貧しき日々
コップに水道水をつぐ。そして、男は、それをひと息に飲む。そして、また一杯。それだけであった。それが、彼の朝食であった。そして、近くの公園から拾ってきた煙草の吸い殻を大事そうに火をつけて吸う。これが旨い。至福の一服であった。
彼は、極貧の生活を送っていた。月に4万円の年金では、家賃と光熱費でほとんどが消えた。だから、食費を切り詰めて生活するしかなかった。食事は、お昼に食う袋入りラーメンだけである。朝と晩は、コップの水道水で凌ぐしか手がなかった。そして、彼は、もう七十八歳という高齢である。今の所は、これといった病気もなく過ごして来れたのが、もっけの幸いであった。
そして、安アパートの自室で、彼は、暇さえあれば、ラジオを聴いて暇を潰した。小型のポケットラジオである。月に一度の単3乾電池一本で事足りたから、これは安くついた。彼は、煎餅布団に寝転がって、飽きもせずにラジオの音楽に耳を傾けていた。
あと彼の楽しみといえば、アパートの近くの児童公園で、小さな子供たちが遊んでいるのを、隅のベンチに腰掛けて、煙草の吸い殻を拾って吸いながら、眺めて愉しむことであった。彼は、高齢の故か、子供たちをこよなく愛していた。彼らが無邪気に遊んでいる光景を眺めていると、時が経つのも忘れるのであった。時には、草野球やかくれんぼ、そして、ドッジボールと、男が喜ぶのには事欠かなかった。
その日の午後も、彼は、お昼に袋入りの味噌ラーメンを食べて満腹し、それから近くの公園で、子供たちが野球をして楽しんでいるのを飽きずに眺めていた。時折、足もとの煙草の吸い殻を拾って、吸っていた。野球のボールは、何度も空を飛んでは、小さなグローブにキャッチされた。そのたびに、男は、小さく歓声を上げた。
あるときに、ひとりの少年が、守備を守っていた場所から離れて、興味深げに男のところへやって来ると、グローブを鳴らせながら、彼に尋ねた。
「お爺ちゃん、いつもそのベンチにいるけど、暇なの?」
「うん、君たちが好きでね。勝手に見せて貰っているよ、いけなかったかい?」
「ううん、大丈夫だけど。僕、健太っていうんだ。この近くに住んでるんだ。お爺ちゃんも?」
「ああ、すぐそばのアパートにいるよ。一人暮らしでね。寂しいものさ」
「ふうん、ひとりで住んでるんだ。そうだ、今度、うちへおいでよ、何かご馳走してくれるよ、どう?」
「ありがたいが、悪いよ。みんないるんだろう?」
「ううん、僕は、母さんとふたりで住んでるんだ。だから、だいじょうさ。今から、どう?来ない?」
「悪いなあ?」
と、男は答えたが、内心、ありがたいと感謝していた。それで、健太と手をつないで、ブラブラと街中を歩いていった。
健太は、近くのマンションの2階に住んでいた。彼が扉を開けて、男を招き入れると、中から中年のやつれた感じの女性が、エプロン姿で現れた。健太が事情を話すと、母親は、顔を明るくして、
「まあ、そうですの?まあ、まあ、ゴタゴタしてますが、良かったら、お入り下さいな、何もありませんが?」
と、奥の応接間に通してくれた。男は、恐縮しながら、部屋へと入った。ふかふかのソファに座り、健太と、とりとめもない話をしていると、母親が、苺のケーキとコーヒーを持って、話に加わった。
「まあ、それはご苦労なことですわね?」
と、男から暮らしぶりを聞かされると、身につまされた顔をして答えた。
「月に4万円の生活は苦しいでしょう。分かりますわ。ああ、そうだ、ちょっとお待ち下さいな?」
母親は、ちょっとの間、席を外していた。何だろうと、男が訝っていると、しばらくして、大きなレジ袋を持ってきた。見れば、中に菓子パン類や、ラーメン、スナック菓子、缶ジュース類と数多く詰めてある。
「この子がいるもので、こんなものしかありませんが、良ければお持ち帰り下さいな、どうぞ」
男は恐縮して、丁重に礼を述べて、それらを貰った。すると、今度は、それまで楽しく会話していた健太までが、席を外すと、自分の部屋に戻ったのか、また帰ってきて、男に小さなカブトムシの形をしたキーホルダーを差し出した。
「これ、僕の宝物だけど、お爺ちゃんが好きだから、あげる。記念にもっといて」
「ありがとうよ、僕。お爺ちゃんが大事に持っとくよ、ありがとう」
それから少し、とりとめもなく話していたが、男は、タイミング良く暇を乞うた。母親が惜しんだが、何度も頭を下げて家を辞した。健太が連れて出た。また来てよ、と健太がねだったので、じゃあ、またねと言い、男は家路についた。もう夕刻の暗闇が近づいていた。男は急いだ。
帰宅すると、いつもの六畳間である。男はごろりと寝転んで、今日の思い出に耽っていた。実に良かったな、あの子も、母さんも。孤独な生活を強いられていた彼にとっては、今日は特別な一日であった。彼は、ゴソゴソとレジ袋を弄ると、中から缶入りのコーラを取り出して飲んだ。
そのあとで、急に胸の苦しみが起こった。訳も分からず、彼は流しへ行くと、コップの水道水を飲んだが、痛みは治まるどころか、ひどくなってきた。そして、胸をかきむしっていたかと思うと、やがて煎餅布団の上で動かなくなった。最後に、コクンと喉が動いたようだった。男の右手には、きつく、健太から貰ったカブトムシのキーホルダーが握りしめられていた...................。
健太は、最近、不審がっていた。あのお爺さんが来なくなったのだ。これで四日目である。何かあったのかな?健太は、また、あのお爺さんの人懐っこい笑顔が見たくてしようがなかった。彼に焦がれていたのだ。
しかし、子供は楽観的なものである。そこへ野球のボールが飛んでくると、
「オーライ、オーライ」
と叫んで、玉をキャッチしようとバックしていく。もう頭は、野球で一杯である。
いつもながらの、見慣れた児童公園の一光景であった.............。




