めていく。
「ぐ、ぁ“…っ」
「ほんまやて。君はほんまに俺の事信用せぇへんね」
そのまま何発か顔を殴られる。壱番街でこう言ったヤクザのいざこざは珍しくない。
だから街行く人々は今日も何かが始まった、とこの通りを避けて歩いて行ってしまった。
どこかで、地を蹴る音がする。
歯が折れた感覚と、耳朶がじわりと熱を持っている。
恐らくピアスが千切れたのだろう。思えば妃花も酷い暴力を受けていた。自分でこんなに痛いのだから、彼女はもっと痛くて怖かっただろう。
何であの時、ちゃんと助けてあげられなかったんだろう。
恋人なら、逃げずにちゃんと向き合わなきゃいけなかったのに。
「……あら、痛くて泣いてるん? かわええなぁ」
そんなんじゃねぇよ、と心の中で吐き捨てた言葉は音にはならない。
目尻を拭われ、舌を噛まない様に猿轡をされてしまえばもう抵抗する気力も起きなかった。
これから俺はどうなるんだろう。
多分死ぬか、死ぬより酷い目に遭わされるんだろうな。
どこかで、風を切る音がする。
悲鳴を上げる身体を無視して両脇を抱えられ、白いハイエースバンに載せられる。その様子を見ながら、萩生田さんが呟いた。
「…君にも玖泉、飲ましたろか。どうなるか楽しみやなあ」
「バケモンになるか、もっと酷いバケモンになるかやけど」
何かが、通り過ぎた。
萩生田さんの言葉は風に掻き消えて、その代わりに後ろから男の悲鳴が鳴り響く。
「…あらまぁ」
正確に、一撃で彼女の爪先が男の喉に突き刺さった。ゴリ、と頸椎が外れる音がする。長く黒い髪をなびかせながら、間髪入れずに彼女――狗神は、残りの男達を落として行く。
その動きは、俺の目では追えなかった。恐らく部下の中には共生者が紛れている筈。それなのに何も厭わず、彼女はただただ〝相手を殺す〟為にその身体を羽ばたかせる。
――綺麗だ、こんな事を考えるのはおかしいのだろうけど。
「…あの子、……癪に障るなぁ」
ふと、萩生田さんが呟いた。後ろの部下が何人か目配せをして頷き合う。そうして、前方の男達と乱闘を繰り広げている中――四方から銃弾を撃ち放った。
猿轡をされているにも関わらず、思わず声を上げる。
だが、狗神は冷静だった。
迫り来る銃弾の僅かなズレを検知して、正確に弾を避ける。見事だ。俺が見惚れていると、
避け切った身体の硬直に銃弾が一発、肩に入った。
「!!」
「…あかんなぁ、ちゃんと次来る思わな」
一発。
また一発。
崩れたリズムを嘲笑うかの様に、狗神の身体に銃弾が浴びせられる。もう辞めてくれ、とどれだけ叫んだか分からない。狗神が蹲りながら、俺の方へ手を伸ばした。
――こんな時に又俺は、掴めない。
暫 くして音が止む。萩生田さんが拳銃を捨てた時にはもう、黒い血だまりの中に狗神は沈んでいた。
俺の所為で。
俺の所為で、二人も死んだ。
「…嗚呼、可哀想になぁ。君が奉日本組なんかに行かへんかったらこの子も、あの女の子も死なんかったのにやぁ」
「………」
「ほな、出して。残りの動けん奴等は用無しや、捨て置き」
「はい」
扉は閉められ、無情にもエンジン音が響き渡る。
寝転ばされているからか、窓の外の景色は見えない。疲労困憊で今すぐ気絶したいのに、萩生田さんと部下の会話が耳障りで鼓膜を引っ掻いて寝かせてもくれない。
狗神、頼むから死なないでくれ。心の中はそれしか考えられなかった。
最悪、自分はどうなってもいい。
ただ狗神と妃花が無事でさえいてくれたらそれでいい。
俺は死んでもいい。
…それでいい、と。
思いたかった。
「…今から高速乗るからや、それ隠しとき」
萩生田さんの合図で、部下がブランケットを被せてくる。元々暗かった視界が、更に闇に染まる。高速に乗ってしまえば、玖都から大きく離れてしまう。きっと島原に着いてしまえば、俺は見切られるだろう。
たかだか一人の厄介者を追うより、狗神を蘇生させる事を優先するだろうから。
「……、…っ」
涙が頬を伝って、シートを濡らす。声を押し殺したいのに、どうしようもなかった。
願ってもいいなら、俺は奉日本組に残りたかった。
助けて欲しい。
こんな自分なんかが願っちゃいけないと思うけど。
「…泣いても何も変わらへんやろに」
萩生田さんの声が聞こえてくる。そして部下達のひそひそと笑う声も。それでも涙は止まらないのだから仕方ない。自分でもこんなに生きたいと思うなんて思わなかった。
……もう遅すぎたけど。
その瞬間、――車体が激しい音を立てて大きく揺れた。
為す術なく思い切り頭を車の扉にぶつけ、声にならない呻き声を上げる。突然の事に誰も対応出来なかったのか、萩生田さん達の驚いた声が上がったのが聞こえた。だが少しして、また車体が激しい音を立てがくりと揺さぶられる。
その衝撃でブランケットが剥がれ、俺は痛む身体を無視して身を起こせば窓の外を見た。
ホンダのアコード。
乗っているのは、彪だった。
余りにも荒い運転で自分の車体も厭わずハイエースバンに激突している。まさか、…それでこの車を止めようとしている?!
「さっさと降りて来て下さい!! このまま海に落としますよ!!」
…俺も海に沈むんだが。
そんな事を考える俺を他所に、萩生田さんと部下が言葉を交わす。
「……何やあの子、やばいなぁ」
「どうしますか! 前輪がパンクしてますコレ!! あっちの駐車場に行くしか…」
「…そうしよか。幸い一人やし、殺しても構わん」
殺しても構わない。
萩生田さんの言葉に、全身から冷汗が流れた。先程の血だまりに倒れた狗神の姿が思い起こされる。狗神は共生者だ、銃弾の雨を浴びたとてすぐには死なない。でも彪は、人間だ。
笑えない事態がすぐそこまで迫っている。
二台の車が海沿いの駐車場へと入れば、俺は部下に引っ張り出されて無様に地面に投げ捨てられた。その際に彪と目が合う。相変わらず瞳に光が無い。と、
「……、?」
その時、一瞬。微かに彼が微笑んだ様な気がした。何故? とぼんやりしていれば、彪は慣れた手つきで拳銃にマガジンを装填する。その銃口は真っすぐ、萩生田さんに向かっていた。
「…さて、萩生田さん、ですかね。九頭竜さんを返してもらえませんか? お互い戦争とかしたくないでしょ?」
「あはは、まぁせやね。でもここではいわかりました、て引き渡すんは面子が丸潰れなんよ」
「…じゃあどうする気ですか?」
萩生田さんはその問いには答えず、ただ笑ってこう囁いた。
「すまんけど、殺すわ」
「…は、っ」
直後、萩生田さんの身体が弾かれた様に飛び出し、彪の背後に回り込めば拳銃を持つ手をいとも容易く捻じ曲げた。狗神程ではないが、常人では決して追う事も出来ないスピードだ。
彪は痛みに顔を歪めながらも身体を翻して何かを袖からぽとりと落とす。その瞬間、爆音が響いて萩生田さんの身体が熱に包まれた。
彪も軽い火傷を負ってはいる様で、防御姿勢を解いて距離を取る。
(…手榴弾、一体どこにそんなものを…)
「……っぶね~…、まじでこれ嫌い…」
そう言って溜息を吐いた彪の目が見開かれた。
同時に聞こえてきたのは、一発の銃声。それは彪の太股を打ち抜いていて。炎の中から所々にやけどを負った萩生田さんが、けらけらと笑いながら出てきたのだ。
「…あは、君、爆発物なんか仕込んでたあかんやん。他の人に迷惑かけてんで」
「……、アンタが誘拐しなきゃ、当てる事も無かった」
「そら確かに」
そう吐き捨てる彪の肩を蹴り飛ばし、腕を固める。苦し気に表情を歪める彪が先程の狗神と重なった。
やられる。
そう思いぎゅっと目を瞑るが銃声は何時まで経っても聞こえてこない。恐る恐る目を開くと、萩生田さんが冷たい瞳でこちらを見つめていた。
「…なぁ、それ全部外したり」
「…はい」
部下が言われた通りに俺の拘束を外す。自由にはなったものの、相変わらず身体中が痛くてまともに戦えそうもない。そんな俺を見ながら「来い」と手招きする萩生田さん。
一体何をするつもりだろうか。ふらふらと近くまで歩み寄れば、俺の手に拳銃を握らせた。
…まさか。
「こいつ、殺し」
「………い」
「殺せへんにゃったら、妃花ちゃんが死ぬ事になんで」
拒否しようとした言葉が、喉の奥へと引っ込んでいく。
ひめか、でも、さっき。
「は、……え、な、…さっき、みのがす、って」
「仮にもヤクザが口約束なんか守る訳あらへんやろ、阿呆か」
「…」
震える手が拳銃を取り落としそうになる。
この人はやる。絶対に妃花を殺す。そして彪も、俺も全員殺すつもりだ。
俺がここで彪を殺せば、二人共見逃して貰えるかもしれない。
銃口を持ち上げる。引き金に人差し指を掛ける。
真っ直ぐ、彪の額へ狙いを定めて行く。
やれば、助かる。
彪は、何も言わずにただ自分を見つめていた。
自分の呼吸の音と心拍音がうるさすぎて、何も聞こえない。
死ぬ程熱くて、死ぬ程寒い。
腕が痺れて来た。早く殺さなきゃいけない。
分かってる。
分かって、いるのに。
気づけば俺は拳銃を投げ捨てていた。
「………すみません、出来ません」
沈黙。
誰も、何も発さなかった。予想外だったのか、萩生田さんすらもぽかんと口を開けている。だがそれも少しの事で、高らかな笑い声を上げると投げ捨てた拳銃を指差した。
「…君は、こっちの人間やろ? 指示に従わんかい」
鋭い声音が俺の心臓を鷲掴みにする様な、逃げられない感覚。
この人は躊躇が無い。何時だって自分の機嫌を損ねた人間は誰であろうが一発で頭を抜いて来た。
逃げられない。逃げられないけど。
「…じ、……辞表、を出したので、俺は、蛛廻糸の人間じゃ、ありません」
余りにも情けない、震えた声。瞼に汗が流れ落ちて、視界すらもぼやけて色々限界が近い。
でも、逃げたくない。
案の定、萩生田さんはあからさまに苛立っている様子で眉間に皺を寄せながら声を荒げる。
「はぁ? やからそんなんで辞められる訳な」
「俺はッ!!」
その言葉を、俺が掻き消した。
勇気とか余裕とか、そんなもんがあった訳じゃない。あったとしても萩生田さんには盾突きたくないと思うだろう。
でも、心が勝手に動いてしまう。
自分の意思が、立ち向かわなければいけないと、叫んでいる。
「俺は奉日本組の人間だ!! 御前等の仲間じゃないッ!!」
「……は、」
「この命、…使うなら、奉日本組、…乱さんの為に使うッッ!!」
息を切らして立ち尽くす。
萩生田さんはゆっくりと立ち上がり、――そして、俺の腹に鋭い蹴りを入れた。当然、身体は反応出来ずにそれをもろに受け、俺は噎せながらその場で蹲る。
「げほっ……、ぇほ…ッ」
「…ほんまに、君はムカつくなぁ」
休む暇もなく、胸倉を掴み上げられ無理矢理立たされた俺の身体を、萩生田さんの拳や足が蹂躙する。倒れる事も出来ず、駐車場の隅に並べられた低い柵に身体を預ければ潮の香りが漂ってきた。この先は、海だ。
「最初から殺しとけばよかったなぁ。御前も、女も…そしたらこんな面倒な事にはならんかったのにや」
「…はぁ、っ……は、…」
再度、胸倉を掴まれる。柵を乗り越える様にして浮き上がった身体は、萩生田さんが腕を離せば簡単に海に落ちてしまう。下には岩礁が広がっていて荒々しい波が音を立てて激しくぶつかり合っている。
ここから落ちたら、死は免れない。
「ほな、さいならね。嗚呼、心配せんでも妃花ちゃんもちゃんとあっちに送ったるから心配しんでや」
「っ、あ、……っ!」
ふわりと、一瞬身体が無重力に包まれたかと思えば、呆気なく下へと落ちて行く。
足も、手も、身体ももう動かない。掴まれるものも何もない。
嗚呼、死ぬんだ、俺。
地を蹴る音がする。
風を切る音がする。
重力に逆らって、身体が何かに支えられる。
目を開ければ、眼前には岩礁と波が広がっていて。気付けば俺はさかさまの状態で、誰かに足を掴まれていた。
「……守るって、ちゃんと言ったでしょ」
見上げれば、乱さんが汗を滲ませながら俺の足首を掴んでいた。
一体車も無しに、どうやってここまで来てくれたんだろう。そんな事を考えていると、萩生田さんの声が聞こえて来た。
「殺せ!!」
さっと血の気が引いて行くのが分かる。このままじゃ後ろががら空きの乱さんがやられてしまう、――それなのに、何時まで経っても銃声は聞こえなかった。驚きに何も言えないでいると、乱さんは何時もの調子で彪に声を掛ける。
「ちょっと彪く~ん!? 俺一人じゃ無理だから!! 早く手伝って!!」
「…俺も今手首イカレてんですけど~」
遠くから、彪のやれやれと言った調子の声が飛んでくるが、次の瞬間にはぐい、と引っ張り上げられて。二人がかりで漸く地面に引き上げられた俺は、未だに震えの止まらない手をさすりながら、それでも萩生田さんの方を向く。
萩生田さんは、――何故か部下に銃口を向けられていた。
「…御前等、どういうつもりや」
「ち、ちゃうんです!! か、かか、身体、動かんなって…っ」
部下が泣きそうになりながら必死に弁明を重ねる。それが何だか、以前喉を自ら切った男と似ている気がして。思わず駐車場の陰を見遣れば、人影が動いたような気がした。
そんな緊迫した状況の中でも、乱さんは何時も通りの様子で萩生田さんに話しかける。
「…千華連合の萩生田さんだよね。もう皇牙君と妃花ちゃんに関わるのは辞めて貰っていいかな?」
「…ナメてんすか? 流石に許せへんすわ、勝手に抜けて逃げた裏切り者は」
低い声で呟いた萩生田さんが、俺を睨みつける。そこに何時もの様な優しさ等はなく、あるのは面子を潰した俺に対する憎悪だけだった。強すぎる視線に、思わず目を逸らしてしまう。
「…ここで戦いたくはないんだよ。君だって無傷じゃ済まされないかも知れない」
「は? たかが人間が、共生者に敵う思ってんすか? アンタ、ええ度胸やね」
乱さんの柔和な諭しも、萩生田さんには煽りにしか聞こえていない様だ。どうしたものかと乱さんが溜息を吐けば、その行動すらも萩生田さんには怒りを逆なでする行動に思えた様で。
先程彪を襲った時と同様、乱の背後に回り込みその首を絞め上げる、
前に、乱さんの刀の切っ先が萩生田さんの喉元に突きつけられていた。
「…誰が人間だって? あんまり、ナメちゃだめだよ。連龍会をさ」
「………まさか、アンタ…」
萩生田さんがよろよろと数歩、乱さんから距離を取る。そして敵わないと悟ったのかにこりと薄っぺらい笑みを浮かべて「分かりました!」と声を上げた。
「もう金輪際、皇牙君と妃花ちゃんには近づきまへん。これでええどすか?」
「もし近づいたら、本当に殺しちゃうからね」
「わ~かってます…て、……」
言い終わらない内に、萩生田さんの身体が震え始める。見上げれば、真っ青な顔で乱さんを見つめている。軈て立つ気力を失ったのか、受け身も取れずに派手に尻餅をついた。
「分かったら、〝分かりました〟って言えば良いんだよ」
聞こえて来た声の低さに、思わず乱さんを見る。これまでとは比べ物にならない程の禍々しい殺気が、萩生田さんに向けられていた。俺でさえ、呼吸をするのを忘れてしまう位、空気が張り詰めて指一本動かせなくなる。
萩生田さんも漸く状況が飲み込めたのか「……分かり、ました」と小さく唸っては、部下達を置いて足早にハイエースバンに乗り込み、高速へと戻って行った。
「…全く、何で素直に言えないかねぇ」
「…萩生田さん、自分の非を認めたくないとこありますから」
ぼんやりとその姿を見送りながら、乱さんの言葉を拾う。
これで本当に終わったのだ、そう思ったら全身の痛みと疲労感が襲って来て俺はそこに座り込んだ。その音に気付いて、二人が駆け寄って来る。
「…だいぶ酷い怪我だね。すぐに病院に行かないと」
「……病院、…あ! あの、狗神は」
そうだ、すっかり忘れていた。俺がそう問いかければ、乱さんはにこりと笑って答える。
「大丈夫。血は流し過ぎたけど傷は大した事ない。きちんと処置を受けて、今はもう目が覚めてるって」
「………、…良かった…」
「心配してくれてたの? 自分も大変なのに」
「…や、…だって俺の所為で…あ、後、彪さん」
「はい?」
急に話を振られた所為か、やや間の抜けた声を出す彪に、立ち上がり向き合えば、俺は深々と頭を下げた。
「……銃口を、向けてしまってすいませんでした」
「………え」
ぽかんと口を開ける彪。然しその表情は崩れ、笑顔に変わる。
「嗚呼、あはは! いいですよ別に。九頭竜さんが撃てるとは思いませんでしたから」
「え、な、何で」
「だぁってあんな顔してたらねぇ」
「う……」
確かに、多分今世紀最大の恐怖を味わった顔はしていたけど。後多分目茶苦茶汗と涙でやばかったと思うけど。
――あれ? 待ってそれ見られたの結構恥ずかしいな。そんな事を考えていれば、こういう時に限って心を見透かしてくるのが乱さんだ。俺の背中に抱き着き、にやにやとしながら問い掛けてくる。
「え? なになに、皇牙君どんな顔してたの?」
「否、何でもな」
「ほら、あの全てを知ったハムスターの酷いバージョンみたいな。in汗と涙を添えて」
「彪さん!!」
「何それ見たかったぁ~」
二人がにやにやしながら俺を揶揄う。
それもしばらくすれば落ち着き、俺達は漸く車で玖都へと戻って来た。
そうして俺はすぐに九重総合病院に送られ処置を受ける事となり、全治二か月。暫しの入院生活を送る事になった。
狗神はあれから数日で全て完治したらしい。
入院生活で暇をしている俺の所に遊びに来ては、慣れない言葉でコミュニケーションを取ろうとしてくれていた。失った脳は戻る事はないと言われているけれど、少しでもコミュニケーション能力の改善に繋がるならと、俺達は沢山の会話をした。
少しだけ、仲良くなれた気がする。少しだけだけど。
そしてあれから、萩生田さんの接触は全くなくなった。
今は時期を見ているのか、本当にもう関わらないでいてくれているのか、分からなかったけどこれで漸く肩の荷が下りた気がして、清々しい気分だった。
きっとまだ油断は出来ないのだろう。
してはいけない事は理解している。
それでも、自分が連龍会直参奉日本組若衆として。
連龍会奉日本組系九頭竜組組長として。
確固たる地位を築けば、それが妃花を守る事に繋がる。
次は必ず、守れる様に。
「…皇牙君、髪型変えたんだねぇ」
秋。
リハビリを終え、退院した俺は連龍会に帰る前に美容室で髪型を変えた。前髪が鬱陶しかったのもあるけれど、一応のけじめと言うか、気分を新しくしたかったのかも知れない。
思い切って美容師にオーダーした刈り上げはちょっとイメチェンし過ぎたか…と焦っていたが、乱さんに「似合ってるよ、格好良い!」と言われれば、悪い気はしなかった。
「…これからは誠心誠意、奉日本組に尽くします。この命はアンタの為に使いたい」
廊下を歩きながら、ふとそんな言葉を零す。今日はこれから盃を交わす事になっている為、乱さんも俺もしっかりとしたスーツ姿だ。会長代理と他の直参組長に見守られながら、と言うのがかなり緊張するが背に腹は代えられない。今だって手が震えている。と、
「…もう、辞めてよそう言うの」
乱さんが前を歩きながら言葉を吐いた。顔を上げれば困った様に笑ってこちらを見つめている。
決して冗談とかではないのだが、と思っていたら乱さんは首を振って答えた。
「俺の為に命なんか使わなくていい。生きて、…一緒に生きようよ」
そう言ってゆっくりと手を伸ばし、細い腕で抱きしめる。
余りにも小さくて華奢な体躯に、不安を感じずにはいられない。
――必ず守る。今度は。
無意識に力を込めていたのか、乱さんが「皇牙君、苦しいかも」と耳元で囁いて我に返る。そうして微笑んで、手を握った。震えはもう、収まっていた。
色は未だ、戻らない。
――早くもう一度、アンタの瞳の色が見たいよ。




