五章・3
「女の子?」
優一の前では、赤ん坊の話題は避けるようにしていた。だから優介にお腹の赤ん坊について話すときは、いつだって夜、眠る前の夫婦の寝室だ。
女の子、と言ったとき、優介の頬に赤味が差した。
「俺……、女の子なんてクリニックの跡を継げないから意味がないって思ってたんだけど……、どうしよう、今、すごくうれしいんだ」
「わたしもよ。わたしも、すごくうれしい。男の子でもうれしかったと思うけど、女の子のママになるのが、昔からの夢だったから」
ふたりで喜びを分かち合って、女の子にさせたいこと、たとえばピアノやヴァイオリン、バレエやその他もろもろの習い事を並べ立ててはしゃいだ。そろそろ寝ようかとベッドに横になったとき、優介が言った。
「ユメ、って言うのはどうかな。名前」
「ユメ? ドリームの夢?」
「漢字は、優介から一文字と、芽衣子から一文字とって、優しい芽って書いて、優芽」
優一の名前を決めたとき、照れたように語った優介の姿が重なった。芽衣子はもともと名前に頓着はなかったのだけれど、優芽というのはとても良い名前のような気がした。なんといっても、自分の名前から一文字もじってくれているのがうれしい。
「いいと思う。すごく素敵。優芽ちゃん……はやく大きくなって産まれてきてね」
「楽しみだなあ」
「ねえ。楽しみねえ」
それから優介は、寝ても覚めても優芽のことについて話す場所をわきまえずに語るようになった。女の子ならおしゃれのさせがいもあるだろうが、ギャルみたいなのは俺は嫌だぞ、とか、女の子だと人間関係に苦労しそうだから、そっと寄り添ってあげよう、だとか、優一が聞いていてもお構いなしに理想を語った。優芽は、まさにふたりの夢だった。自分たちの子どもなんて生涯持てないと思い込んでいたふたりだから、愛おしさもひとしおである。
優一は一度、芽衣子に「キモ」と言ったきり、暴言を吐くようなことはなくなっていた。それどころか優介に、
「妹が出来るんだからもっとしっかりしなくちゃダメだぞ」
と言われても、面倒臭そうに、
「わかってるよー」
と適当に答えるだけだった。暴言は吐かない。しかしその代わりに、優一が妹に興味を持つようなことはなかった。優介から何か言われれば肯定的な返事をするものの、自分から妹について尋ねてくるような真似はしない。
(たぶんこの子は、あんまり優芽ちゃんのことを歓迎していないのね)
――だったら自分たちの自由になる子どもをもうひとり産んで、俺のことはもう好きにさせてよ!
あんなことを言っていたくせに、いざ自分の立場が脅かされる子が産まれてくるとなると、怖気づいたのだろうか。
(でも、優介さんはあれで結構古風な人だから、跡継ぎは優くん、っていうのは変えないと思うんだけど……。そのことを優くんに伝えてあげたほうがいいのかしら)
しかしもしそのことを伝えたとして、だから何がどうなる? 優一がほっとするとでも? 優一はきっと、医者になどなりたいとは考えていない。勉強だっていやいやさせられている。優芽が女の子でなかったら、とっくに勉強など放棄しているかもしれない。
(優くんに関しては、現状維持がいいかもね)
芽衣子の胸は躍る。
(本当の子どもなら、わたしは母親として我が子を愛することが出来るかもしれない)
優一を育ててきた十一年間、いまだに抱けずにいる感情を、知ることが出来るのかも。
違和感を覚えたのは優一と家でふたりきりのときだった。
芽衣子は一階から二階に続く階段を掃除していて、下の階から掃除機でごみを吸い取り、ようやく上段に差し掛かったときだ。
ドンッ、と、身体を押された気がした。
よろめいた芽衣子は、慌てて手すりにつかんでバランスを保った。が、自分を押した人物を見て驚愕に震えた。
――優一だった。
「ゆ……優くん?」
優一なのか? 今、芽衣子の身体を階段の上から押したのは、優一だったのか?
「今……、ママのこと押した?」
――なんのために?
そんなの決まっている。ここのところようやくふっくらと丸みを帯びてきた芽衣子の腹――その中にいる自分の妹を、この世から消し去るためだ。まさか優一がそんな暴挙に出るとは思ってもおらず、芽衣子は怯えと戸惑いを含んだまなざしで優一の返答を待った。
優一はわずかな瞬間だけ無言になったのだけれど、すぐにへらへらと笑い出し、
「妊婦ってどうやってバランス取ってるのかなーと思って」
と、言った。
「だからってママを押したの? そんなことして、本当に階段から落ちたらどうするつもりだったの? ママのお腹には優芽ちゃんがいるのよ?」
「その『優芽ちゃん』ってやつさ、きしょいよ」
「きしょい?」
「まだ産まれてくるかもわからない子どもの名前呼んで、何浮かれてんの? って感じ」
驚きで言葉もなかった。――浮かれもするわよ。わたしはあなたを、血の繋がらないあなたを十一年間も育ててきたの。やっと自分の子どもが持てるっていうのに――わたしが浮かれているのは、全部あなたを育ててきたからなんだからね。
ぶわっと湧いた怒りの感情はすぐにしおれていった。芽衣子はもう優一になんの期待も出来なくなっていた。
「……このこと、パパに言うからね」
力なく芽衣子がつぶやくと、優一はまたしてもへらへらしながら、
「なんでもかんでも、パパ、パパ、パパ。あんたに意思はないの? パパに頼っていかなきゃ生きていけないの? あっ、そっかー、専業主婦だもんね。金回りのいい旦那に寄生しなきゃ、なんにも出来ないのかあ」
芽衣子は呆然とした。わたしが十一年間育ててきた子。わたしの子ではない『我が子』。――この子は、いったい誰?




