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母親失格  作者: 遠山優佳
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二章・1

 優一が我が家にやってきた。


 夫との夫婦間でまず変わったことは、相手のことを芽衣子、優介さん、と呼んでいたのが改められて、パパ、ママと呼び合うようになったことだ。このことに最初は慣れず、自分がママと呼ばれることも気色が悪かったし、優介のことをパパと呼ぶのも違和感があっていやだった。


 けれど育児はもっと辛かった。


 多くの赤ん坊がそうであるように、赤ん坊というものは昼夜問わず、泣く。おむつが湿っていたりお腹が空いていたりと理由は様々だったが、理由がわからず泣かれるとほとほと困り果ててしまう。優介は開業医なので比較的はやく帰宅するほうだったが、昼間は完璧なワンオペ育児だ。それに優介には古風なところがあって、育児は女がやるものと決めつけており、目の前で優一が泣いていてもスマホをいじったままだった。


 そういうとき、芽衣子は抱いてはいけないはずの苛立ちを覚える。あなたが欲しいって言ったんでしょう。あなたが跡取りにしたいって言ったんでしょう。だったら少しくらい、育児を手伝ってくれたっていいのに。


 優一を産んだのは芽衣子ではないので、当然、母乳は出ない。完全ミルクで育てることになるのだから、それは男がやっても女がやっても同じことだ。子どもが好きというわりには子どもの――一応我が子の世話を焼こうという気はないのだろうか? 芽衣子は心底不思議でたまらなかった。


(子どもが好きだから小児科を開業したくせに……。「自分の」子どもの育児はしないの?)


 けれど優介が育児を手伝ってくれないことなど些末な問題でしかなかった。問題は、芽衣子の心のほうだった。


 たとえばおむつを変えるとき。おむつについたうんちをどうしても汚い、と思ってしまうことや、沐浴をして気持ちよさそうにしている優一の表情を見てもなんの感情も湧き出てこないこと、ミルクを飲ませていても幸せを感じることが出来ないこと……。どうしても一番かわいい時期であるはずの「我が子」をかわいいと思えなかったのだ。


 優介は対照的だった。面倒は見ないくせに「我が子」がかわいくてたまらないらしく、優一の機嫌がいいときは抱っこをしてあやしたり、休みの日には家族で散歩したり、優一の写真を何枚もとったり、それを外で自慢したり。


 休みの日は優一を連れて海などにも遠出した。それに付き合わされる芽衣子は、正直たまったものではない。優一のお世話に必要なものを実用性重視のママバッグに詰め込んで、折り畳み式のベビーカーを担ぐように車に乗せて、チャイルドシートに優一を固定し、疲れて寝不足なのに見たくもない海を見て、感動したふりをして。


「こういうのって子どもの頃からの情操教育が大事だと思うんだよな」


 誇らしげに優介は語る。


 優一は、はじめて見た海を見て「むわー」と泣いた。赤ん坊は海を見て泣くのか、と、優介とふたりで感心したのだけがいい思い出だ。あとはずっと優一が泣いていたため、芽衣子はそれをあやすのに必死だった。


「海は泣かれちゃったけどさ、山とかさ、もう少し大きくなったら連れて行こうよ。軽い登山とかさせて、自然の美しさを知る子になって欲しいんだ」


 うん、そうね。それは素敵ね。そう答えながら芽衣子は、その登山とやらに自分が付き合わされないことを祈るばかりだった。




 優一は夜泣きがひどかった。赤ん坊の泣き声というのは、病院の新生児室で見たときは「ふにふに」と泣くので弱弱しくて生命体として心配になったが、優一は家に到着してから「うんぎゃああああ」とこの世の終わりのように泣くようになった。


 生後半年くらいまでは、芽衣子も優介もそれを仕方のないことだと思っていた。けれど、次第に夜泣きをする優一を優介が疎ましく思っている態度をとりはじめた。なぜならこちらが眠れないからだ。

 そのため、芽衣子は優一の夜泣きがはじまると慌てて抱っこし寝室を出て、優介から一番離れたところで優一をあやさなくてはいけなくなった。優介を寝不足にさせて翌日の仕事に響かせては大変だ。優一はぎゃあぎゃあ泣きわめき続け、芽衣子は冷や汗を浮かべる。優介が芽衣子に激しい怒りをぶつけたことはないが、彼の機嫌を損ねることは避けたかった。


「優くん。優くん。泣き止んで」


 おむつでもない、ミルクでもない。育児書には赤ん坊はただ眠いという理由で泣き出すことがあると書かれていたこともあったので、それかもしれないと思いながら、だったらどうしたらいいのか育児書には書いてなかったことが悔やまれる。


 泣き始めると芽衣子がすぐに抱っこしてあやすので、優一はすっかり抱き癖がついてしまった。腕の中で眠ったと思っても、ベッドに置くと泣き出すのだ。そのせいで芽衣子の睡眠時間はかなり減り、かつてちやほやされた美貌もすっかり衰え、「育児に疲れたお母さん」といった容貌になってしまっていた。

 もしも。芽衣子は思う。


(もしも自分の子だったら、それも仕方のないことだと思えるのかしら)


 誰かを頼りたかった。優介は頼りにならないことがわかったし、優介の実家を頼るのも憚られる。芽衣子の実家はかなり遠方なうえに、養子をとることに――その養子が芽衣子と血が繋がっていないことに――かなり難色を示していたので頼るわけにはいかない。


 絶海の孤島に優一とぽつんと取り残されてしまったようで、芽衣子はいつも心許なかった。


(自分の子どもだったら……)


 そう思わずにはいられない。


(こういう育児も楽しむことが出来るのかしら……)


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