第177話
スマホのアラーム音が鳴り響き、新しい朝の訪れを騒々しく告げる。
その拍子にベッドから転げ落ちた僕はよろよろと立ち上がり、部屋着を脱ぎ散らかしつつ制服のシャツに腕を通していく。
少しだけ開けておいた窓から、どこか湿り気を帯び風が静かに吹き込んでくる――目にも鮮やかな光景と心臓がドギマギするような思い出を刻んだゴールデンウィークも終わりを告げ、本日からスクールライフが再開される。
鏡の中の自分は酷く眠そうな顔をしているが、どうにか着替えを済ます。
日課としていた早朝ランニングは、高校二年生に進級してからもご無沙汰のまま。代わりに部活の朝練があるので、相対的な運動量に変化はないだろうけれど。
階段を下ってリビングへ向かうと、母がすでに朝食を用意してくれていた。もこもこルームウェア姿の妹の兎唯もいて、ダイニングテーブルでスマホを眺めながら雑穀米を口に運んでいる。
僕も自分の椅子に腰をおろし、さっそく「いただきます」と言って箸を持つ。
「おはよう、兎唯。醤油とって」
「ほーい。おはよう、お兄ちゃん。ところで、あの作戦の『進捗』はどうなの?」
「作戦……? 進捗とか、兎唯は難しい言葉をよく知ってるよなあ」
「はぁ……お兄ちゃんって、人間の姿をしたダチョウなの? タチの悪い魔女に呪でもかけられた?」
社会人みたいな単語を使いこなす妹に、僕は素直に感心する……けれど、ついでに放たれた返事が辛辣すぎて一気に目が覚めた。
トークの切れ味がよすぎだし、お兄ちゃんをダチョウ呼ばわりするんじゃありません。あの鳥、めっちゃアホなんだからな。
それで、作戦がなんだって?
「前に、美月お姉さまに選手権で優勝して告白するって相談してきたでしょ。それで飽きられたら困るから、『心理的な駆け引きを繰り返す』のがいいよってアドバイスしたじゃん!」
「ああ、アレね」
告白の成功率を上げるとともに、選手権で優勝できなかったときの予備プランとして機能するとかで、とりあえず取り入れてみたけど……思うほど上手く出来なかったし、なんか最近は僕の方がドキドキさせられる機会が多くて、すっかり頭から抜け落ちていた。
「その忘れっぽさ、ヘディングしすぎの弊害かもね」
「兎唯ちゃん……その発言は、世界2億人以上のサッカープレイヤーを敵に回すぞ。危ないからやめてよね」
実際、サッカーのヘディングは『脳に悪影響を与えるかもしれない』なんて言われている。
もうすっかり慣れちゃったけど、クリアボールとか普通に痛いもんな。未経験者にとっては、もはやただの事故だし。
サッカーの本場イングランドでは、11歳以下は原則としてヘディング禁止になったらしい。日本でも、サッカー協会がガイドラインを定めている。
というか、僕のアホさ加減はたぶんそれ関係ない。
きっと生まれながらのアホ、ナチュラルボーンイディオットなのだ。英語にするとなんかカッコイイ――などと、ますますアホな考えを巡らせようとしたところで、ピタリと動きを止めた。
『無自覚の魅力を褒め尽くす! 最きゅんトーク術で気になるあの人の関心を独り占め!』
テーブルの端に、妹の愛読するティーンズファッション誌が置かれていた――その表紙で躍る魅力的なパワーワードに、僕の目は釘付けである。
気になりすぎんだろ。褒め尽くすくらいなら、きっとアホにだってできるはず。
知りたい……いや、知らなければ。美月の関心を独り占めするためにも、その最キュントーク術とやらを身につけるのだ。
「兎唯ちゃん……いや、兎唯様。この愚兄、トークの作法についておうかがいしたき儀がございます」
「ほむ、申してみよ。天才美少女トークアドバイザーたる兎唯様が答えてしんぜよう」
いつもながら一瞬でスイッチの入る妹は、ノリがよくておバカ可愛いと僕の中で評判だ。
微笑ましい反応に便乗し、朝食を食べ進めながら問いかける。『最キュントーク術』とはどのようなもので、その効果やいかに。
「ああ、いわゆる『ジョハリの窓』ってやつね。その中でも、これは『盲点の窓』を利用したトーク術よ」
自分は知らないけれど、他人は知っている一面――これを盲点の窓というらしい。そしてこの概念は、恋愛や対人コミュニケーションの場面で大いに活用できるのだとか。
具体的にはこう。
まずは、気になる人の無自覚な魅力を見つけて褒める。すると相手は『この人は自分をよく理解してくれている』と感じ、特別な親しみや信頼を抱きやすくなる。
誰もが気づいていない部分を褒めるため、ライバルとは明確に差別化される。そのうえ、ありきたりな褒め言葉に埋もれることもなく、気になる人にクリティカルな威力で好印象を与えられる。
「さらに自己理解を深める過程で、『自分を成長させてくれる』と褒めてくれた相手に強い関心を向けるようになるの。その結果、気になる人と急接近ってわけよ」
す、すげえ……確かに、『自分にも意外な一面がある』と知ったときは、無性に嬉しくなるものだ。まして僕がそれを教えてあげられたならば、美月の好感度アップも間違いナシ。
友人に対しても同様だ。盲点の窓を織り交ぜた小粋なトークを繰り出せば、今よりもっと仲良くなれるに違いない。
しかも、ただ褒めるだけ。
これなら、モブで少しだけ口下手な僕でも失敗しようがない。
「人とのコミュニケーションに迷うアナタを答えに導ける――そう、ティーンズファッション誌ならね」
妹はキメ顔でそう締めくくった。
ティーンズファッション誌、相変わらずハンパねえ……いい加減、僕も読者になるべきか。
とにかく、こうしちゃいられない。
今すぐ学校へ行って、1秒でも早く美月を褒めなければ。
ソファに座ってテレビを見ていた母の「アンタたちはいつも仲良しねぇ」という呆れたような声を聞き流しつつ、僕は大急ぎで朝食を胃に収めて登校準備を整えた。
荷物を抱え、玄関で「いってきます」と家族に告げる。
返事を聞き終わる前に扉を開け、僕は勢いよく家を飛び出す。
雲の多い青空を一度だけ見上げる。続けて自転車にまたがったらペダルをぶん回し、見慣れた通学路を走破した。
昇降口でスクールシューズに履き替えたら、踵を踏んだまま人気の少ない廊下を駆け抜ける。そして、後ろのドアから2年A組の教室に足を踏み入れる――その瞬間、大好きな人の姿が僕の視界に飛び込んできた。
「あら、おはよう兎和くん。そんなに急いでどうしたの?」
「あ、いや……おはよう、美月」
どうやら美月は先に登校していたらしい。窓際から二列目、その最後尾にある自分の席に座って荷物を整えているところだった。
僕はその隣、窓際の最後尾にある自分の席へ向かう。歩きながら視線だけで周囲をうかがえば、クラスメイトの姿はほとんど確認できない。
登校してそうそう盲点の窓チャンス到来。
この状況なら、人目を気にせず褒められる――内容もとっくに決めている。
自分の椅子に腰掛けたらニッコリ笑顔を浮かべ、僕は改めて口を開く。
「美月はさ、サッカーのことになるとすぐ熱くなるよな! しかも超好戦的だし! でも、自分では気づいてないよな!」
「兎和くん……誰が超好戦的なのかしら? 朝っぱらからケンカ売ってる? ぶっ飛ばすわよ」
あれ、思っていた反応と違う……サッカーへの熱量が素晴らしいと伝えたかったのだけど、日本語の使い方を間違ったのかも。
美月の微笑みがとても怖かったので、僕は反対側へ顔を向けてやり過ごす――こうしてスクールライフは、高校二度目の夏へ向けて再び進み出す。
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