第174話
突然、片思いしていた少女の凛とした声が響く。栄成陣営が爆発的に沸き上がった。相手の左サイドで孤立気味に構える兎和くんにボールが入る――試合後半が始まってまもなく、これらの現象がほぼ同じタイミングで巻き起こった。
ピッチでディフェンスブロックに加わっていた俺、鷲尾伸弥は、つい気を取られてスタンドへ一瞬だけ目を向けてしまう。すると転落防止の手すりにしがみつく神園美月さんの輝くような笑顔が、真っ先に視界へ飛び込んできた。
無事に到着したんだな、と心の片隅で密かに安堵していた。
そのせいでスライドするのが遅れ、ボールホルダーへの『寄せ』に半歩ほど影響を及ぼす。だが、常ならばこの程度はリカバリー可能。それだけのトレーニングを積んできている。
そもそも当の兎和くんは、トラップしつつもスタンドへ笑顔を向けていた。試合中にこんなのんきなプレーヤー初めて見た……星越の味方SBもサポートに入ってくれているし、このまま囲い込めば簡単に潰せそうだ。
好都合とばかりに、俺はプレッシャーをかけるべく一気に間合いを詰める。
ところが、その瞬間。
「兎和くん――」
物心つくころから好きだった人が、対峙する相手の名前を再び叫ぶ。
次の瞬間、兎和くんの纏う空気が激変した。先ほどまでの気の抜けた表情は消え失せ、鋭さすら伴う青い眼光を宿す。
ユニフォームの色が瞳に反射しているだけ。そう分かっていてもなお、頬を滑り落ちる汗が酷く冷たく感じられた。
その直後、栄成陣営から身のすくむような怒涛の大声援が轟く。
『ゴォォオオオオオオオオオオ――ッ!』
間髪入れず、青い風が俺の横を吹き抜けていく――風の正体は、ユニフォームを翻してピッチを駆ける兎和くんだった。異次元の加速を軸とするドリブルで、俺とSBの間の僅かなスペースを突破していったのである。
咄嗟に手を伸ばすも、指先すら触れさせない。
一瞬、なにが起きたのか理解が追いつかなかった。
まず兎和くんはゆるくボールを運びながらぐっと重心を落とし、縦方向へ突破する気配を見せた。当然、星越の味方SBはコースをきるべく立ち位置を修正する。
このときわずかに動きが止まったので、チャンスだと思い足を伸ばして突っかけた。だが、これが罠だった。
その刹那、兎和くんはちょんとボールを転がし、俺の両足の下を通過させた。プレーヤーとして屈辱的な『股抜き』をくらったのだ――同時に、急激な重心移動を行いつつ体をセンターレーン側へ傾けたのである。
そして、爆発的なアジリティが顕現。
閃光のように踏み出された1歩目で半身ほど差が付き、2歩目で完全に躱され、3歩目でユニフォームを掴むことすら許されずにブチ抜かれた。おまけに、中途半端に反応していた味方SBと交錯し、揃ってピッチに倒れ込む。
「――クソっ!?」
顔を上げて見つめる先で、鮮やかにピッチを切り裂く青の7番。
ようやくスピードダウンしたときには、星越はもうほとんど詰んでいた。呼応した栄成の前線メンバーが巧みな動き出しでディフェンダーを引き付け、ゴール前にスペースを生んでいたのだ。お世辞抜きに素晴らしい連携だった。
ペナルティボックス目前にたどり着いた兎和くんは、迎え撃つCBに迷いなく仕掛ける。
ボディフェイントを交えつつボールを横にずらし、魔法のようにコースを作り出す。続けて、右足一閃。
間を置かず、ドンッと。
胸を打つ鼓動めいたインパクト音が響き、矢のように鋭いシュートがゴールネットへ突き刺さった。
たちまち大歓声が会場を包み込む。主役として鮮烈な輝きを放った兎和くんがゴールパフォーマンスを披露すれば、栄成陣営はタオルを振り回して狂喜乱舞のお祭り騒ぎ。
スコアボードが、『栄成1-1星越』と表示を変えた。
汗だくのままピッチに立ち尽くし、きゅっと唇を噛みしめる。
ついに相手のエースが目覚めてしまった――俺は試合前の会話で、『神園さんに何かトラブルがあったのかも』なんて無神経なセリフを口にした。
その途端、兎和くんは気の毒なくらい顔色を悪くした。見てわかるほど動揺しており、プレーに差し障りがあることは明白だった。
誓って心配以外の意図はなかったし、惑わすために発言したわけじゃない。それでもフォローや訂正をしなかったのは、悪辣な閃きが頭を過ったから……このままなら彼は全力を発揮出来ないかも、などと考えてしまったのだ。
この試合は、個人的に重要な意味を持つ。関東大会の頂点を目指すチームにとっても、絶対に負けられない一戦である……つまるところ、俺はどうしても勝ちたかったのだ。
そもそも、神園さんがトラブルに巻き込まれていたとして、ピッチに立つ俺たちにできることは何も無い。だったら、今は試合に集中するべきだ。まずはやるべきことをやる、それが正しい――なんて自分を納得させていた。
俺ってヤツは、昔からこうなんだ。執着するクセにどこか薄情で……きっと自分が一番カワイイのだろう。そんな心根が透けて見えるから、神園さんにも嫌われてしまったのだ。
卑怯な手段を使ってまで勝って嬉しいか?
幼き日の真っすぐな自分が、心の中で問いかけてくる。
そりゃあ、正々堂々と戦って勝ちたかったさ。けれど、残念ながら俺は凡人だったんだよ……兎和くんみたいな真の天才に勝つには、手段なんて選んでいられない。でないと、これまで積み上げてきた想いや努力が容易く引き裂かれてしまう。
実際、思惑はピタリとハマった……兎和くんはイージーなパスミスを犯し、失点の起点となった。以降も精彩を欠き、冴えないプレーを連発。味方に鼓舞されるも逆にしょんぼりして意気消沈。
仕掛けられそうな場面でボールを持っても消極的で怖さはなく、次第にパスを受ける回数自体が減っていき、試合から消え気味となった。最悪、ベンチに下げられるのではないかと思うほどの不調ぶり。
結果、栄成の片翼は攻守両面でうまく機能しなくなる。それでも追加点を奪わせなかったのだから、そこは流石と言える。チームの地力が事前のスカウティング以上に高かった。
とはいえ、後半に入っても状況は変わらない。
試合は、そのまま星越ペースで進む――かに思われた。
すべては、神園さんの登場を機にあっさり覆る。兎和くんは日の出のごとく目を覚まし、衝撃的な同点弾を叩き込むに至る。
震えがくるほど強烈な『個の力』だ……そしてエースの復調は、チームに勢いをもたらす。
リスタート後、戦況は一転。栄成は畳み掛けるように攻勢を強め、ボール支配率で圧倒し始めた。
対照的に、星越はガクッとペースを落とす。特にディフェンス時は、覚醒した兎和くんのマークに枚数を割かざるを得ず、局地的な数的不利が次々と生まれる。
彼ほど破壊的なドリブラーを止めるには、『前を向かせない』くらいしか対策がない。そのため、ダブルチーム以上での対応を余儀なくされたのだ。
しかも厄介なことに、相手はその隙を容赦なく突いてくる。
こうなれば、もはや勝負は決したも同然。
星越だって弱くない。全国常連の名門として、確かな実力を備えている……しかし『白石兎和』という怪物サイドアタッカーの手綱を巧みに操る栄成は、こちらを頭一つ凌駕していた。個人的には、全国トップレベルの域へ到達し得るように感じられる。
くそっ、せめてサッカーだけでも勝ちたかった……俺はピッチを奔走しながら、思わず心の中で泣き言をこぼす。
悪辣な敵だって構わない。どんな形であれ、神園さんと兎和くんが紡ぐ物語に登場していたかった。役目を終えたキャラとして、閉じたページに置き去りにされるほど寂しいことはない。
けれど、俺の願いは届かない――後半の折り返しを過ぎたころ、再び栄成陣営で大波のごとくタオルが翻る。同時に怒涛の大声援が轟き、またも兎和くんの異次元の高速ドリブルが炸裂。スコアボードの表示は『栄成2―1星越』に変化する。
結局のところ、俺はサッカーでさえこっぴどく敗北を喫する。どうにか1点を返すべく力を振り絞るも、最後までスコアを動かすことはできなかった。
長く尾を引くタイムアップの笛が、やけに虚しく聞こえた。
頬を滑り落ちる汗やらをユニフォームで拭いながら、端午の空を仰ぎ見る。
ああ、めっちゃくちゃ青い。
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