第166話
開演のアナウンスが流れるまで、そういくらもかからなかった。
定刻が迫ると、周囲も自然と口を閉じる。そんな中、僕はそろっと顔を動かしてホール全体を見回した。
満員……とまではいかないが、空白はまばらでほとんどの席が埋まっている。
気になるのは、来場の方々がすごくお上品に見えるところ。美月の身内はもとより、皆さまピシッと背筋を伸ばして座っていらっしゃる。
ドレスコードの影響もあるだろうが、もう漂う空気からして違う。
いつも僕の周りにある汗臭さなんてひとつもない。ほんのりムスクが香り、ホール内は静かすぎる空調が運ぶ新鮮な空気に満ちている。
なんか、ちょっと場違いな気が……急に、自分が羽織っているジャケットがぶかぶかに思えてきた。
もっとも、この感覚には慣れっこだ。僕ってやつは、わりとピント外れな人生を歩んできている。だから、いちいち大げさに嘆いたりしない。
周囲の観察を打ち切り、ステージへ視線を戻す。ちょうど主催者らしき女性がマイク片手に登壇し、開会の挨拶を始めたのだ。
内容は、そう目新しいものではなかった。冒頭の『本日はようこそお越しいただきました』に続き、この日のためにスクール生がいかに努力してきたか、最後までぜひ温かく見守ってあげてください、といった流れだ。
挨拶の締めくくりに主催者の女性が一礼すれば、観客は拍手で応える。
ここで僕はステージから目を離し、手元のプログラムをチェックする。
演奏者は30名ほどで、各自に与えられた時間は5分前後。小学生以下~中学生までが第一部。高校生~大人、アンサンブルと合奏、閉会の挨拶までが第二部。途中に短い休憩が挟まるものの、トータルでは3時間近い。
サッカーの試合よりも断然長丁場。果たして、僕はラストまで起きていられるだろうか……なんて心配は、最初の演奏者のプログラムアナウンスが流れてすぐに霧散する。
フリフリのピンクのドレスを着た小さな女の子が、とてとてと足を動かしてステージ中央へ現れた。さらに一礼し、観客の拍手に歓迎される。次いで、付き添っていた大人の女性が背後のピアノに座ると、合図と共にヴァイオリンの演奏を始めた。
アナウンスによれば4歳らしいけど……うわ、すごい。小さな手で弓を器用に操り、一生懸命に『キラキラ星』を奏でている。めちゃくちゃ応援したくなる光景だ。実際、僕はつい拳を握り込んで『頑張れ!』と心の中で声援を送っていた。
一方、演奏が終わるとホッとしたようにあどけない笑みを浮かべる女の子。
次の瞬間、渾身の拍手を送っていた。多分、観客席で一番大きな音を立てていたのは僕だ。
そのまま最初の演奏者が舞台袖へとはけると、再びプログラムアナウンスが流れる。入れ替えで登場したのは、蝶ネクタイを締めた小さな男の子だった。
この子もまたピアノの伴奏に合わせ、小さな手で懸命にヴァイオリンを奏でていた。
当然、こちらも熱心に応援した。演奏が終わると、自分の子供でもないのにちょっと泣きそうになった。もしかしたら、父性とやらに目覚めたのかもしれない。
以降も、精一杯頑張る子どもたちへ向け静かに声援を送り続ける。あまりに熱心なものだから、隣に座る妹がちょっと引いていた。
とにかく、失敗しないかハラハラしっぱなしで眠気なんて全然感じなかった。それだから、あっという間にプログラムは中学生の出番へ突入していた。
しかもここで、聞き覚えのある印象的な旋律が響き渡る。
フォーマルな装いに蝶ネクタイを合わせた男子中学生が、ジ○リ映画の主題歌ともなった『カントリーロード』を演奏したのだ。
僕ですら知っている名曲だ。おかげでテンションも跳ね上がり、余計に目が冴えわたる。そのうえ、このあたりから音にぐっと迫力が出てきて、純粋に演奏を楽しめるようになった。
プログラムは、ヴィオラの奏者を挟みつつ進行する。
第一部が終わるまでは事前に想像していたよりもずっと早く、気づけば休憩のアナウンスが流れていた。
僕たちは口々に感想を言い合いながらロビーへ向かい、逆に立ったままひと息つく。
母が水筒を差し出してくれたので、お礼を言って遠慮なく喉を潤す。中身は冷たいお茶だった。
それとなく付近を見渡せば、演奏を終えた子に花束を渡して労う光景が目についた。僕も後で花束を美月に渡す予定なので、つい興味深く観察してしまう。
そういえば、去年の文化祭で白いバラのカーネーションを捧げたっけ……アレってどうなったんだろ。というか、あれからまだ1年も経っていないのにやたら懐かしく感じるな。今年も楽しい思い出を作れるといいな。
「お兄ちゃん、なにボーっとしてるの? そろそろ戻るよ。もうすぐ美月お姉様の出番だね~。ああ、もうすっごく楽しみ!」
時計を見れば、休憩時間も残りわずか。先を行く皆を追い、るんるんと上機嫌な妹と一緒に僕もホールへ戻る。
その後、席についてワクワクしながら待つことしばらく。
第二部が開演し、トップバッターの男子高校生がステージ中央に立つ。ここから、演奏は一層華やかさを増していく。
高校生以上ということもあって、素人目にも技量の高さが伺えた。きっと幼い頃からたくさん練習してきたのだろう……そう考えると、どこか親近感が湧く。
演奏曲も、『熱情大陸』など耳馴染みのあるものが増えてきた。数年前に流行したポップスが奏でられたときは、思わず口ずさみたくなるほど気分が高まった。
そして第二部の中頃に、心待ちにしていた人の名前がアナウンスされる。
『プログラムXX番、神園美月さん。曲目は、ビューティー・アンド・ザ・ビースト』
拍手が響く中、ブルーのドレスを着た美月が楚々とした歩みでステージに登場し、ピアノ前の所定の位置につく――そこで、僕たちの視線は結ばれた。勘違いなんかじゃない。同じタイミングで互いにふっと表情を緩めたのがその証拠だ。
どうやら彼女、あまり緊張していないみたい。僕が逆の立場だったら、登壇するだけでもすっ転んで赤っ恥をかいていたに違いない。
ややあって、伴奏の女性がピアノの椅子に座る。
美月もヴァイオリンを優雅に構え、柔らかな輪郭の顎をそっと預けた。合図に応じてピアノが旋律を奏で始めると、寄り添うように右手の弓を滑らせて第一音を紡ぐ。
その瞬間、ホール中を青い風が吹き抜ける――そんな幻想が僕の視界を満たす。
優しく胸を締め付けるようで、温かな光を帯びた幸福感に溢れていて、まるで美月の気持ちがそのまま音になっているみたいだった。ただただ聴き入るうちに自然と息が詰まり、心が静かに激しく震えた。
技術的に優れた人はきっと他にたくさんいる……けれど、僕の好きな人が一番素敵だな。
いろいろな感情が一気に込み上げてきて、思わず涙が滲みそうになり――いや、演奏が終わる頃には普通に泣いていた。
また妹に引かれるかと不安になったが、杞憂だった。
こっそり顔を横へ向ければ、同じように涙を流していた。
それにしても、『夢の国映画』の主題曲を選ぶとはなんとも美月らしい。大好きだって言っていたもんな。あと誕生日プレゼントのパークチケットの有効期限が1年だそうだから、今年のうちに一緒に行けたらいいな……この曲のアトラクションもあったはず。
ともあれ、舞台を去る美月へ手が痛くなるほどの拍手を送る。
それから僕は、この感動をどう言葉にすればいいか考えながら、続く演奏に耳を傾けた。
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