第11話 策士・セーニャ
スフォルタットは、この|ヴァルグレイヴ《灰と血に染まった戦乱の星》において、人間たちが唯一“街”と呼べる場所だ。
二千年前──隕石の衝突で元の星が崩壊し、人類は急遽この星へ移住した。
幸い、移住先の一帯には魔物も先住民族も確認されず、最初の数十年は驚くほど平和だったという。
潜在魔力を持つ人間たちは、荒れた土地を整え、建物を建て、街を築いた。
だが、そこから先が問題だった。
未開拓の大地は、謎のざらついた灰に覆われている。空気には灰色の粒子が混じり、視界はほぼゼロ。
吸い込めば喉が焼け、皮膚はただれる。生身で踏み込める環境ではなかった。
その灰の向こうには、先住民族がいるのか、魔物が潜んでいるのか何一つ分かっていない。
今判明している大陸の範囲など、この星の十分の一にも満たないだろう。
そんな中、研究所が“空気浄化装置”を開発した。
装置は灰を分解し、毒気を中和し、わずかだが人が歩ける道を作る。
狩人たちの力を借りて浄化範囲を広げ、スフォルタットの生活圏は少しずつ拡大していった。
この功績により、研究所は街の中で絶対的な地位を得た。
誰も逆らえない。ショウたちでさえ、迂闊に手を出せないのだ。
研究所は今も“魔力”の研究を続けている。
魔力暴走の原因、魔力欠乏の治療、そして生まれたばかりの子どもに“擬似魔力”を注入する実験。
過酷なヴァルグレイヴで生きるには生命エネルギーと別の位置付けとなる魔力が必要だ。魔力を持たない子は、ただ生きるだけでも苦しい。
だからこそ、一部の親たちは研究所を“神”と崇める。
「魔力を与えてくださる場所」
「子どもを救ってくれる場所」
そう信じて疑わない。
その裏で何が行われているのか、誰も知らないまま……
スフォルタットから東へ半日。
さらに森を抜けると、視界の先に巨大な湖が広がった。
デュルグ湖──本来なら澄んだ青色をしているはずの水面は、どこか濁って見える。
「……なんか、変じゃねえか?」
『ええ。湖の“気配”が薄いわ。生き物の気配もほとんどしない』
セーニャが羽を震わせる。
湖畔に近づくほど、空気にざらつきが混じり始めた。指先で触れると、細かい灰の粒がざらりと残る。
「……これは、ヴァルグレイヴの灰か?」
『そうね。普通はこの辺りまで飛んでこないはずだけど……』
灰は風に乗って漂い、湖面に薄い膜を張っている。水辺の草は枯れ、魚の死骸がいくつも浮かんでいた。
重々しい空気に喉が焼ける。確か、灰の混じる空気は生身に毒だってアルフレッドが言ってたな。
歴戦の狩人の言いつけを守り、ショウはそっと鼻から下を布で覆った。セーニャにも小さなスカーフをかけてやるが、烏の嘴を塞ぐと「息ができないでしょ!」と叱られた。
(サハギンの個体数が減ってるのは……これのせいか?)
湖の奥から、かすかな水音がした。
チャプ……チャプ……
「……おい、セーニャ。今の聞こえたか?」
『ええ。でも……何かおかしいわ』
水音は一定のリズムで近づいてくる。まるで“歩いている”ような──
次の瞬間。
湖面が爆ぜた。
「っ!?」
轟音を伴う水柱とともに、青緑色の影が飛び出す。
触れるのを拒む鋭い鱗、ヌルヌルと光る濡れた皮膚、手には獲物を確実に仕留める長い銛。
半魚人だ。
だが──その目が異様だった。白濁し、焦点が合っていない。──まるで何かに“侵されている”ような。
「うおっ、ちょ、待て待て待て!!」
サハギンは言葉もなく、一直線に俺へ突っ込んできた。
『ショウ、避けて!!』
「無理だって!!」
銛が振り下ろされる。
ティルファングは危険な時しか動かせない。ならば、と反射的に短剣を抜き、受け止めた。
ガキィンッ!!
腕が痺れるほどの衝撃に眉間の皺が深くなる。サハギンの力は、想像以上に強い。
「おいおい、これが本当に“穏やかな種族”なのかよ!!」
『普通は穏やかよ。これは絶対おかしいわ!!』
そして口角を吊り上げたサハギンの口から、泡のような灰色の液体が垂れた。
その液体が地面に落ちた瞬間、草が黒く溶ける。またポタポタとサハギンの口から灰色の液体が滴り落ちた。涎とか言うレベルではない。明らかにおかしい。
「灰の毒、か……!?」
サハギンは再び銛を構え、声にならない声で低く唸った。その目は完全に“正気”を失っている。
(やべぇ……これ、話し合いとか絶対無理なやつだ……!!)
陸戦型と思われるサハギンが高く跳んだ。
獲物を仕留める為に研ぎ澄まされた銛の切っ先が、俺の喉元を狙って一直線に迫る。
「っ──!!」
サハギンの銛が喉元から矛先をくるりと変えて右手を貫く。出遅れた短剣はなす術もなくカランと地面を転がった。
深々とショウの肉を抉る銀色の刃。
瞬間、視界が白く弾けた。
「ぐ、あああああっ!!」
痛みで呼吸が乱れ、肺がうまく動かない。
ぐらりと倒れ込んだ俺の胸に、サハギンの膝が容赦なく乗る。
ゴッ──!
「っ……がはっ!」
胸骨が軋む音がした。肺の空気が一気に押し出され、喉がひゅっと鳴る。
そしていつの間に水面から出てきたのか、もう一体のサハギンが、空いた左手首を掴んだまま俺を地面に押しつける。
鋭利な鱗に覆われたサハギンの指は鉄のように硬く、骨が砕けそうなほどの力で締め上げてきた。
「いっ……てぇ……っ!」
抵抗しようと足を動かすが、サハギンの尾が鞭のようにしなり、俺の脇腹を叩きつけた。
バチィッ!!
「ぐっ──!!」
衝撃で身体が跳ねる。脇腹に焼けるような痛みが走り、呼吸がまた止まった。
(……なんだよ、これ……強すぎる……! 本当にランク3の依頼なのかよ……!)
サハギンの白濁した瞳が、俺の顔を覗き込む。その距離、わずか数センチ。腐った魚のような臭いと、灰の毒が混じった息がかかり、込み上げる吐き気と酸っぱいものが喉を焼いた。
そしていよいよ銛が喉元へとゆっくり向けられる。
(やべぇ……殺される……!!)
右手は銛に貫かれて動かない。
左手も別のサハギンに押さえつけられ、指一本動かせない。
サハギンの喉から、濁った泡がぶくぶくと溢れた。その泡が俺の頬に落ち、皮膚がじりっと焼ける。
「っ……ああああっ!!」
これは灰だ。
こいつらは、元々温厚な種族なのかも知れないが、既にこの星の灰に侵食されている。
激痛に身体が勝手に跳ねるが、逃げられない。
サハギンはまるで“獲物の断末魔を楽しむ”ように、銛の切っ先を喉元に押し当ててきた。
鈍く光る冷たい金属が皮膚を押し込み、血が一筋流れる。
(……終わる……!)
その瞬間。
『おやめなさい、サハギン達!』
セーニャの声が湖畔に響いた。
サハギンの動きがぴたりと止まる。まるで主からの命令を受けたかのように。
『ひれ伏しなさい! この御方こそ、マーメイドの女王陛下でいらっしゃいますわ!』
(おいおいおいおい!!)
俺はどう見ても男だ。
いや、男どころか血まみれで地面に押しつぶされてる。
だが──サハギンの表情が、みるみる変わっていく。マジかよ……。
白濁していた瞳が澄み、荒々しかった顔つきが整い、鱗が薄れ、人間に近い、美しい男の顔へと変貌していった。
『マ……ーメイド……?』
サハギンが掠れる声で呟いた。
その声は、先ほどまでの獣の唸りとはまるで違う。まるで正気を取り戻したかのように。
(……セーニャの嘘が、効いてる……!?)
だが、俺の右手にはまだ銛が深々と刺さったままだ。
痛みで意識が遠のく。
(……くそ……まだ……倒れられねぇ……)




