忘れられたピアノ
冬の夕暮れ、街は急速に色を失っていた。オレンジ色の西日がビルの谷間に沈みかけ、商店街のシャッターが次々と降りていく。吐く息は白く、風に運ばれてはすぐに溶けた。
奈央は、ふらりと一本脇道に入った。そこには、もう誰も気にかけないような古びた楽器店があった。木の看板は色あせ、ガラス戸には手垢と埃がこびりついている。けれども、扉越しに見える薄暗い店内には、どこか懐かしい匂いが漂っているような気がした。
彼女は大学二年生。子どもの頃からピアノを弾いていたが、音大進学の夢は途中で諦めた。周囲の期待や現実的な選択に押しつぶされ、いまは文学部で勉強している。だが、ピアノの音色を耳にするたび、胸の奥が疼いた。忘れたふりをしても、指先は旋律を求めてしまう。
扉を押すと、鈴がかすかに鳴った。
「……まだやってるんだ」
店内は薄暗く、天井の蛍光灯の一部は切れていた。壁には色あせた楽譜が掛けられ、ガラスケースには小物が並ぶ。だが一番目を引いたのは、店の奥に鎮座するアップライトピアノだった。艶を失った黒い塗装に埃が積もり、鍵盤の象牙は黄ばんでいる。けれど、そこにあるだけで空気が張り詰めるような存在感を放っていた。
奈央は近づき、鍵盤にそっと触れた。
冷たい。だが、その下に眠る音の記憶を、指先が確かに感じ取る。
一度だけ、と心の中で言い訳しながら、彼女は椅子に腰かけた。
最初の和音は、驚くほど澄んでいた。
長年放置されていたにしては、音はまだ息をしている。指が自然に走り、子どもの頃に練習したショパンのワルツが流れ出す。
——音楽は、身体の奥に刻まれていた。
抑え込んでいた記憶がほどけるように、旋律があふれ出す。
そのとき、背後で声がした。
「懐かしい曲だね」
奈央は振り返った。
カウンターの奥から、一人の老女が現れていた。白髪をひとつに束ね、深緑色のセーターを着ている。小柄だが背筋は真っすぐで、目には鋭さと温かさが同居していた。
「すみません……勝手に」
「いいのよ。あのピアノ、もう長いこと弾かれてなかったから」
老女はゆっくりと歩み寄り、ピアノの天板を指でなぞった。
「この子は、私の娘が使っていたの」
奈央は息を呑んだ。
「娘さん……?」
「ええ。音大に通ってね。夢は、ピアニストになることだった」
老女の視線は遠くを見ていた。
「でも病気で……若くして逝ってしまったの」
言葉が途切れ、沈黙が落ちた。外の風がガラス戸を揺らし、鈍い音を立てる。
「だから、このピアノも時が止まったまま。片づけられなくてね。いつかまた、この音が鳴る日が来ればと思っていた」
奈央は胸の奥が締めつけられるのを感じた。
彼女自身も、ピアノを諦めた自分をどこかで喪失したままだった。夢を失った老女と、夢を捨てた自分。二人をつなぐのは、いま鳴った旋律の余韻だった。
「もしよければ……もう少し弾いていただける?」
老女が穏やかに言った。
奈央は頷き、再び鍵盤に向かった。今度はショパンではなく、自分が中学のときに作った拙いオリジナル曲を選んだ。思春期の孤独を音に託した小さな旋律。
老女は静かに目を閉じて聴いていた。
音が店内を満たし、古い木の壁に染み込んでいく。
一曲終えると、彼女は涙をにじませて言った。
「……ありがとう。本当に、娘が帰ってきたみたいだった」
奈央の喉も熱くなった。
「私も、弾けてよかったです。ずっと……忘れたふりをしていたから」
二人はしばらく黙って座っていた。
外では夜の帳が降り、街灯が点りはじめている。
「夢を捨てるのは、悪いことじゃないわ」
老女はゆっくりと言葉を置いた。
「でもね、音楽は捨てなくていいの。形を変えてでも、あなたの中で生き続けるはずだから」
奈央は胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。
音楽を職業にしなくてもいい。けれど、やめてしまう必要はない。
彼女の中で、忘れられた旋律が再び灯りをともした。
帰り際、老女が小さな紙袋を差し出した。
「これを持って行って。娘が最後まで使っていた楽譜帳よ。もう私には開く勇気がなかったけれど、あなたになら託せる気がする」
受け取った楽譜帳は擦り切れていた。角は折れ、鉛筆の書き込みがびっしりと残っている。
奈央は胸に抱きしめるようにして、深く頭を下げた。
外に出ると、夜の空気が一層冷たく感じられた。
だが、心の奥には確かな温もりが残っていた。
通りの先に伸びる街灯の明かりが、まるで五線譜のように並んでいる。
奈央はその上に、まだ見ぬ旋律を思い描いた。
——忘れられたピアノが、再び彼女の人生を奏で始めたのだった。
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