桜色の雪④ 桜色の
「どうしたんだよ、その傷」
そんなことを言われたのは、集団で風呂に入ったときだ。
「え?」
「背中」
克主研究所に入って数年経っていた。
「背中?」
心当たりがなくて、怪訝に返した。
すると少し空気が変わって──『触れてはいけなかった』というように、言った本人も、周囲もうやむやにした。
居心地が悪くなり、すぐに風呂場を出る。そして、姿見に背を向けた。
鏡には──右肩から斜めに下がった大きな傷跡。剣で切られたような。
不意に、望緑さんの口癖のような言葉が過る。
『充忠は、私が守るから』
何も考えられなくなるほど、一瞬だけ頭が真っ白になった。
いくつもの望緑さんの言葉が重なっていく。
保護された──望緑さんはそう話してくれた。
あのとき、俺の実の両親のことを言わなかったんじゃない。言えなかったんだ。
俺は、両親に虐待されていたのかもしれない。
それを、施設に発見されたのかもしれない。
この傷跡を見る限り、瀕死の状態で。
思えば、数字も言葉も。歩くことも。
すべて望緑さんが教えてくれた。
断片的にだが──思い出せる。
俺が望緑さんに引き取られたのは、三歳だと望緑さんが言っていた。
ずっと、実の息子だと思っていたからこそ『ただの記憶』だと思っていたものが、『おかしかった』とこのときわかった。
俺は望緑さんに──育て直してもらったんだと。
翌日から周囲はよそよそしくなった。
何となく、理由はわかる。
望緑さんは、苛めからも俺を守りたかったのだろう。――いや、俺を傷付けるすべての存在から。
「大丈夫?」
不意にかけられたこの声は──忒畝だ。
「なぁにが『大丈夫?』だ。お前に心配されるようなことなんて、何もねぇよ」
強がってみたが、周囲には虚勢だとばれていただろう。
無性に望緑さんに会いたくなった。
いや、もう少しの辛抱だと堪えた。
研究員本採用の合否発表まで、二ヶ月。
発表が喜べるものなら、迎えに行こう。
そう思っていた。
そう思っていたのに、実現しなかった。
俺は神様に嫌われるようなことを、したのだろうか。
それとも、これは罰なのか。
俺の夢は目前で消えた。
合否発表まで一ヶ月。
俺は帰る場所さえ失った。
途方にくれ数日経ったある日、悠畝君主に呼ばれた。
正直、終わった――と思った。
学費が発生している状況下で、俺にはそれを払ってくれる人がいなくなっている。
もし、本採用をされていたとしても、収入を得られるようになるまでは、生活もままならない。
絶望していた俺に、悠畝君主は──想像とはまったく違う言葉を言った。
「悠畝君主」
声が詰まった。
信じられなくて、涙が浮かんだ。
悠畝君主のやさしい笑み、やさしい口調は変わらない。
「君に、その覚悟はある?」
捨てる神あれば拾う神あり――なんて、ないと思っていた。
いや──俺は、今までも経験してきたはずだとハッとする。
一人目は、望緑さんだった。
涙が余計にあふれた。
悠畝君主は、前例にない奨学金制度を設けてくれると言った。しかも、これに生活費の補助まで付けてくれると。
俺自身の研究が認められて、収入を得られる状態になるのがいつになるかわからない。
負債額は俺自身を潰してしまうかもしれない。
それでも、その覚悟があるかと、俺は聞かれていた。
「はい」
悠畝君主が、それだけ俺の未来に投資してもいいと思ってくれと思えば、どうあっても俺はきっと頑張れる。
そう思って、俺は頭を下げた。
「お願いします」
必死に学び、気づけば君主代理の職に就いていた。
忙しかった日々が過ぎ、あっという間にこの時期になったと一息つく。
忙しくても、かかせないイベントがこの時期にはある。
多分、俺ひとりのためなら、俺は『どーでもいい』と言うだろう。でもそれは、もうひとりの主役、忒畝も同じ──だろうと笑ってしまった。
それにも関わらず、だ。
「誕生日の祝いに、来ないだぁ?」
馨民の言葉に俺はつい、思ったままを口にしていた。
あんの野郎。
『家族』という括りに一線を引かれ、無性に腹が立った。
ただ、その一線は忒畝らしいと言えば、実に忒畝らしく──『家族』を理解できない俺には、忒畝を説得できる気がしない。
そもそも、忒畝とは気が合うと意気投合したわけじゃない。
言いたい放題言って、喧嘩したのが──俺は忒畝で、忒畝は俺だっただけだ。
あれは、何のときだったのか。
確かまだ十三か、十四か、そんなころだ。
「充忠に僕の気持ちなんて、わかるはずない!」
いつになく、忒畝が感情のままに叫んだ。
「ああ、わかんねぇよ!!」
俺は向かいにいる忒畝に、持っていた本を投げつけた。
「わかんないよ! 僕には普通の人生なんて、初めからない」
「お前にだってなぁ! 俺の気持ちなんてわかんねぇんだよ。俺にはない普通を持っているお前になんて!」
忒畝が俺の何を羨ましがったかなんて、ついこの間まで知らなかった。
俺には、忒畝は幸せな奴に見えていたから。
あのときは散々言った。遠慮もせずに。互いに言いたい放題。
でも気が付けば──いつの間にか笑っていた。
「はは」
「あはは」
何がおかしかったかなんて、覚えてもいない。
たぶん、言いたい放題言えたことが、単純にお互いうれしかったのかもしれない。
「言いたい放題、言っちゃったね」
「ああ、言いたい放題、言ったな」
背中合わせに座って、声を掛けあった。
「すっきりしたよ」
「僕も」
それから忒畝は俺に変な遠慮はしないし、俺もしない。
――でも、あいつは。
『今更』遠慮を俺たちにした。たぶん、それが頭にきたんだ。
「クリスマスには、アイツを意地でも来させるぞ」
アイツをひとりになんて、してやるもんか。
遠慮せず、忒畝の意向を無視して準備を始めたころ。
寒いと感じ、雪でも降りそうだと窓から外を眺める。
ふと扉が開いたのか、温度の違う空気が混じった。――馨民とともに、視界が動く。
「あれ?」
悠穂ちゃんに引っ張っられた忒畝が、間抜けな声を出す。
「『あれ?』じゃねぇよ、バーカ」
俺は笑って、馨民と悠穂ちゃんとハイタッチを交わす。
そんな俺たちを見てか、呆気に取られていた忒畝も、次第に笑っていた。
俺にくらい、強がるな。バカ。
忒畝が飲めない酒を、珍しく楽しそうに口に含んで寝入った。
いい具合に俺も酒が回って、フラリと楽しかった余韻に浸る。窓から外を見て──降る雪が、望緑さんを思い出させた。
雑音のような賑やかな声と今の日常に溶け込んだ色んな細かい音。
窓を開ければ、息が白くなる。
ああ──。
「お家に帰ったら、ケーキ食べようね」
今にも聞こえそうな声は、まだ夢を見ていたような、そんな脆い現実のときで。
散らばった記憶が、鮮明に声を上げ始める──あのころの俺の世界は、彼女だけでできていた、と。
望緑さん、見ていてくれていますか。
貴女のお蔭で、俺はこんな奴らに会えました。
こんなにも楽しくて、幸せで。
呆れるくらいに笑うことしか、できないないような毎日です。
こんな毎日があるのは、貴女がいてくれたからです。
これから先、貴女に怒られるようなことも、するかもしれません。
だけど、誰かを守っていけるような。誰かにとって、貴女のような存在になりたいと俺は願っています。
どうか、これから先も俺の心の中で生き続けてください。
それが、俺のできる唯一の恩返しです。
桜色の雪は、これからも何度も何度も、胸の奥で降りしきるでしょう。




