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第7話 聖女イリス


 アンノウンが霧散した瞬間、俺の身体を締めつけていた触手が力を失い、どさりと地面に落ちた。


「っ……」


 自由になったはずなのに、両手足は焼けただれ、力が入らない。

 皮膚は赤黒く爛れ、触れれば今にも崩れそうだった。


「ショウ……!」


 セーニャが俺の顔の前で小さな足をパタパタさせ、今にも泣き出しそうな声で呼びかける。


 少し離れた場所では、アルフレッドが大木にもたれかかり、腹部を押さえていた。

 白い煙がまだ薄く立ちのぼり、焦げた匂いが漂う。


「……ぐっ……」


 彼の傷は、俺より深い。

 アンノウンの酸が、皮膚どころか臓器まで侵食しているのが見て分かった。

 このままでは──アルフレッドは本当に死んでしまう。

 ……と言っても、俺も動けない。

 両手足は焼けただれ、力が入らず、指一本すら動かせない。


(……くそ……何も……できねぇ……)


 そのとき──森の空気が変わった。


 風もないのに、木々がざわりと震える。

 光が差したわけでもないのに、俺たちの周囲だけがふっと明るくなる。


 銀髪の女性が、こちらを見ていた。

 次の瞬間、音もなく歩み寄ってくる。


 白い衣は風に揺れているように見えるのに、空気は微動だにしない。

 彼女が踏みしめた地面には淡い白光がふわりと残り、まるで歩くたびに魔力結晶が生まれているようだった。


(……こいつは、何者だ?)


 敵なのか、味方なのか。

 だが、もし敵なら──俺たちはとっくに死んでいる。


 アンノウンだけを的確に消し飛ばした彼女を、敵だとは思いたくなかった。


 身体は動かない。

 だから俺は、視線だけで彼女を追った。


 銀髪の女性はアルフレッドの横で静かに膝をつく。

 その動きには一切の無駄がなく、ただ神聖という言葉しか浮かばなかった。


「アルフレッド、大丈夫ですか?」


 その声は、耳に届くより先に胸へ染み込むような、不思議な響きだった。

 優しいのに、どこか“人ではない”気配を帯びている。


 アルフレッドは苦痛に顔を歪めながらも、彼女を見上げる。


「……イリス……様……」

「喋らないでください」


 杖の先が淡く光り、アルフレッドの腹部に触れる。

 焼けただれた肉がゆっくりと再生し、血が止まり、呼吸が少しずつ安定していく。


「かたじけない」


 アルフレッドは苦しげに息を吐きながらも、確かに回復していた。


「次は……」


 イリスは立ち上がり、俺の方へ向き直る。

 その瞬間──ティルファングがびくりと震えた。


『お前がここに来るということは』


 剣から、突然ティルの声が響いた。

 イリスの足が、俺の目の前でぴたりと止まる。


 森の空気が、一瞬で凍りついた。


「……ティル。あなたが戦闘以外で喋るなんて、珍しいですね」

『ボクの質問に答えろ。何が起きている』


 ティルの声は低く、鋭い。

 いつもの軽さは一切なく、まるで別人のようだった。

 イリスは小さく息をつき、俺の焼けただれた手に視線を落とす。


「……ショウに、まずは説明が必要ですね」


(……俺、名乗ってないよな? なんで、俺の名前を──)


 疑問が胸に浮かんだ瞬間、脳裏に“あの光景”がよみがえる。


 銀髪の幼い少女。

 陽だまりのように、ふわりと優しい笑顔。

 魔力のない俺に向かって──


『大丈夫。あなたは最強になれるよ』


 そう言って、ティルファングを手渡してくれた子。


 喋る剣は持ち主に合わせて成長する武器。

 そして──魔力暴走を止める唯一の力。


(まさか……)


「イリス……なのか?」


 俺の声は震えていた。

 しかし、目の前の彼女はぎこちない笑みを返すだけだった。


「イリス、久しぶりじゃないか。十一年ぶりか? 鍛冶はまだ続けているのか? 親父さんは──」


 思わず口から出た言葉。

 あの銀髪の幼子の面影が、目の前の彼女と重なったからだ。


 だがイリスは、困惑したように眉を寄せた。


「……?」


 その反応に、胸がざわつく。

 俺に剣を与えたイリスと、今目の前にいるイリスは──別人なのかもしれない。


 イリスは静かに息を吸い、表情を引き締めた。


「イリス……?」

「わたしはイリスであり、イリスではありません」


 その言葉は、現実感を伴わず胸に落ちた。


「ショウの知っているイリスは、失われた技術を生み出したことで、十歳の時に殺されました。わたしは【創世神イリス】。このヴァルグレイヴに“ひと”を根付かせた存在です」


 頭が真っ白になる。


(……見た目はイリスなのに、中身は神様……?)


 そして──俺にティルファングを託したあのイリスは、もういない。


「わたしのことよりも──まずは、イリスが死んだ理由。そして研究所のこと、魔力暴走について話さなければなりません」


 ごくりと生唾を呑む。


「アンノウンとは──魔力を暴走させ、人の姿を失った“成れの果て”です」


 森の風がぴたりと止まった。


「……人、の……?」

「はい。魔力に呑まれ、肉体も精神も崩壊し……残ったのは“魔力の塊”だけ。あれはもう、人ではありません」


 魔力の塊──魔力結晶。

 成れの果てとなった人間の姿に、胸がぎゅっと締めつけられる。


 イリスは静かに続けた。


「……ショウ。あなたが知っているイリス──彼女は、あなたにティルファングを渡したことで研究所に連れて行かれました」

「……え?」

「魔力を持たないあなたに、魔力を扱える武具を与えた。研究所の者たちは、それを生み出す彼女の才能に嫉妬し、恐れ、そして利用しようとした」

「イリスは……俺の、せいで?」


 俺の声は震えていた。

 イリスは瞳を伏せ、淡々と告げる。


「彼女は“魔力の源泉”として扱われました。魔力を持たない子どもや、暴走した子どもたちと同じように……道具として」


 同じく魔物に魔力を奪われたセーニャがはっと息を呑む。


「研究所は今も魔力のない子どもや、暴走の兆候がある子どもを勝手にさらい、研究材料にしています。彼らは“魔力暴走の仕組み”を解明しようとしているのです」

「そんな……」

「そして暴走した子どもたちの多くは──アンノウンになります」


 森の空気が重く沈んだ。


「じゃあ……救う方法は……」

「今は、ありません」


 イリスの声は淡々としていた。

 悲しみも怒りもなく、ただ事実だけを告げる声。


「むしろ放置すれば、残留思念がさらに歪み、もっと恐ろしい化け物になります。だから──見つけ次第、倒すしかないのです」


 セーニャが小さく震えた。


「イリス様、アンノウンの調査が進まない理由……分かりますか?」


 イリスはセーニャをまっすぐ見た。


「物理攻撃は通じない。魔法だけが唯一の対抗手段……ですが、魔力枯渇地帯では魔法が使えない」


 つまり──


「……詰んでる、ってことかよ……」

「ええ。だからこそ、あなたたちが生きていたのは奇跡です」


 イリスと同じ姿で語る“創世神”。

 その事実が、余計に胸をざわつかせる。


 魔力のない俺に向けて「最強になれるよ」と言ってくれた声。

 もう二度と会えないのか。


「イリスは……俺のせいで殺されたのか」


 言った瞬間、喉がひりついた。

 あの時、ティルファングを受け取らなければ、彼女は研究所に連れて行かれずに済んだんじゃないか。そんな後悔が、胸の奥で渦巻く。


「それは違います」


 イリスの声は、驚くほど静かだった。

 責めるでもなく、慰めるでもなく──ただ真実を告げる響き。


「あなたが剣を受け取ったことは、イリス自身の選択です。彼女は魔力のないあなたを助けたかった。あなたに力を与えたかった。その願いは、誰にも止められませんでした」

「でも……俺が受け取らなければ──」

「ショウ。研究所が彼女を狙った理由は、あなたではありません」


 イリスはそっと目を伏せた。


「彼女の才能です。魔力を持たない者に力を与える技術──それを研究所は欲しがった。あなたがいなくても、いずれ彼らはイリスを捕らえたでしょう」


 胸が締めつけられる。

 でも、同時に少しだけ肺に息が吸えた。


「……俺のせいじゃ、ない?」

「あなたは何も悪くありません。イリスはあなたを恨んでいませんし、後悔もしていません」


 イリスの瞳は、どこか懐かしさを含んでいた。


「むしろ、あなたに剣を託せたことを、誇りに思っていたはずです」


 その言葉が胸に落ちた瞬間、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。


 イリスは俯く俺の頬に、そっと手をかざした。


「……治します。少し、痛みますよ」


 杖の光が俺の身体を包む。

 焼けただれた皮膚が再生し、溶けた筋肉が元に戻っていく。

 痛みは引いていくのに、胸の奥のざわつきだけは消えなかった。


(……人が……あんな化け物に……)


 イリスは治療を続けながら、ぽつりと呟いた。


「ティル。あなたがここにいるということは、あの時の因果が、また動き始めたのかもしれませんね」


 ティルは沈黙した。


 目の前の神様と同様に、何かを知っている喋る剣。

 その沈黙が、何より不穏だった。

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