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母親失格  作者: 遠山優佳
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三章・2

「姉さんが優一に会いたいって?」


 帰宅した夫とふたりきりになれる時間を待って、優一が自室で眠ったあと、夫婦の寝室で今日琴美から連絡が来たことを優介に相談した。琴美の相談のほうが大きくて、優一が桜の木にパンツを投げた遊びをしたことはどうでもよくなってしまっていた。


 驚きの表情をした夫に、芽衣子は沈痛な面持ちでこくりと頷く。


「実母として会うことは禁止されているから、それはしない、って。ただ、伯母として会いたいんだって。優一がどんな子に育ったのか、気になるみたい」

「確かに優一が産まれてから姉さんは盆も暮れも正月も実家に帰ってきてないからな……。気になるのは当然かもしれないけど……。でも、堕ろそうとしていた子なんだぞ? 今更母親ぶられても――」

「だから母親ではなくて、伯母としてって……」

「そんな勝手な……」


 まったくもってその通りだった。


 琴美が十万、二十万と金を巻き上げていくのには、優一を芽衣子たち夫婦に譲ってくれるからであって、顔を会わせてしまっては意味がない。しかし実際に顔を会わせてみたらどうだろう? 優一の容姿は、優介にも琴美にも似ていなかった。当然ながら芽衣子にも似ていない。優介と琴美がちんまりとした顔のつくりであるのに対し、優一は瞳が大きく、くっきりとした二重で、どこか南国を感じさせる顔立ちだった。スタイルもすらりとして手足が長く、同い年の子どもと比べて背が高かった。これは誰とも知れない優一の本当の父親に似たのだろうか。


(顔が似てないからって、会わせてみていいってわけじゃないけど、伯母として会わせるくらいなら、あの子も不思議に思わないかもしれない)


 けれど。


(そんなことをしてどんな意味があるの? こんなの、ただのお義姉さんのわがままじゃない)


「ねえ、パパ……。わたしからは断り辛いから、パパからお断りの連絡を入れてもらえる?」

「ああ、そうだな。ママと同じで俺も姉さんと優一は会わせないほうがいいと思う。明日……、いや、今から連絡を入れてくるよ」


 言って優介はスマホを片手に廊下に出た。芽衣子はベッドに浅く腰かけて、優介が何やら電話越しに揉めていること声が聞こえてきた。しまいには優介はほとんど怒鳴るように通話しており、芽衣子はハラハラすることしか出来なかった。


(なんだかわたしは、お義姉さんに振り回されてばかりのような気がするわ)


 琴美が妊娠さえしなければ、優一を引き取りたいと夫が言い出すこともなかった。琴美さえ堕胎せずに自分で育てると決意をかためていれば、夫がそれを横取りするような真似はしなかった。琴美さえちゃんと自活出来ていれば、金銭の要求に応える必要もなかった。琴美さえ優一に会いたいなどと言い出さなければ、今、夫が電話越しに揉めることもなかった。


(六年間も放置しておいて、今更会いたい? そんなことで母親ぶれると思っているの?)


 そこまで考えて怒りが沸いたが、はたと、これはいったいなんの怒りなのだろうと考える。


 六年間も放置しておいて――わたしに優一の世話を押し付けて――今更会いたい?――母親ぶろうとしているの?――本当にしなくちゃいけない母親の役割は、全部わたしがしたって言うのに! あんな、かわいくもなくて、生意気で、ヤンチャで、学校から注意の電話が頻繁に来る子なんて――。


 そこまで考えてはっとした。自分はいったい、今、何を考えていた? 琴美に母親業を押し付けられたことに対する怒りを覚えていたのだろうか? 優一がまだ赤ん坊だったとき、かわいいと思えなかった気持ちを実は未だに引きずっている。そう、芽衣子は優一がかわいくない。小さい頃はかわいくない、というだけで済んだが、こうして成長していくにつれ、優一を持て余す気持ちが大きくなってくる。


 そんな自分にショックを受けていると、電話を終えた優介が寝室に戻ってきた。


「やられたよ。丸め込まれた」

「え?」

「今度の日曜、優一を連れて姉さんと昼食をとることになった」

「――えぇっ?」

「昔からそうなんだ、あの人は。なんでもかんでも、俺の弱みにつけこんできて……。悪いんだけど、ママ。優一と一緒に姉さんと会ってきてくれないかな」

「ちょっと待って。わたしだけ? あなたは?」

「俺は無理なんだよ」

「日曜日なんだから仕事はないでしょう? わたしだけなんて、そんな……なんでついてきてくれないの?」

「姉さんが俺は来るなって言ったんだよ!」


 怒鳴られて、びくりと身を縮こまらせる。そんな芽衣子の反応を見て、優介ははっとしたようだった。


「ご、ごめん……」

「ううん、いいけど……。そんな……わたしだけなんて、お義姉さんに何を言われるか……。あなたですら対応出来ない人なんだから、わたしなんかじゃどうにもならないわ」

「……ママには申し訳ないと思っているよ。でも、あっちはもうそう決めて譲らないんだ」

「そんな……」


 結局話は堂々巡りとなり、ふたりはため息とともにベッドに横たわった。眠ろうとしたがなかなか寝付けなかった。今度の日曜日が憂鬱だった。




「へえー、じゃあ優一は図画工作が得意なんだ」

「うん! いつも先生に褒められる!」


 少し高めのファミレスに入って、優一はパフェを食べられて上機嫌だ。

 久々に会った琴美は、なぜか若返っているように綺麗だった。出産したら普通は容貌が衰えると聞いたことがあったけれど、琴美に関してはそれに当てはまらないらしい。


 琴美は挨拶も早々に、すぐに優一の心をわしづかみにした。「パフェを食べてもいいよ」と言ったからだ。どうせお金を払うのはこちらなのに。


 そして出会って早々に優一と自己紹介をしあって、早速生物学上の息子を呼び捨てにしている。優一の頬についた生クリームを指でぬぐって、そのまま自分の口の中に入れたときには驚いた。そんなこと、芽衣子だったら絶対に出来ない。だって汚いから。


「それじゃあさ、どう? 伯母さん、パパと似てる?」

「うん、伯母さんパパと似てる」

「どのあたりが?」

「目が似てる」

「目?」

「パパの目と伯母さんの目は真っ黒でよく似てる」

「日本人なんだからみんな真っ黒に決まってるじゃーん!」


 琴美は腹を抱えて笑っているが、実際に優一の言っていることは的を射ていた。優介と琴美の目はたしかにそっくりだ。小粒で丸々としていて、瞳の虹彩は黒を際立たせている。


「じゃあ、優一はパパと似てる?」

「うーん、わかんない。でも鼻の形が似てるって言われたことはある」

「じゃあー……」


 琴美は意地の悪い目で優一の隣に腰かける芽衣子へと視線を移した。


「優一はママと似てる?」

「うーん……」


 どきっとした。この人は何を言い出すのだろうと思った。これがいたずらなら相当なものだ。優一が桜の木にパンツを投げることなど、この人のいたずらに比べればかわいいものだと思えた。

 優一がなんと答えるかひやひやしていると、パフェに乗っていたバナナを咀嚼しながら、「我が子」は答えた。


「ママみたいにすらりとしているねって言われたことはある」

「そっかー。確かに優一、スタイルいいもんね。芽衣子さんみたいなすらっとした体型だし。将来はファッションモデルとかになったらいいんじゃない? 優一、イケメンだからきっとなれるよ」

「僕ってイケメンなの?」

「イケメンだよ! 誰よりもイケメン!」


 芽衣子は呆然としてしまった。子どもに自分はイケメンかどうか尋ねられて、一秒の迷いもなくイケメンだと答えられるのは、やはり血の繋がった母親だからなのだろうか。


 琴美が何を考えているのかわからなかった。ただわかることは、琴美が優一をかわいく思っていることくらい。


「ねえ、今度伯母さんの家に泊まりに来なよ。優一の食べたいもの、なんでも用意してあげる」

「お泊りはお友達に迷惑をかけるからダメだってママが……」

「お友達じゃなくて伯母さんだからいいんだよ! 優一と伯母さんは、血が繋がってるんだからね。お友達よりもずっと深い関係なんだから」

「そうなんだ」

「そうだよ! なんなら今日このあとおいでよ。着替えとかは買ってあげるからさ」


 優一はパフェを食べるスプーンを止めて、一瞬何かを考えるような素振りを見せたのち、


「ねえ、ママー」


 と、いつもの何かをねだる声を出した。


「伯母さんの家に泊まってもいい?」

「それは……パパに聞かないと」

「芽衣子さんも律儀ねー。なんでもかんでも優介にお伺いを立てて」


 テーブルに頬杖をついて、アイスティーをストローからすすったのち、琴美は嘲笑に近い笑みを浮かべた。


「優一のこと、自分じゃ何も判断出来ないんだ?」

「……すみません。今日いきなりというのは無理です。また優介さんと話し合って決めてください」

「はいはい、そうよねー。どうせあたしは、優一を捨てたんだもんねー」

「僕を捨てたの? いつ? どういう意味?」


 冷や汗が溢れて止まらなかった。芽衣子は優一の質問に適当に相槌を打って、「このあと用事がありますので」と言って伝票をもって席を立った。琴美が何を考えているのか、まったくわからなかった。




 その晩、三枝家の面々がみな寝静まった深夜に、琴美から優介のスマホに電話があった。その音で起こされた芽衣子と優介は、着信相手が琴美であったことに嫌な予感を覚えて顔を見合わせる。


「……もしもし」


 不承不承といったていで優介が電話に応じた。通話相手の琴美は酔っているのか、甲高い声が芽衣子のもとまで届いてきた。


「えっ? 何を言い出すんだ、そんなの困るよ。もうこれは家庭裁判所の決定なんだぞ。今更そんな……、ちょっと待ってよ、姉さん!」


 短い会話で通話は終わった。けれど夫の優介は、ひどく困ったように切れたスマホの画面を見つめている。


「お義姉さん……、なんだって?」


 こわごわ聞いてみると、案の定ろくでもない答えが返ってきた。


「優一を返して欲しい、って。もとの母親は自分なんだから、裁判でもなんでもおこして取り返す、って」


 芽衣子の脳裏に、優一の頬についた生クリームを指で拭って、そのまま自分の口の中に入れた琴美の姿が過った。


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