七章・2
いくら自分を堕胎しようとしていたと知っても、優一はもう芽衣子たちのいる自宅に帰る気はないようだった。仕方がないので名目上は「伯母に預ける」というかたちで、芽衣子と優介は優一を琴美に返した。
荷物は追って芽衣子が優一の部屋を整理しながら送ることになった。琴美の暮らすタワーマンションでは、どうやら部屋が余っているらしい。
(お義姉さんなんかに優一を預けたら、どんどん堕落した生活になってしまうにきまっているわ……)
けれどそんなこと、芽衣子に口を出せた義理ではない。優介はまだ優一を跡取りにすることを諦めていないらしく、
「気持ちが変わったらいつでも連絡してきていいんだぞ」
と、言っていた。優一は頷かなかった。
それから、琴美が優一を連れて帰り、芽衣子たちは優芽を含めた三人でタクシーに乗る。
「……ずっと思っていたのか」
優一にそう問われたとき、主語がなくとも何を指すのかはわかっていた。
「はい」
「そうか……」
優介は深くため息をつく。
「ママにも、大変な思いをさせちゃって、悪かったな」
そのとき、急に優芽が泣き出した。火が付いたような泣き方だった。優芽をあやすのに必死で、芽衣子は優介の言葉に答えることが出来なかった。
自宅についた芽衣子は、そのまま優一の部屋に直行した。まず学業に必須の荷物を優先して琴美の家へ送り、着替えを送り、そのあとに趣味のものを送ろうと考える。もともと優一の部屋の整理は芽衣子がしていたので、どこに何があるかは把握している。
急ぎ今使っている学業教材を箱に詰め、過去の教科書類はどうしようかと考える。ふと、目に飛び込んできたのは優一の夏休みの宿題である日記だった。最近の教育はゆるやかに出来ており、毎日ではなく何か特別なことがあったときだけ日記をつけるので構わなかったので、優一はそれに甘えて、日記を一日分しか書かずに提出する、なんてこともよくあった。
なんの気なしに、芽衣子はその日記を開いてみた。
8月5日(晴れのち雨)
お父さんとお母さんが花火大会に連れていってくれました。
花火大会はすごい人で、やたいにならんでいる食べ物はどれもおいしそうにツヤツヤしていました。僕が「とうもろこしが食べたい」というと、お母さんが買ってくれました。
お父さんが、花火があがっているときに「たまやー」と言いました。
なぜ「たまやー」というのか聞いたら、僕にはわからないむずかしいせつ明をはじめました。
お父さんは頭がいいので、いつもむずかしいことばかり言うのです。
花火を見ているうちに雨がパラパラ降ってきました。お母さんが、自分がぬれるのもおかまいなしに僕にかさをさしてくれました。
とうもろこしはとてもおいしかったです。
花火もとてもきれいだったです。
「う……」
芽衣子はその場に突っ伏した。
「――ううううぅぅっ……!」
愛していなかった。かわいくなんてなかった。それは偽らざる本心だ。けれど、自分たちは形だけでも家族だった。家族だった時間があった。
(愛していない、なんて)
言うんじゃなかった。
わたしはいったいどれだけあの子を傷つけただろう。
「ごめんね、優くん……」
愛していない「息子」に向って謝る。
「ごめんね……」
優芽はすくすくと育っていった。優介が言うには「ママに似てよかった」というほど自分に似ているらしく、確かに外を歩いているとお年寄りなんかに「ママとそっくりねえ」と言われる機会が多い。
優芽はおしゃまで、歩き出すのも早ければ言葉を覚えるのも早かった。そして、優一が落ちた幼稚園に見事合格した。大学までエスカレーター式の幼稚園なのだが、付属の大学は医学部がないため、また受験しなおしてもらわなくてはならない。
「優芽ちゃん、パパの病院の跡継ぎになってくれる?」
芽衣子が冗談半分で問うと、優芽はきょとんとしたのち、なぜか胸を張って、
「いいよ。ゆめちゃんがパパのあとつぎになってあげる」
と、言った。
優芽は実際に出来た子だった。おしゃまだった性格は年齢があがるにつれて落ち着いていき、規律に反することは絶対にしなかった。小学校ではいつも成績がトップクラスで、それは中学校でも変わらなかった。こんなに出来のいい子が我が子だなんて、と優一を育てたあとだからなおのこと感慨深く思う。
男児にクリニックを継がせたがっていた優介も、優芽の出来の良さと、優芽本人が「パパの跡を継いでお医者さんになりたい」と言っていることもあってか、女の子だが「さえぐさ小児内科クリニック」を任せる気でいるようだった。そもそも、跡継ぎが男でなくてはならないという決まり事なんてないのだ、ということに、ようやく気が付いたらしい。
高校生になって早々に、優芽は医大の受験対策をしたいから専用の予備校に通わせて欲しいと申し出た。その言葉に一番喜んだのは優介だ。高校一年の春からもう対策を練るだなんて、やや四角四面な性格をした優芽らしい。
高校の三年間はあっという間に過ぎた。優芽は本当に、お友達とのトラブルもなく、教師から呼び出されるような悪さもせず、身内の欲目を抜きにしても、とてもいい子に育った。
やがて大学受験がはじまって、優芽はいともあっさりと志望校の医学部に合格することが出来た。誰よりも喜んだのはやはり優介で、優芽に多額のお小遣いをあげていた。けれど優芽はそれを固辞した。お小遣いは自分でアルバイトして稼ぐからいらない、と。
優一のことはぱらぱらと聞いていた。このあたりで一番偏差値の低い高校に入学したらしいが、なんでもすぐに中退して大工になる道を選んだらしい。琴美は相変わらずだらしない生活態度を改めようとしなかったらしいが、優一もだいたいのことはひとりで出来るようになっていたし、ふたりの共同生活はそれなりにうまくいっていたのだとか。
大工というから建物を建てる大工なのかと思ったら、なんと宮大工だというから驚いた。優一がそんなにことに興味を持っていたことに、芽衣子はまったく気付けなかったからだ。
宮大工、と聞いて、腑に落ちるものがあった。もしもあのまま、芽衣子たち夫妻が優一を育てていたら、優一は宮大工なんていう職業には就けなかっただろう。なれたかどうだかわからないが、無理やり医者にならされて、好きでもない仕事で日々を浪費する。それを思えば優一が自分で選んだ進路のほうが、彼のためになるに決まっていた。
それから長い歳月が流れたある日のことだった。やけにきれいな装飾のほどこされた白封筒が郵便物の中に紛れていたので、宛名を見ると、「三枝優一・涼香」と書かれていたのでぎょっとする。もしかして……とはやる気持ちで封を切ると、それは結婚式の招待状だった。芽衣子と優介、そして優芽を招待している内容だ。
それは結婚式の招待状だった。なんでも優一は涼香なる女性と結婚するようで、両親として結婚式に参加して欲しいという胸がメモ用紙に書かれていた。
その晩、優芽が部屋に引っ込んだあと、芽衣子は優介に招待状を見せた。
「あいつが結婚かあ……。早いなあ」
「そうかしら。パパのほうが早かったじゃない、二十七歳でしょ? 優くんは今三十歳だから、ちょうどいいころ合いなのかもしれないわ」
「出来ちゃった結婚じゃないだろうな」
「そうだとしてもわたしたちには文句を言う権利はないでしょう」
それで……、と、芽衣子は本題を切り出した。
「どうする? わたしたち、出席してもいいのかしら」
「するしかないだろう」
優介はどこかうれしそうだ。
「両親として参加して欲しいって言われたらな、断るわけにはいかないだろう」
「そうね」
芽衣子は心穏やかにほほ笑んだ。
「……そうね」
優一と家族だった十二年間を思い返しながら、芽衣子は結婚式の返信用の用紙の「参加」に大きく丸を付けた。芽衣子の腕の中に、優一をはじめて抱っこしたときの感覚が蘇った。
了




