桜色の雪③ 高嶺の花
あれが最後の別れになるなんて、考えもしなかった。
「充忠、もう……考えは変わらないの?」
「変わらない」
俺は何て、冷たい言葉を彼女に投げたのだろう。
「長いお休みには普通の学生みたいに、帰って来れるのよね?」
声は震えているように聞こえた。泣いているのかもしれない──そう思って、余計に振り返れなかった。
振り返れば、彼女の手を引っ張ってしまいそうで。
そんなことをしても無意味だと、安易に想像ができて。
今更、自分の決断を翻してしまいそうで。
何も手にしてないまま、彼女を失う覚悟さえできていないまま──好きだと、言ってしまいそうだった。
帰ってはこないと言いたかった。
迎えに来ると、言いたかった。
何も言わずに背を向けたまま、俺は家を出ていった。
当時は八歳。
ちいさくまとめた荷物だけを握り締めて、家を出た。
家を出てから、すぐに涙は落ちた。
泣きながら歩き、俺は──彼女に決意を初めて示したときのことを思い出していた。
「これ、見ておいて」
俺が彼女を母と呼ばなくなって、数週間が過ぎたころだ。一通の封筒を彼女の前に出した。
彼女は顔を覆う程の大きさの封筒をおもむろに受け取った。そして、その中の書面を取り出し、視線を落とす。
書面を読み進めるにつれて、彼女の表情は無に変わっていった。
「克主研究所……」
ポツリと呟く。
世界中の研究者が憧れを抱く場所。一般的な基礎学習しかしてこなかった者が、到底入れるような場所ではないと、彼女は悟ったのだろう。
いや、彼女がその場所に含めた想いは──違ったのかもしれない。そう感じるくらい、彼女の言葉には絶望感が漂っていた。
ふと彼女が顔を上げて、俺を瞳に映す。
「無理よ、充忠は今年、七歳になったじゃない。これには『これから七歳になる』人が対象だって書いてあるわ」
彼女の声は、やさしかった。
幼い俺を諭したかったのかもしれない。
だけど、その言葉は確実に俺の心を抉った。
瞳に浮かぶ涙も。
俺は酷い罪悪感を覚えながら、決意が揺るがないようにと必死だったように思う。
「そんなの、どうにでもなるかも知れない。受けてみないと、無理だったなんて思いたくない」
抉られた傷を言葉に変えて、彼女を突き刺した。彼女の痛みは、どれ程だっただろうか。
彼女の顔は、見られなかった。
当時、彼女は高嶺の花だと俺に言いたかったのだろうと思っていた。諦めさせたかったのだろうと。
克主研究所は、世界で唯一の研究所だ。研究者なら、誰もが憧れる。
いや、そうでなくとも、憧れる者は多いだろう。
克主研究所に入れれば、生活が一生困らないと保障されるようなもの。それだけ、制度が整っている。
入りたいと願う者は多く、入っていいと承諾されれば拒む者はいない。本人も、家族も。
だから、俺はここしかないと飛びついた。選択肢が他にないと。
それなのに、彼女は。
「でも……充忠は、合格してしまったら克主研究所に行ってしまうんでしょう? ここにも……研究員になるまでの間も居住が条件だって、書いてあるわ」
途中で、彼女の声が下を向いて発せられていた。
彼女が俺に向けてくれていた愛情は深いものだ。養子の俺を、実子のように深く愛してくれていた。
幼い子どもと離れて暮らすのを、望む親はそうそういない。
あのとき彼女は、俺が単身で克主研究所に行くことを拒んでいた。多分、俺が彼女と離れるのを望んでいるように感じていたから。
自分と離れたいのかと思っているだろう彼女に、俺は、
「そうだよ」
と、不安を肯定した。
研究員になれば、克主研究所に永住居住権が与えられる。そうなれば、家族の居住権も得られる。
だから、どうしても合格して研究員になろうと思っていた。
だけど実際は。
そんな自信なんて微塵もなくて。
言えなかった。到底。
それまで待っていてほしいだなんて。
彼女はこの日、初めて俺の前で号泣した。
恨んだだろう。
憎かっただろう。
俺を彼女から奪った、俺の向かおうとする場所が。
辛かっただろう。
悲しかっただろう。
何度、俺が握るペンを奪いたかっただろう。本を破って、燃やしてしまいたかっただろう。
「買わない」と言って、教材を拒むこともできたのに。
「お金がなくて買えない」と言えば、いつでも俺の道を閉ざせたのに。
彼女はそれをしなかった。
生活が苦しいのは、子ども目から見ても明らかで。
それなのに、彼女は無理をしてでも俺が必要だと言う物を与えてくれた。
必至に勉強する俺を、見守っていてくれた。
八歳の誕生日の前、合格通知が届いた。
彼女はおめでとうと言って、微笑みながら泣いた。俺を抱き締めて。悲しそうに。
最後に彼女と過ごした八回目の誕生日、俺は驚いた。
なくて当然と思っていた大きなケーキは、毎年と変わらずに用意されていて。それだけではなく、見たこともないご馳走も並んでいて。
こんなお金がどこにあったというのか。
そう思った言葉の数々が、俺の表情に表れていたんだと思う。
「あれ? もっと……喜んでくれると思ったのに」
彼女はポツリと言い、困ったように笑った。
このとき──そういえば、もうずっと彼女の笑顔を見ていないと思った。
彼女が俺に養子だと告白した二年前には、当たり前にあった──彼女の幸せそうな笑顔を久しぶりに見た気がした。
彼女から笑顔を失わせたのは、俺だ。
彼女は少しやつれているように見えた。
彼女は仕事をずい分と増やしていた。
勉強に夢中で、朝も夜も時間を問わずに没頭していた俺は、そんなことにも──気付けていなかった。
俺は『俺のせいだ』と言いたいけれど、彼女の言葉で言えば『俺の為』。
彼女は、そう言って幸せそうに笑うに違いない。
悔しいけど、彼女のその想いを俺は拒絶できない。
悔しすぎる。
今更、気付いてしまったことも。
どこまでいっても、彼女は俺の母親だったんだ。
きっと、あの日のご馳走は、俺が恥をかかなくて済むようにだった。
克主研究所に行ってから、物珍しい目で見ないで済むようにだったんだ。
そんな親心も、俺は知らなかった。
どうしてやつれる程に無理をするのか。
それが俺のせいなら、俺を手離せば済むだけだと言ってやりたくて。
もう、そんな無理をしなくて済むとも言ってやりたくて。
どこからすれ違ってしまったのか。
何が悪かったのか。
そんなことすらわからずに。
ただ俺には、前に進み続ける道しかなかった。




