○○として①
馨民の結婚式前後の話です。
メインは酉惟。
他、登場人物は、釈来、馨民、忒畝。
全2話です。
ピリピリとした空気を肌で感じ、酉惟は書類から目を離した。
視線を向けた先は──ふとしたときに、自然と眺めてしまう人だ。もうこんな時間をどれだけ過ごしてきたか、わからない。
赤味がかる茶色の──小豆色の、癖の強いウェーブの髪。昔は長かったのに、いつだったかバッサリと肩ほどまで切って。
あれ以来、釈来は髪を伸ばそうとはしていない。理由は──と、酉惟は過去に引きずられそうになった。
『わかる』なんて、言ってはいけないと我に返り、現在に意識を留める。
こうして助手になって二十年が経った。
『わかる』と言っても許されるのは──何だか釈来がイライラしている、ということくらいだ。
──忙しいのかな。
どんなに釈来がイライラしていようが、怖いとはまったく思わない。むしろ、逆だ。
釈来は昔から気負いすぎる。だから、心配するだけだ。
「釈来さん、よければ手伝えることはありますか?」
酉惟はその場のまま声をかける。
「これ適当に分けておいてくれる?」
「はい」
『適当に』そんなぼんやりした指示を、酉惟は的確な指示かのように了承する。
実に淡々とした──互いに、いかにも『業務的』な口調だった。
昔は──それこそ釈来の髪が長かったころは、もっと──。
酉惟の耳に雑音が──砂嵐のように、入ってきた。
周囲がざわめいている。ヒソヒソと入ってきた言葉は、釈来の『適当』という指示についてだ。
これにはため息を吐く。
釈来は自らの指示が不明確なことで起きたミスに、苦言を呈するほどちいさい器ではない。
──そんなことすら、理解している輩がこの研究室にはいないのか。
酉惟はだんまりで書類を手際よく分けていく。
釈来の手順を考え、並び替えも行う。
酉惟にとって、釈来のそばにいるとは、こういうことだ。
書類の並び替えを行っていると、年齢が半分ほどの新人が近寄ってきた。
「酉惟さんって、釈来さんのことが好きですよね?」
「君に答えることじゃない」
酉惟にとっては特段冷たい口調でも強い口調でもなかったが、新人にとっては冷たい態度で強い口調だったのだろう。
瞬時、固まってしまった。
けれど、酉惟は構わず──気遣いをしようと一切しない。
そうこうしているうちに、新人はふと我を取戻したかのように背を向ける。そうして逃げるように向かったのは、上司である釈来のところ。
「あんなに怖い人と一緒に仕事できません! この職場は……環境が悪いです」
横目で追いそうになり、酉惟は目を瞑る。しかし、どうも耳が大きくなってしまったようだ。
酉惟としては、無愛想な自覚はある。だから、己のことはどう言われようが構わない。だが、釈来を悪く言うような言い方だけは許せない。
「酉惟さんは、ただ……『私を恋愛対象として見ていない』なんて、ハッキリ言いにくかっただけじゃないかしら?」
聞こえてきた釈来の返答は、酉惟の思考とは別角度のもので。思わず目が開いた。
「彼は確かに人見知りなところがあるけれど、彼なりに、周囲には気遣った言動を私はしたと思っているけど。だって、私が『あなた、あの人のことが好きなんでしょ』なんて大声で言われたら、返答に困るわ」
何てことか──と酉惟が悔いたのは、釈来がにっこり笑ったからで。
咄嗟に手元へと視界を戻し、顔の筋肉の使い方を変えまいと必死になる。
釈来との初対面は、記憶にない。
物心付いたときには、もう知り合いのひとりだった。
そのころには、酉惟にはすで両親はおらず、十五歳ほども年上な人が手を引いていて──酉惟はその人を姉のように慕い、身内を亡くして嘆き悲しむ釈来を遠目から見ていて。
──自分も、親を亡くしたときはこんなに悲しんだのかな。
なんて──そう、そんな風に──釈来を見て、酉惟は様々な感情を知ってきた。
だけど、知っているのだ。
釈来の揺るぎない感情は。痛くて痛くて、嫌になるほど。
──幸せになればいいのに。
別の恋を早く見つけて──と釈来の幸せを思うのに、それを言えば釈来に己の価値観をただぶつけるだけになるとも思い、言葉には発しない。
本心なのに。
誰よりも、幸せになってほしいと願うのは。
そう思う度に、過去を思い出し、忘れていないと刻み──でも、時折わからなくなる。
釈来に対する懺悔は確かにあるのに。
悠畝に付けられたものは、楔だ。いつも酉惟を戒める。
『まさか、隠して都合のいいようにそばにいよう……なんて思ってないよね?』
思っていない、そんなこと。
思ったことなんてない、そんなこと。
ただ、時間が経つにつれて、そうなりそうで──ただただ、恐れているだけだ。
そんな折りに馨民から言われた一言は、青天の霹靂だった。
「酉惟さん、バージンロード……一緒に歩いてくれる?」
「え……」
思わずもれた声を釈来が消すかのように、馨民に続く。
「私からもお願い」
ふいに聞こえた声に酉惟が動けないでいると、釈来はいつの間にか馨民のとなりに来ていた。
「酉惟さんが嫌でなければ」
そう言う釈来は、意地悪だ。
昔から──それこそ馨民が生まれたときから、この職場で酉惟も馨民の面倒をみてきた。馨民が懐いている自覚もある。
だから、無下には断れないというのに──でも、了承できるようなお願いでもないというのに──。
酉惟は返答に迷う。
「嫌ではないですが……すみません。少し考えさせていただけますか」
眉間にシワの寄った表情にも関わらず、馨民と釈来はなぜかとてもはしゃいでいた。
「誰かと思いました」
背後からの声にドキリとした。
目の前の墓前に眠る者の、昔の声によく似ていて。
「君主」
振り向いて納得する。息子なら似ていて当然だと、今更ながら気づいた。
「珍しいですね。父さんも喜んでいると思います」
ちょこんととなりに座って手を合わせる忒畝を見つめる。酉惟にとっては──忒畝と悠畝は似ていない。
忒畝は根っからの研究者で、悠畝は経営者だったと言って相違なかっただろう。
悠畝が研究に没頭したのは、忒畝が生まれる前後くらいからだった。
「それは、どうでしょうか。……俺は、嫌われていましたから」




