二章・2
また、優一は黄昏泣きをする子どもだった。夜に散々泣いて、昼間に好きなだけ眠り、ご機嫌な時間はごくわずか。バウンサーに乗せて急いで夕食の支度をしていると、急に黄昏泣きがはじまるので芽衣子は参っていた。
泣いている赤ん坊を放置することは芽衣子の性格上どうしても出来ないことで、仕方がなしに優一の世話を焼いていると優介が帰宅する。帰宅したときに、食事が出来ていないと優介は不機嫌になり、風呂の準備が出来ていないとさらに不機嫌になる。すぐに機嫌が悪くなるところは、優介も優一もそっくりだと思った。
「芽衣子は専業主婦だろう? そりゃあ、初めての育児で手を焼くことも多いだろうけど、やるべきことはきちんとやっておいてくれないと困るよ」
「はい、ごめんなさい。すぐに支度します」
優介が優一を抱き上げたのをいいことに、芽衣子は光速で風呂の準備をし、急いで夕飯の支度にとりかかるのだった。
その日もその日とて優一は夜泣きをした。生理が再開してひどく疲れていた芽衣子は、泥のように眠りたい気持ちから引き揚げられ、重たい身体を引きずって優一のもとへと向かう。いつもより軽い夜泣きだったので、寝室で泣き止んでくれるかな、と願いを込めてあやしていたところ、
「うるさいなあ……」
という優介の言葉が聞こえてきたので、慌てて寝室を出る。寝室を出たとたん、優一は火がついたように泣き出した。仕方がないので芽衣子は外に散歩に出ることにした。これ以上、優介の睡眠時間を邪魔してはいけない。
芽衣子はすっかり疲弊していた。優一が来てからこの方、三時間以上連続で眠れたためしがない。おまけに、優介の実家から送られてくるオモチャで遊ぶことを覚えて、散らかしたままになってしまっているため、家が「大人の家」から「子どもの家」に変わってしまったことに、優介はあまりいい感情を抱いていないようだった。そのため、優介が帰宅するまでに優一の遊びを切り上げてオモチャを片付けねばならず、さらに優一は黄昏泣きもするのでてんやわんやな日々だった。
外に散歩に出ても優一は泣き止まなかった。このままではご近所に迷惑をかけてしまう。ふらふらした足取りで、芽衣子がたどり着いたのは公園だった。ブランコに腰かけてゆらゆら揺れると、ようやく優一が泣き止んで不思議そうな顔をする。
「パパ、うるさいなあ、だってさ」
芽衣子は、笑顔で優一に話しかけた。
「ママだってうるさいなあって思っているのにね?」
優一は口を「ほ」の形にしたまま語り掛ける芽衣子の瞳を見ていた。
「もとはといえば優くんは、パパが欲しがったからうちに来た子なのにね?」
ねえ、優くん。
「ママはもしかしたら家政婦なのかな? パパが欲しがった優くんの面倒を見る家政婦。――ママは優くんなんて欲しくなかったのに」
そこから堰を切ったように言葉が溢れて止まらなくなった。
「ママね、どうしても優くんをかわいいと思えないの。どうしたらいいのかなあ。ただパパのご機嫌を取るためだけに優くんのお世話をしているの。優くんのうんちなんて汚くて触りたくもないし、優くん、よく吐き戻しするでしょ? あのときだってぞわぞわ鳥肌が立ってたまらないの。優くんの小さなおちんちんだって出来れば見たくもないし、おしっこも臭いから嫌い。それにママが優くんのお世話でくたくたに疲れているのに、自分だけ自由気ままに振舞っているところも大嫌い。ママはね、優くんが嫌いなの。本当は今もポーンと放り出したいくらい」
ポーン、と言って高くに抱き上げると、優一は高い高いをされたと勘違いしたのかキャッキャと笑い出した。その無邪気な笑顔に、芽衣子の心は重くなる。
「ブランコ、こごうか。一番高いところで、お空に飛ばしてあげようね」
言って芽衣子はブランコをこぎだした。片手に優一を抱いているので、それほど高くまではこげない。それでも一番高いところに到達したとき、芽衣子は優一を放り出そうとしていた。
そこで我に返る。
「あっ」
優一は初めてのブランコがお気に召したのか、楽しそうに笑顔を浮かべている。
(わたし……、な、なんてことを)
芽衣子は今、本気で優一を宙に投げ出そうとしていた。それは殺意とか、憎しみとかとは違って、純粋に優一の面倒を見るのを放棄したかったからだ。
愛していない息子。戸籍上の我が子。かわいく思えない優一。それをポーンと放り出して、そのまま家に帰りたくなったのだ。
芽衣子は震えだした。
「ご、ごめんね。ごめんね、優くん」
優一はにこにこ笑っている。
「ごめんね。ママ、ママ失格だよね。優くんに意地悪しようとするなんて……、最低だよね」
(わたしには母性がないの?)
優一が産まれたときから、一片たりとも感じたことがなかった感情。母性。それはなんなのだろうか。芽衣子が優一に母性を抱けない理由は、優一と血が繋がっていないからだろうか、それとも優一の産みの母の琴美が苦手だからだろうか、あるいは単なる育児ノイローゼなのだろうか。もしかしたら芽衣子は欠陥品で、あらかじめ母性そのものが備わっていないのか。
これがお腹を痛めて産んだ子なら、芽衣子にも母性は芽生えていたのだろうか。それを思うと、優一が不憫でならなかった。この子はただ生まれてきただけだ。それなのに、芽衣子の感情に振り回されて、危ない目に遭わされそうになるなんて。
「ごめんね、ごめんね。優くん……」
芽衣子はぎゅっと優一を抱きしめた。
「ママ、ちゃんとしたママになるからね。優くんがお友達に自慢出来るような、立派なママに……」
この子に尽くそう、この子の育児を頑張ろう、この子が幸せになれるように愛する努力をしよう。
芽衣子はかたく誓って、機嫌のよくなった優一を家に連れ帰って、ベッドに寝かせた。




