第150話
「兎和、ちょっと付き合ってくれ」
「あ、はい」
念願の背番号を受け継いだ、その日の部活後。
ジャージに着替えて部室を後にしようとしたところで、永瀬コーチに呼び止められた。それから連れ立って向かった先は、監督棟の応接室。
促されて、僕はソファの片側に腰を下ろした。やや遅れて、永瀬コーチも対座につく。続けてミネラルウォーターの入った紙コップを差し出しつつ、おもむろに「あの件だが……」と口を開いた。
「あの件……? なんでしたっけ?」
「ほら、前にここで話しただろ。豊原監督の勇退の件だ」
ああ、日々のドタバタですっかり忘れていた……確かに以前、豊原監督は『本年度いっぱいで退任する予定』だと聞いていた。なんでも、古巣であるJFL(日本サッカー・アマチュアトップリーグ)のチームから指導者としてオファーがきているのだとか。
「あれから順調に話が進み、今は細かい条件を詰めている段階らしい。だから、退任はほぼ確実だ」
そうなのか……とても寂しいけれど、どうやら本決まりみたい。すると今後、栄成サッカー部の指揮権は後任である永瀬コーチへ移譲されるのだろう。最近はほぼトップチームの指導を担当しているから、体制の移行は比較的スムーズに進みそうだ。
「そこで、本題なんだけど」
「あ、豊原監督の件が本題じゃないんですね」
「まあ、関連しているからまるっきり別の話とも言い切れない。とにかく、よく聞いてくれ」
応接室にたちまち緊張した気配が漂い、僕はゴクリとつばを飲み込む。
そしてたっぷり呼吸5つ分の間を置いて、ようやく永瀬コーチは本題を切り出した。
「俺は前に、自分が監督になった初年度の選手権で頂点を狙う、そう伝えたよな? つまり、兎和たちが最上級生になる年だ。けれど、訂正する――今年の選手権で優勝を取りにいくぞ」
「あ、はい」
「なんだ、ずいぶん返事が軽いな?」
だって、僕は最初からそのつもりだったし……それで、美月に思いを告げると勝手に決めていた。選手権の優勝トロフィーを捧げ、『好きにならない』という約束を破ったことを許してもらうつもりなのだ。あと、成否はどうあれケジメとして。
「なんか腑に落ちんな。いつも弱気の兎和が堂々としているなんて」
「……僕も少しくらい成長しますって。それはさておき、もし優勝できたら豊原監督への最高の餞別になりますね」
「その通り、選手権の優勝監督なら箔が付く。俺は正直、今年は戦力的に厳しいと思っていた。けどな、お前たちの成長スピードは予想を大きく超えていた」
僕だけじゃない。玲音、拓海くん、大桑くん、小川くん、池谷くん、他の親しい同級生メンバーたち。その多くが、予想以上の速度で成長を遂げているそうだ。
よくよく考えると、カームのプログラム受講者ばかりだ。しかしその根底には、やはりトップを走る選手の影響があるのだろう、と永瀬コーチは嬉しそうに語る。
「それに釣られて、新3年生たちも士気をグッと上げている。これは、マラソンと似た理屈だな。トップランナーが速ければ、後ろの選手も自然とペースを上げる――お前が全力でトップを走ってくれるからこそ、部全体の成長スピードがどんどん加速しているんだと思う」
ありがとな、と笑う永瀬コーチ。
不意に瞳が熱くなり、何も言えなくなってしまった。こんな僕をいつも高く評価してくれて……変わらず信じてくれて、ただただ感謝しかない。いつか必ず恩返しすると、改めて心に誓う。
「それにな、松村がいい働きをしてくれてるんだ。問題を起こした酒井や、境遇に不満を持つメンバーをうまくまとめて、不和の芽を摘んでチームに落ち着きをもたらしてくれている。目立つわけじゃないが、本当に頼もしいよ」
あの松村くんが……けっこう前に和解してからというもの、多少は親しくなれたと思う。けれど、陰ながらチームを支えてくれていたなんて知りもしなかった。
僕や玲音たちがガムシャラに前を走り、松村くんが後方で遅れ気味のメンバーの背中を押す――なんとなくだが、そんな光景が頭に浮かんだ。
「もちろん、関東大会、夏のインターハイ、T1リーグ、可能な限りのトロフィーを獲りにいく。シーズンラストには、青森田山にリベンジを果たして選手権の優勝旗をいただくぞ!」
すべてのコンペティションで一切の手を抜かず、全力を尽くして勝ちにいくつもりらしい。
当然ながら僕に異論はない。豊原監督にとっても、実績は多いほうがいいに決まっている。きっと新天地で役に立つはず。
何より燃えるのは、選手権でのリベンジ……青森田山は、前回の選手権で見事に優勝を飾っていた。栄成との一戦をキッカケに調子を大きく上げ、安定した強さを見せて大会を制したのである。
より一層名声を高めた絶対王者に、借りを返す。
とてもドラマチックで、まさにシーズンを締めくくるに相応しい目標じゃないか。
「楽しみだな、兎和。これからのお前の活躍で、『#7』はただのエースナンバー以上に進化する――栄成の勝利の象徴として、高校サッカーの歴史に刻まれるんだ」
ぞくり、と。
腹の底から沸き上がってきた冷たい熱が背筋を駆け抜け、肌が泡立つ。
偉大な野望を実現する自信なんて、ハッキリ言ってゼロに近い。それでも、永瀬コーチの期待に答えたいと思った。なにより、僕を信じてくれる美月を心から信じている。
だから、瞳に力を込めて答える。
「相馬先輩を凌ぐ、誰もが認める大エースになってみせます」
***
先日、T1リーグが開幕した。
栄成の初戦の相手は私立の強豪校。結果は『3-1』で、幸先よく白星発進を飾った。
僕も7番を背負ってスタメン出場を果たし、2得点をあげて最高のスタートを切ることができた。もちろん美月のサポートあっての話だが。
そして、慌ただしく春休みは過ぎ去り――始業式が行われる本日、ついに新学期が到来した。
入学式もすでに終えており、僕たちの代は正式に高校2年生となっている。
こうして迎えた、新生活初日の朝。
僕はいつもよりだいぶ早い時間にベッドを抜け出した。クラス替えのことが気になりすぎて、目が覚めてしまったのだ。
当然、じっとなんかしていられない。
制服に着替えた僕は、ささっと朝食を平らげて家を飛び出し、自転車のペダルをぶん回して学校へ向かった。
到着したのもだいぶ早め。登校時間のピークにはまだ遠く、生徒の影もまばらだった。
そのまま靴を履き替え、昇降口と隣接する校内のロビーへ向かう。すると事前説明通りに長机が設置されており、担当の女性教員がクラス発表の用紙を配布していた。
「はい、おはよう。クラスの確認は、他の生徒の邪魔にならないようあっちでお願いね」
「あ、おはようございます……」
空いていたので、用紙をすんなり受け取れた。
邪魔にならないようその場から離れ、手を小刻みに震わせながら自分のクラスを確認する……ドキドキしすぎて、心臓が口から飛び出しちゃいそう。
とにかく、まずはA組から。真っ先に見つけたのは『神園美月』の名前。漢字の並びからして、もう美しい。
否応なしに高まる期待感に押され、表の次の行へ視線をすべらせる……その直後、白石兎和の文字が目に飛び込んでくる。
え、マジ!? あった……うわぁぁああああッ、見間違いじゃない! 白石兎和、2年A組!
しかも、慎や三浦(千紗)さんの名前もある!
あ、文化祭で劇の監督兼脚本を担当した沼田さんも一緒だ! 体育祭でともに騎馬戦を戦い抜いた柔道部のマッチョペア、山本健太郎くんと岩田大輔くんもいる! さりげなく木幡咲希さんも!
残念ながら玲音や拓海くん、それに加賀さんや翔史くんは別クラスになってしまったが、理想に近い結果だ。
「うおぉぉおおおおおおおおおおおおおおおお――ッ!」
僕は堪らず雄叫びを上げて駆け出した。廊下ですれ違う生徒をぎょっとさせながら、新たな自分の教室へ向かう。
数段飛ばしで階段を登り、角を曲がる――ほどなくして『2年A組』と記されたプレートの元へたどり着く。そして勢いよく扉を開けた瞬間、いきなり意中の人の後ろ姿を視界の真ん中に捉えた。
彼女もずいぶん早く登校したらしく、教室の後方のスペースで友だちと雑談中だった。
自然と笑みを浮かべ、迷いなく声をかける。
「美月、おはよう!」
振り返った美月とすぐに目が合い、聞き馴染みのある柔らかな声音で挨拶が返ってくる。
「おはよう、兎和くん。同じクラスになれて良かったわね! でも、廊下で雄叫びを上げてはダメよ。ここまで聞こえてきたんだから」
僕のスクールライフは、春の陽光が満ちる教室で新たな1ページを紡ぎ始めた。
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