一章・1
養子をとろうと言われたとき、芽衣子はまだ二十九歳だった。
「俺の姉が妊娠したみたいなんだ。堕ろすつもりでいるらしいんだけど、男の子だって話で。俺もきみもいつまでも若くはないし、何年やっても着床すらしない不妊治療は諦めて、その子を実子として引き取って、『さえぐさ小児科内科クリニック』の跡継ぎとして育てて欲しいと思ってる」
「そんな、だって……」
二十九歳での不妊治療は、まだ一般的に若いと呼ばれる範疇だ。けれど、芽衣子が不妊治療をはじめたのは五年前。今よりもっと若かった二十四歳のときだった。結婚が二十二歳で芽衣子が二年経っても懐妊しなかったため、夫に不妊治療のクリニックを勧められたのがきっかけだった。二十四歳だからきっとすぐに妊娠するだろうと思っていたのだが、タイミング法からはじまり、ありとあらゆる手段を用いても芽衣子は妊娠しなかった。優介の精子には異常はなかったようだから、芽衣子の身体が妊娠に適していないということになる。二十四歳の若さで妊娠しなかったのに、二十九歳の今、妊娠出来るかどうかと問われると困ってしまう。自分の身体は決定的にぽんこつなのではないだろうか。そのことに、芽衣子は優介に対してひどく罪悪感を抱いていた。だから、自分で自分のおなかに注射を打つような治療や、終わったあともいつまでも腰が痛くなるつらい治療にも耐えてきたのだ。
それなのに、養子をとるなんて。
夫の三枝優介は芽衣子より五つ上の三十四歳。大学時代のサークルのOBだった彼と知り合い、在学中から交際をしていた。優介は、一般的に見れば理想の男性ではないかもしれない。ミスコンにノミネートされるほど、美しいと褒めそやされてきた芽衣子とは異なり、芽衣子よりも身長は低いし、まだ三十四歳なのに下っ腹は出ているし、最近は頭髪も怪しくなってきている。ちなみに、小太りで低身長だったのは、大学のOB時代から変わっていない。
それでも、優介は強引に芽衣子との交際を進めた。まだ学生で芽衣子が何も知らないのをいいことに、当時は研修医だった彼は忙しさの合間を縫って芽衣子にいろいろな経験をさせてくれた。男性経験のなかった芽衣子は、それだけでころりと簡単に「素敵な人だな」と思うようになった。
芽衣子はどちらかというと気が小さいタイプだったので、自分とは正反対の男気のある優介に惹かれたのだろう。この人についていけばきっとだいじょうぶ、という、謎の安心感を与えてくれるどっしりとした態度を「いいな」と思っていた。
優介のほうも芽衣子を――あるいは芽衣子の美貌をいたく気に入り、彼女が社会を知る前に、大学卒業と同時に求婚した。断る理由がなかったので、芽衣子はそれを承諾し、二十二歳という若さで二十七歳だった優介と結婚した。
結婚当時、優介は父親が院長を務める大学病院に勤めていたのだが、去年独立して「さえぐさ小児科内科クリニック」を開業した。もともと子ども好きだった優介は、父の病院でも小児科に勤めていたらしく、「自分の小児科を開くのが俺の夢だったんだ」とずっと語っていた。
「さえぐさ小児科内科クリニック」が開業するのを彼の隣で見ていた芽衣子は、こういう運命ってあるのだろうか、と不思議に思ってしまうほど、簡単にクリニックが軌道に乗るのを見て、感心するのも忘れてぼんやりとしてしまったほどだった。
今では芽衣子は、開業医の奥さんだ。芽衣子一筋の夫は浮気などしたこともないし、接待で女性のいるお店に行くときなどは必ず事前に連絡してくる。順風満帆で幸せだった。――子どもが出来ないことを除いて。
「わたし、まだ頑張れるよ。それにふたりの赤ちゃん、諦めたくない」
「そうは言っても、体外受精をいったい何回繰り返したと思っているんだ? うちは確かに普通の家より金はあるかもしれないけど、あれは結構な痛手なんだぞ。それに体外受精をこれだけ繰り返しても妊娠しないってことは、もう希望なんてないんじゃないのか」
優介が不妊治療に対する金銭のことに言及してくるのはこれがはじめてだった。夫がそんなことを裡に秘めていたことを知り、芽衣子は軽くショックを受けた。そして「もう希望なんてないんじゃないか」という言葉にも、やはりショックを受けた。
芽衣子は学生時代に本屋でアルバイトをしていたことくらいしか働いた経験がない。優介がたくさんお金を稼いできてくれるから、自分は優雅に読書をしながらお茶をしたり、不妊治療に専念したり出来るのだ。その夫に金銭のことを言われては、もう返す言葉はなかった。
「でも……」
でも、養子なんて。
(お義姉さんの子ってことは、わたしとは一切血がつながっていない子になる。そんな子を我が子として育てるなんて……、わたしにそんなこと出来るの?)
それに、跡取り息子を欲しがる優介とは対照的に、芽衣子は実は女の子が欲しかった。結婚する前は一姫二太郎を夢見ていたし、実際にその夢は今も捨てることが出来ない。
「お義姉さんの……相手の方はなんと言っているの?」
「わかるだろ、芽衣子」
夫はソファに座っていじっていたスマホをテーブルの上に伏せ、フーッとため息をついた。
「いつものことだよ。相手なんてわからない。それでも産まれてくる子どもには罪はないし、ちゃんと俺たちで教育を施してやれば立派な子に育つと思う」
(父親が誰かわからない子を育てるなんて……)
優介の姉、琴美は性に奔放な女性だった。優介より三歳年上だが結婚はしておらず、定職にも就いていない。過保護な両親に甘えてお小遣いをもらいながら実家の近くのタワーマンションで一人暮らしをしている。堕胎をしようとするのも、これが初めてではない。芽衣子の知る限りは過去に二度あった。そんな女性から産まれた子どもを、わたしが育てる? 父親が誰かもわからない、そんな子どもを……。
正直言って、いやだった。もともと芽衣子は義理の姉が好きではない。けれど優介に押し切られた。
「頼むよ、芽衣子。俺はせっかく開業した『さえぐさ小児科内科クリニック』を一代で終わらせたくないんだ」
もとをたどれば芽衣子の不妊がすべての原因なのだから、そう言われてしまえばぐうの音も出なかった。様々な複雑な感情が胸の中で渦を巻いたが、芽衣子は結局、
「……わかった」
と、頷いてしまったのだった。
後々それが軽率な判断だったということに気付くのだが、このときはそう答えるしかなかったのだ。




