六章・1
しかし結局、芽衣子は優一からされたことを優介に相談することが出来なかった。いたずらならあまりに悪質すぎるし、本気ならもっとやっかいだ。こんなことを優介に話したら、体罰すら免れないかもしれない。お腹が大きくなっていくにつれ、暴力的なものや、胎教に悪いものから遠ざかりたかった芽衣子は、「もう一度、優一が同じことをしたら今度こそ優介に叱ってもらおう」と考えた。
けれど、実際は違うのかもしれない。専業主婦だから金持ちである旦那に寄生しなければ生きていけない――そう優一に言われたのがショックで、なんでもかんでも優介に頼るのはやめようと思ったのだ。
優芽がお腹にいる間に、優一は小学六年生となった。いよいよ本格的な受験生だ。塾も総力をあげて受験体制に入ったし、家の中はいっきにピリついた。そんな中に――優芽が産まれてきた。
義姉の琴美と同じく優一の父が院長を務める大学病院で、無痛分娩にしてもらった。出産時、本当に痛くなかったので驚いた。助産師の掛け声に応じて、いきむ。
「ダメダメ、目は閉じちゃダメ。手はこのレバーを握って、足は開いて。――はい、今だよいきんで!」
いきむ、という感覚がわからなくて苦労した。力む、と何が違うというのだろう? しばらく言われた通りいきんでみたのだが、優芽の頭がなかなか出てこなかったので、医者が執刀して芽衣子の膣の入り口を切った。痛みはもちろん感じなかったのだが、ばちん、とすごい音がしたので、これは予後が大変そうだぞ、と思っていたところ、医者が膣を切ってくれたおかげか、ゆっくりと、ぬるりと優芽がこの世に誕生した。
世界に産み落とされたとき、優芽は泣いた。優一のときよりも元気な泣き声だったかもしれない。紫色で、ぬらぬら光って――でも、かわいい、と思った。助産師が産まれたばかりの優芽を見せてくれて、優一のときと同じくすぐにどこかへさっと持って行ってしまう。戻ってきたときには、優芽は紫色でなく赤い色になっていて、もうぬるぬるした羊水に覆われていなかった。
「ママ、ありがとう」
立ち合い出産だったので、優介が優芽を抱っこしながら男泣きに泣いた。
「俺たちの子どもを産んでくれて、どうもありがとう」
優介の腕の中にいる優芽を見ながら、やっぱり芽衣子は、かわいい、と思った。やわらかくてふにゃふにゃで、一瞬でも目を話したら死んでしまいそうな脆い生き物。わたしが守らなくては。
優一は義実家に預けてあった。勉強が大事な時期というのもあったし、なんとなく芽衣子は、優芽の出産に彼を立ち会わせたくなかったので、義実家が優一を預かる旨を申し出てきてくれたときは心底ほっとした。
(かわいい)
芽衣子も泣きそうになった。
(かわいい。どうしよう――かわいい)
優一のときにはついぞ抱けなかった感情を抱けて、芽衣子は戸惑い半分、喜び半分で優芽に手を伸ばした。
受験生の優一と、産まれたての優芽の世話をする生活がはじまった。
芽衣子が一番驚いたのは母乳が出ることだった。最初はほとんど出ずに、ぽたぽたと垂れるだけの状態だったのだが、看護師の地獄のマッサージによってどんどんお乳の出がよくなっていき、今ではビームのようにびゅーびゅー母乳が出るようになった。
おっぱいをやるとき、優芽ははふはふと乳首を探し、ばくっと咥えつく。その仕草があまりにかわいくて、本当はずっとおっぱいをあげたいくらいだったのだが、間に合わないときはミルクを作る。ミルクを作る作業は優一のときに散々やったのでもう慣れっこだ。もう十二年前の出来事だというのに、ミルクを作る作業には進化がなくて驚いた。代わりにおむつは進化していた。軽量になり、吸水力があがっている。サイズも様々な展開を見せていた。
驚いたのは、おしっこもうんちも吐き戻しも、優一のときはいやでたまらなかったのに、優芽に対しては何も感じなかった点だ。加えて優芽は寝つきの良い子で、夜中にふにふに泣き出して、おむつでもおっぱいでもない場合、頭を撫でているとそのうちにとろんと眠ってしまう。それが、芽衣子にはたまらなくかわいかった。また、優芽を寝かせているときに家事をこなしていると、優芽のことを考えるだけで母乳がにじみ出てくることには驚かされた。
(あるんじゃない、わたし……。あるんじゃない、母性本能)
優一に感じることの出来なかった母性、という気持ち。それがないことで芽衣子はずいぶん自分を責めた。だから優一がどんなにいたずらをしても強く怒れずにいて、それで優一になめられていたのだ。
ふたりめの子育てだからというのもあるかもしれないが、実質芽衣子が産んだのは優芽だけなので、やはり「産む」という過程を経ないと、母性本能は働かないのだろうか、なんてぼんやり思う。
優介は優芽にメロメロだった。帰宅したらずっと優芽を抱っこして離さず、優一のときには手伝ってくれなかったおむつの取り換えやミルク作りにも参加してくれた。よく、男親は赤ん坊のことをはじめはかわいいと思えないらしい、という記事をネットで見たが、優介はそれには当てはまらないようだ。まして優一のときにやってくれなかったことをしてくれるのだから、やはり優介にとっても優芽は特別な存在なのだろう。
(二十代のころあんなに頑張っても妊娠出来なかったのに、今になって子どもを産めるなんて……)
芽衣子と優介は優芽にかかりきりだった。そのことについて、優一は別段何かを感じている素振りは見せなかった。優芽に対しても、かわいがるでも、いじめるでもなく、つかず離れずの距離を保っていた。だから安心しきっていたのだ。勉強はもう塾に任せるより他ないところまで来ている。優介は相変わらず優一を跡取りにするつもりでいるようだったし、家庭内は平和だ。むしろ、優芽という家族が増えた分、幸せだった。
だから浮かれていて気が付かなかったのだ。優一が、芽衣子や優介に隠れてあんなことをしていただなんて。




