第165話
「バイオリンの発表会……」
「ヴァイオリン、ね。あとヴィオラもあるわよ」
発音が違ったらしく、美月に指摘される。ならば、以後はヴァイオリンとしっかり発音するとして……え、僕が発表会にお呼ばれ?
部活が終わってから、本日も恒例のトラウマ克服トレーニングに励んだ。とはいっても、駒場瑞邦との試合明けなので軽く汗をかいた程度だが。
場所はお馴染み、三鷹総合スポーツセンターである――そして現在、僕はナイター照明の灯る芝生グラウンドで、手元の『招待状』をまじまじ見つめていた。
帰宅の雰囲気が漂う中、美月が「そういえば」と思い出した風に差し出してきたものだ。
催し物の欄には、『第17回・楠原ストリングスクール、ヴァイオリン・ヴィオラ発表会』の文字が。会場は、世田谷区の成城アートホール。
「私がお世話になっている先生の主催で、スクール生限定のアットホームな発表会よ。そんなに堅苦しくないから安心して」
「安心……僕、クラシックとかほとんど聞いたことないけど大丈夫?」
「兎和くんも『熱情大陸』なんかは知っているでしょ? メジャーな曲を演奏する人もいるから、きっと楽しめると思うの」
おお、それは知っているぞ。人間密着ドキュメンタリー番組のテーマ曲として有名だ。タイトルを聞くだけでも、あの有名なフレーズが頭の中でリフレインする。
目を閉じれば、見えてくる……印象的なもじゃもじゃヘアを振り乱すヴァイオリニストの姿が。
それはさておき、かなり唐突だな。
未開催の青春スペシャルイベントの前に、予想外すぎるお誘いだ。
「関東大会の予選に平行してリーグ戦もあって、最近はサッカー漬けの生活でしょ? だから、気晴らしも必要かなって。青春スペシャルイベントは、また別で企画するから心配しないで」
美月の言う通り、今月も毎週末に公式戦が入っていた。試合に負けない限り、来月も再来月も似たようなスケジュールが確定している。元々忙しくはあったが、トップチームでプレーするようになってからはますます多忙になった。
目標へ向けてひた走っている現状、かなり充実した日々を過ごせてはいる……が、たまには気分転換したいと思うのが人間ってものだ。
おまけに、最近は寿輝くんの件もあって気を揉むことが多かった。だから、自分では気づかぬうちにストレスを蓄積していてもおかしくはない。そもそも、試合に出る事自体で多少なりとも負担が生じるわけで。
そう考えると、確かにヴァイオリンの発表会はいい気分転換になりそうだ。クラシック音楽はストレス軽減に効果がある、と科学的にも証明されているそうだし。
何より、美月がヴァイオリンを演奏する姿を見てみたい。理屈はどうあれ、これに尽きる。
もちろん、スケジュールも問題ない。
招待状に記載されている開催日は、今月末の日曜の午後――その前日には『関東高校サッカー大会・東京予選』の準々決勝が行われる予定なので、発表会当日の部活は勝敗にかかわらずリカバリーメニューで午前のみ。それを踏まえて美月も誘ってくれているのだろう。
そんなわけで、僕はサムズアップとキメ顔を添えて返事した。
「招待ありがとう、美月。いつものお返しに、めっちゃ気合い入れて応援にいくよ!」
「応援はありがたいけど、演奏中はお静かにね?」
人生で初めての体験ということもあり、めちゃくちゃ楽しみになってきた。
当日は、今もそばのレジャーシートでスマホに目を向ける涼香さんも来場するそうだ。あと、付き添いの旭陽くんと美月のお母さんも一緒らしい。
せっかくのお誘いを心置きなくエンジョイするためにも、前日の試合には是が非でも勝たなければ。おかげで、闘志も一層激しく燃え上がっている――こうして僕は、人生で初めてヴァイオリンの発表会にお呼ばれしたのであった。
***
ゴールデンウィークを目前に控えた、4月末の土曜日の昼下がり。
僕たち栄成サッカー部は、関東高校サッカー大会・東京予選の準々決勝へ臨んだ。
対戦相手は、目黒区に所在する私立の強豪校――結果は、『4-1』で栄成の勝利。
数年前まで同格と見られていた相手に対し、こちらはペースを握り続けて優勢に試合を進めた。ただし、カウンターからの失点シーンは今後の課題としてメンバー間に共有されている。
個人スタッツは『1ゴール』のみで、大爆発した前回の試合と比較すればかなり寂しい結果となった。出場時間も、前半のみに限られている。
美月の都合がつかず、応援に不参加となった。それでパフォーマンスがガクッと落ちたわけだが……彼女のサポートなしに、どうにか連携から結果を残せた点は、素直に自分の成長を褒めてあげたい。
しかも嬉しいことに、玲音と拓海くんがついにトップチームでスタメン出場を飾った。勝てば次戦(準決勝)まで中二日というハードな日程を考慮し、メンバーに若干の変更が加えられたのだ。
僕がトラウマに侵食されながらもそれなりにプレーできたのは、仲良しの彼らが懸命にフォローしてくれた影響が大きい。
そして、一夜明け――楽しみにしていた、美月のヴァイオリン発表会の当日がやって来た。
予定通り、部活はリカバリーメニューのみで午前のうちに終了する。それから僕は大急ぎで帰宅して少し早めの昼食などを済ませ、テキパキと身支度を整えた。
「ねえねえ、兎唯ちゃん。どう? この服、似合ってる?」
「んー? んー……そのへんにいる量産型男子、ちょっと背伸びしたバージョンって感じ。まあまあ悪くないよ」
いや、それどっち……僕は本日、かなり大人っぽい私服コーデを選択した。上に羽織っているジャケットは旭陽くんのお下がりだ。先日、発表会に着ていく服がないと美月に相談したら頂けたのだ。
それで意気揚々とリビングへ降りて、ソファでスマホをいじっている妹にファッションチェックをお願いしてみれば、なんとも微妙な答えが返ってきた。自室の姿見で確認したときは、かなり決まっていると思ったんだけどなあ。
ちなみに、妹もフォーマルな大人っぽいワンピースを着用している。こちらも、美月のお下がりだそうだ。ついでに、母もしっかりおめかしをしている。共に発表会へ向かうため、揃って着飾っているのだ。
実はあの招待状、うちの家族も受け取っていたらしい……唯一、父だけはお留守番だ。といっても、付き合いで最近始めたゴルフにハマったとかで、朝から打ちっぱなしに行っているけど。
ともあれ、もう間もなくしたら母の運転する車で会場へ向かうことになっている。
「ところで、お兄ちゃん。忘れ物はない?」
「もちろん。見てくれよ、これ」
妹の問いかけに、僕は唇の片端を持ち上げて自信満々に応える。次いで、ポケットからサイリウムを取り出してみせた。スティックタイプで、ポキっとしたら光るやつだ。白と青をはじめ、全部で6本もある。
最近はクラシック系のコンサートにも導入されているとSNSで見て、慌ててネットで購入した。これを両手の指の間に挟んで、美月をめっちゃ応援するつもりだ。
ところが、兎唯ちゃんはこの準備万端な兄にジト目を向けてくる……あ、もしかしてサイリウムを買い忘れちゃったのかな?
「お兄ちゃん、それ貸して」
「何色がいい?」
「いったん全部貸して」
あいよ、と僕はすべてのサイリウムを手渡す――直後、妹はポキポキポキっとすべてへし折り、ブンブンふって光らせてしまった。
「ああっ!? どうして……これ、使い捨てなのに。光らせるにしても早すぎるだろ」
「どうして、はこっちのセリフだよ……どうして、お兄ちゃんはそんなにアホなのかな。サイリウムなんて会場で出したらブッ飛ばされるからね。嘘は嘘であると見抜けない人は、SNSを使っちゃダメなんだよ。学校で習ったでしょ」
「えぇ、ダメだったの?」
当然でしょ、と妹はサイリウムを放り捨てる。
聞けば、夢の国などが主催するエンタメ系のクラシックコンサートではサイリウムやペンライトの使用を許可されているが、一般の発表会ではまずありえないそうだ。
危ねえ……会場でブッ飛ばされるところだった。
なお、妹のいう忘れ物とは、美月へ手渡す花束に添えるメッセージのことを指していたらしい。しかもこちらは、自室の机に置き忘れてきたのをたった今思い出した。
うちの妹が、ちゃっかり者兼しっかり者で助かった。
ダッシュで自室へ戻り、改めて忘れ物がないかをチェックする。
その後、母の「そろそろ行くわよ」という合図で揃って家を出る。僕は玄関に用意してあった花束を抱え、車のリアシートに腰掛けた――会場の成城アートホールまでは、30分ほどで到着する。
近くの有料パーキングに車を止めたら、施設案内に従ってロビーへ向かう。
そのまま列に並んで受付を済ませ、プログラムを受け取ると同時に花束を預けた。発表会が終わってから渡すのだとか。
それから、僕はスマホを取り出して画面をタップした。
『ついた。いまロビー』
『そっちに行くから、動かないでね』
メッセージの送信相手は美月だ。到着したらすぐに連絡を入れるよう言われていたのである。母も同様にスマホをタップしていた。
受付から少し離れた場所で、しばし待機する……と、ロビーの人混みを裂くように華やかな一行がこちらへ向かってくる。
先頭を歩くのは、スタイル抜群で超絶イケメンの旭陽くんだ。やはりフォーマルな服装なのだが、似合いすぎてなんかキラキラして見える。
お隣を歩く涼香さんもパンツスーツスタイルで、まさしくクールビューティーの権化だ……信じられるか? この人、普段はニートやってて芋ジャージとか着てるんだぜ。もはや詐欺だろ。
最近は見慣れてしまっていたが、絵になりすぎる2人である。ビジュアルレベルがハンパない。うちの母なんて、「本当に涼香ちゃん?」と自分の目を疑っていたほどだ。
その後ろには、結月さん(美月の母)の姿がある。相変わらず、並外れた美貌と気品を湛えた奥様である。フォーマルスタイルだと、もう外国の王女様と紹介されても違和感ゼロだ。
「こんにちは、優卯奈さん。今日はうちの娘のためにお時間をちょうだいしてごめんなさいね。兎唯ちゃんと兎和くんもお久しぶりね」
「いえいえ、気にしないでくださいな。うちの子たちこそ、美月ちゃんにはお世話になりっぱなしですから。それに、とても楽しみにしていたんですよ」
旭陽くんを先頭にした一行がこちらに到着したところで、さっそく結月さんとうちの母が代表として挨拶を交わす。すんなりと雑談に入る様子から、二人の仲良し具合を感じ取れる。
そこで、ぴょんっと。
涼香さんの背後から、僕がずっと探していた人物が小さく跳ねて登場する。いるのはわかっていたが、ようやくちゃんと確認できた。
「こんにちは、兎和くん。今日はようこそお越しくださいました」
驚かすように姿を現したのは、もちろん美月だった。
彼女は軽やかにカーテシーをしながら、茶目っ気たっぷりに挨拶してくれる。
同時に、僕は呼吸すら忘れて見惚れてしまう――その美しい瞳と似た色合いのブルーのイブニングドレスに身を包み、長く艶やかな黒髪をひとつに束ねている。毛先がゆるやかに巻かれており、なんとも大人っぽい雰囲気だ。
いつもの超絶美少女っぷりに、さらに磨きがかかっている……と僕が言葉を失っていたら、隣にいた妹の肘が脇腹にクリーンヒットする。続けて、「ほら、はやく返事して褒めて」と耳打ちされた。
痛かったけど、おかげで遠のいていた意識が戻ってきた。
それで、僕は……こういうときは、とりあえず服を褒めればいいんだっけ?
「あ、あの……美月、ブルーだね」
「ふふ、そうね。どう? このドレスは似合っているかしら」
「あ、うん。めちゃくちゃ似合ってる……すごいな、本当にピッタリだ」
「ありがとう。兎和くんも、今日は大人っぽくて一段と素敵ね」
ありがとう、と僕は思わずはにかんでしまった。
社交辞令だとわかっていても心が浮つく。
次の瞬間、ふと気づく。先程まで盛り上がっていた両親同士の雑談がピタリとやんでいることに――途端に、自分に突き刺さる複数の視線の気配を感じた。
「あらあら、美月と兎和くんはもうすっかり仲良しさんなのねぇ。涼香さんから聞いていた通りだわ」
「本当にそうね。美月ちゃん、うちの子は頼りないけどこれからもお願いね」
案の定、結月さんとうちの母からちょっかいが飛んでくる。涼香さんと旭陽くんも、微笑ましいものでも見るような目を向けてくる
ちょっと、そういう面倒くさい絡みはマジやめて。こっちは、いろいろとセンシティブなお年頃なのだ……美月が空気を読んで「はい」と応じるのを聞きながら、恥ずかし紛れに妹を前へ押し出した。
「お兄ちゃん、もういいの?」
「うん。兎唯も挨拶したかっただろ」
そもそも僕の気持ちを知っているからこそ、一番に挨拶したかったところを我慢して譲ってくれたんだろ?
本当に良くできた妹だ。帰りにコンビニでも寄って、お高いアイスを買ってやろう。
「じゃあ、遠慮なく――あーんっ、美月お姉さま! 世が世なら絶対最強プリンセス!」
「きゃっ!? もう、兎唯ちゃんったら。急に飛び込んできたら危ないじゃない」
妹は奇声とも思えるセリフを発すると共に、敬愛するお姉さまへ元気よく飛びついた。さらに、やんわりとした注意もなんのその。着用するお下がりのワンピースやブルーのドレスについてあれこれ話題を繰り出し、縋り付くようにして甘え始める。
それこそ、僕たちは微笑ましいものを見るような目を向けるのだった。
以降は、旭陽くんと涼香さんも交えて雑談を楽しむ――しばらくして、開演時間が近づいてくる。ここで、ようやくうちの妹は縋り付くのをやめた。
「じゃあ、私はそろそろ控室に戻るわね。頑張って演奏するから、ちゃんと見ていてね。特に兎和くん、寝ちゃダメよ」
「うん。ちゃんと静かにして、めちゃくちゃ応援しているから」
僕の返事に満足したのか、美月は笑顔で手を振ってひとり先に立ち去った。
続いて、こちらも会場のホールへ移動する――室内はグランドピアノが設置されたステージに向け、シアター形式に座席が並んでいる。その前方の一角に僕たちは揃って腰掛け、再び雑談に花を咲かせつつ開演の時を待った。
おもしろい、続きが気になる、と少しでも思っていただけた方は『★評価・ブックマーク・レビュー・感想』などを是非お願いします。作者が泣いて喜びます。