第148話
「今日も『トラウマ克服トレーニング』を頑張りましょう。でも、その前に栄養補給ね。はい、こっちに座って」
「あ、うん。ありがとう」
僕はうさぎ柄のレジャーシートに腰を下ろし、美月から手渡された軽食をパクパクやる。背後では涼香さんがいつも通りソシャゲに熱中している。
もはや日課となったこの部活後の自主トレは、アジリティの向上を主眼に置いたメニューを基盤に、トラウマ克服のための『特別なアクション』が組み込まれている。ただし、僕のトラウマについては詳しく知っているのは美月だけ。家族にも内緒だ。
自主トレ部分のメニュー自体は、うちの父と美月、加えてサッカー選手専門のアスリート支援企業、『株式会社カーム(KALM)』に所属する専属トレーナーさん――この三者の協議によって決定されている。
とはいえ、父は要望を出すだけで最近はほぼ任せきり。美月も、勉強という名の趣味の一環で関わっているに過ぎない。カームは彼女の家の傘下企業なので融通が利くし、僕の希望もあって参加を認められている。したがって、実務は専属トレーナーさんが担っている。
もちろん、オーバーワークには最大限配慮されている。僕のようなタイプのプレーヤーは怪我が大敵で、『クセになれば武器そのものを失いかねない』と何度も言い聞かされている。
そして今みたいに、美月が用意してくれた軽食で栄養補給を済ませるのが習慣になっていた。
やがて僕が実際にトレーニングで汗をかき始めると、タイミングを見計らって合図が出る。これが、もはやお馴染みとなった特別なアクションだ。
「――はい、ゴー!」
美月の声が響いた瞬間、僕は近くのボールを拾ってドリブル開始。次いで、意図を持って設置されたパイロンを切り替えしながら通過し、シュートをミニゴールに突き刺してフィニッシュ。
目標タイムも設定されており、成功すれば『青春スタンプカード』にうさぎスタンプを押してもらえる。これは体と意識に条件反射を染み込ませ、トラウマの上塗りを狙っている。
肝心のスタンプカードの方は、現在は4冊目の半ばを過ぎたところだ。はやく全部埋めて、青春イベントを堪能したいぜ。
「ずいぶんと調子良さそうだね。トラウマの悪い影響もだいぶ薄まってきたんじゃない?」
ひと通りのトレーニングを終え、僕はクールダウンがてら美月と雑談していた。するとレジャーシートに座り、ソシャゲに熱中していた涼香さんがふと声をかけてくる。
最近の彼女は、もっぱら芋ジャージを着用している。せっかくのクールビューティーが台無しだ。本人は生粋のニート気質なので、まったく気にしていないのだろうが。
それはそうと、話題のトラウマの影響だけど……確かに選手権以降、僕は調子がいい。
部活でプレーしていても、ちゃんと集中できている時は『70~80パーセント』くらいの実力を発揮できている。あくまで体感だが、一皮むけた気がしている。
ただ、ムリをしすぎると体調を崩すようになった。トラウマを完全に払拭できていない現状、ブレーキをかけながらアクセルを踏むのと同じ道理で、メンタルがオーバーヒートを起こすらしい。
それでも美月のサポートさえあれば、全身をがんじがらめにする不可視の鎖から解き放たれ、『100を超えて120パーセント』のプレーを披露できる。
「ほ~ん、120パーセントかぁ。なんかゲームの『スタータイム』みたいだね」
涼香さんは、配管工のヒゲ兄弟のゲームに見立てているらしい。
絶妙にしっくりくる表現だ。一定時間だけ無敵、まさにその通り。自分の集中力と美月のサポートのタイミングが合わされば、僕は無敵のサイドアタッカーに変身できる。
「それに、頼もしい後輩が入ってきたっていうじゃない。満晴が頑張ってスカウトしてきたんだってね。これは、ますます今年の選手権が楽しみだ」
「注目の新入部員については、私も散々聞かされたわ。うちにご飯をたかりにきた永瀬コーチが、自分の手柄だって自慢していたのよ」
続けて口を開いた涼香さんと美月は、永瀬(満晴)コーチの親族にあたる。その関係で、よく一緒に食事をする機会があるようだ。
加えて、頼もしい後輩、注目の新入部員、とは『久保寿輝くん』のことだろう。獲得を狙う他の高校との間で、熾烈なスカウト合戦が繰り広げられたに違いない。ならば、自慢したくなる気持ちもわかる。
「そうだ、美月。もしよかったら、久保寿輝くんにカームの『フィジカルフィットネスプログラム』を勧めてもいい?」
「問題ないわ。カームも今年から栄成サッカー部と正式にスポンサー契約を結んだから、優先枠がいくつかあるはずよ」
僕はタイミングを見て、寿輝くんに『フィジカルフィットネスプログラム』を勧めてみるつもりだ。
というのも、永瀬コーチがびっくりしていたのだ。玲音や里中くんを中心に部の同級生のおよそ半数が加入済みなのだが、フィジカル強化や視野の発達が相まって実力の伸びがスゴイらしい。
枠が空けば即埋まるほど、カームのプログラムは大好評。だったら当然、早いうちから始めたほうがいい。寿輝くんが真剣に選手権の優勝、ひいてはプロを目指すのであれば、加入しておいて絶対に損はない。
それと今さっきの美月の返事にもあったように、カームは正式に栄成サッカー部のスポンサー企業となった。おかげで、費用も少し下がっている。
ちなみに、栄成のスポンサーとしては『KREアスレティカ』に続いて2社目。どちらも美月のお祖父さんが展開する企業ではあるけれど。
「あ、そうだ。春休みの間に、兎和くんも書類にサインしてね。ご両親の許可は得ているから」
書類にサイン、と聞くとちょっと怖いイメージが先行する……けれど、実際は『個人スポンサー』に関するもので、むしろ歓迎すべき内容である。
そう、僕はついに正式な個人スポンサー契約を結ぶ。お相手は、先ほど名前を思い浮かべたKREアスレティカとカームの2社。
繰り返しになるが、どちらも美月のお祖父さんが展開する企業である。そして、この前の選手権の結果が契約の決め手となったそうだ。
それに伴い、僕の写真がネットに掲載されることになり、撮影の予定が組まれている。カームの施設を利用するらしいが、想像するだけでドキドキする……その前に、ヘアサロンにも行っておきたい。もちろん南青山の片瀬さん指名だ。
「ていうか、おふたりさん。もうじき新学期だけど、心の準備はできてる?」
言って、いたずらっぽく目尻を下げる涼香さん。
僕は選手権の開会式で無様にすっ転び、大恥をかいた。しかし青森田山戦でのゴールシーンが対照的な話題を呼び、『ギャップがすごい選手』としてSNSでバズり、テレビにまで取り上げられるハメになった。
一方、美月はずば抜けて優れた容姿を持つため、後輩が入ってくるたびに騒動が寄ってくる。中学時代は本当にいろいろ大変だったそうだ。
つまり、『注目度の高い二人は、いつもの倍の騒ぎを覚悟する必要がある』と涼香さんは指摘したいらしい。
「そうね……せっかくだし、ちょっとリハーサルしておきましょうか」
「リハーサル?」
「コホン――きゃ~っ、兎和先輩!」
美月は軽く咳払いをして、急に変なキャラを演じ始めた……もしかして、ストレスでおかしくなっちゃった?
だとしたら、きっと僕のせいだ。日頃から面倒ばっかりかけているから。
「美月、なんかごめん……」
「なんで謝るのよ!? 反応が違うでしょ、女子の後輩が押し寄せてきたときのリハーサルよ! もう1回やり直しね」
再び「きゃー、兎和先輩!」と、キャピっとした声をあげる美月。今度は両手まで組んで、演技にも一層熱が入っている様子。
付き合わないと一生終わらないようなので、とりあえず僕は適当に合わせてみる。
「あ、どうも……」
「あの、兎和先輩! 選手権のプレーみて、わたし憧れちゃいました! 先輩って、彼女さんとかいるんですか?」
「い、いないです……っ」
いきなりブッコンでくる後輩女子だ。しかも見た目がまんま美月なので、恋愛系の話題は避けてもらいたい……うっかりボロを出して、僕の心境を悟られでもしたら大問題である。
だが、もっと厄介な質問が矢継ぎ早に飛んでくる。
「じゃあ、好きな人とかいます?」
「…………ノーコメントで」
思わず吹き出しそうになったが、どうにか堪えて対応できた……この謎の遊び、早く終わらないかな。とりあえず、定番の素数でも数えてやり過ごそう。
「内緒なんだぁ。でも、いないんだったら立候補しちゃおうかな。私じゃダメですか?」
「ちょっと待ったー! 兎和先輩、私も立候補しちゃいます!」
なんか後輩女子が増えた……勢いよく立ち上がった涼香さんが、両手を組んでキャピキャピし始めた。
ノリノリじゃねーか。つーか、二人揃って少女マンガみたいなポーズやめて……いかん、アホすぎる展開のせいで思考がブレる。とにかく、早いところ終わらせよう。
「ご、ごめん。僕はサッカーに集中したいから、そういう質問はやめてください……」
「え~、残念。だったら、せめて写真をとってもいいですか? SNSにあげる用のやつ。今度試合の応援にいくんで、ツーショットでお願いしますね」
それを引き合いに出されたら、どうしても断りづらい。
応援は素直に嬉しいし、ボリュームが大きければホームのような空気感の中でリラックスして試合に望める。
こうなればもはや個人ではなく、サッカー部全体のイメージに関わる問題だ。なので、結局は一緒に自撮りする流れになった。
なお、涼香さんはソッコーで飽きたらしく、すでに意識をソシャゲへ戻している。
「もう、ちゃんと断らないと延々自撮りする羽目になるわよ!」
「急に素に戻るじゃん……」
なぜか注意されながら、美月のスマホで一緒に自撮りする。
顔を寄せ合ってフレームに収まり、パシャリ――無性にドキドキする。恋を自覚してからというもの、ちょっとした触れ合いに対しても心が過剰反応するようになってしまった。
「うーん……兎和くんは、このままだと自撮りのループから抜け出せなさそうね」
美月は撮ったばかりの写真を眺めつつ、考え込むように眉を寄せた。
けれど、次の瞬間には顔をパッと明るくし、スマホの画面をずいっと差し出してきた。何やら閃いたらしい。
「この写真を兎和くんのスマホの壁紙にするのはどう? 女子が迫ってきたら、無言で意味深に見せつけるの。きっと、相手は勘違いして引き下がるはずよ」
突拍子もない、というよりは破滅的な提案だ……確かに後輩女子は引き下がるだろうよ。なにせ美月は、不動の学内トップ美少女なのだから。いわば、女王である。
だがしかし、別の疑惑が光の速さで拡散することになる。その場合、巻き起こる騒動の比は倍ではすまない。
「どう考えても却下だろ……」
「そう? 私に近寄ってくる男子もいっぺんにシャットアウトできそうだし、一石二鳥の名案だと思ったのだけれど」
その代わり、僕が質問攻めにあうのが目に見えているじゃん……そう苦情を告げれば、美月は「それもそうね」と楽しげに笑う。
どうやら、冗談のつもりだったらしい。心臓に悪いから勘弁してくれ。
「そういえば、新学期が始まったらクラス替えね」
ここでまた一段と雰囲気を和らげ、話題を変える美月。
うちの学校は、2年生に進級するときだけクラス替えが行われる。仲良くなったクラスメイトと離れるかもしれないと思うと、急激に寂しさが込み上げてくる。
「すっごく不安そうね。クラス替えがそんなに嫌なの?」
「そりゃそうだろ。慎たちと離れ離れになったら寂しいじゃんか。多分、僕は泣くぞ」
「あら、残念。私は楽しみだったのに――だって、兎和くんと同じクラスになれるかもしれないでしょ?」
美月の返答を受け、ハッと目を見開く。
寂しい気持ちが先走り、その可能性は頭からすっぽり抜け落ちていた。
もし美月と同じクラスになれたら、めちゃくちゃ楽しいだろうな。特に2年生は学校行事が目白押しだ。それこそ、僕の思い描く『夢の青春スクールライフ』にぐっと近づきそう。
「なれたらいいわね、同じクラスに」
「うん。なれたらいいな、同じクラスに」
僕たちは、自然と同じタイミングで微笑みを交わす。
こんな時間が永遠に続けばいいと、つい願ってしまうくらい今が大切に感じられた。
「ふふ、青春だねぇ」
涼香さんの呟きが、そっと夜空へ溶けていく。
つられて顔を上にむける――レモンのような形の月が、とてもきれいに輝いていた。
春休みの初日は、こうして穏やかに過ぎていった。
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