第140話
やばい、やばい、ヤバい、ヤバい、ヤバイヤバイヤバイ、ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ……まさか自分まで、PKの順番が回ってくるとは思っていなかった。
だからこそ、ドキドキハラハラしながらも大人しく戦況を見守っていられたのだ。
とはいえ、時すでに遅し。視線の先では、相手の9人目が鮮やかにゴールネットを揺らしていた……もはや僕には、覚悟を決めてキッカーを務める道しか残されていない。
「兎和、コート持っててやる」
「は、ははは、はいっ……」
ハーフコートを脱いで相馬先輩に預けると、途端に体がガクガク震えだす。大晦日の寒さのせい……ではなく、極度の緊張のせいだ。
喉もひきつり、マトモに返事もできなかった。それでも先輩たちは、こぞって熱いエールを送ってくれた。
「兎和、すまない。俺が外したせいで……お前に負担をかけちまった」
とりわけ、森島先輩の悲痛な声が耳に残った。
心配しないでください、僕の心が弱いだけです……本当はそう伝えたかったのに、心臓の鼓動がうるさくて上手く言葉を紡げなかった。おまけに、主審から早く位置につくよう催促されてしまう。
とにかく僕は、過呼吸になりかけながらもペナルティスポットへ向かう。
西日を浴びるピッチがグニャグニャ歪んで見えて、足元がまるでおぼつかない。
ああ、外したらどうしよう……さっきから嫌なイメージしか浮かばない。
けれど、足の調子の悪い相馬先輩のことを考えたら、いっそ僕が失敗した方がいいのでは――
「いいや、それだけはダメだ……ッ!」
歩みを進めつつ、自分の頬を両手で引っ叩く。
自信がないからって、怖いからって、人を理由に保険をかけるのはやめろ!
それにこの選手権の主役は、3年生の先輩たちだ。僕なんかが幕を引いていいはずがない!
何が何でも、相馬先輩へ望みをつなぐ。
神様、どうか……いや、それも違うだろ。
僕が祈りを捧げる相手は、勝利の女神ただ一人だけ!
ペナルティスポットへたどり着くと同時に振り返り、スタンド最前席で心配そうに手を組む美月の顔を視界に焼き付ける。それからボールをセットし、ソックス越しにそっとレガースをひと撫でする。
『私はいつだって隣にいる』
僕は、ひとりで戦っているわけじゃない。
すっと全身に絡みつく不可視の鎖の戒めが緩み、ふっと雑音が遠のく。
ボールから離れ、ゴールだけを見据えた。主審の鳴らすホイッスルを聞き、僕は助走開始。スパイクから、ピッチを蹴る感触が伝わってくる。1歩、2歩、3歩――どうにか全身を連動させ、シュートフォームを形作った。
すかさず、願いと覚悟を乗せて右足を振り抜く。
間髪入れず、心臓の鼓動めいたインパクト音が響き渡る。
ボールは低く、鋭い軌道でゴール右下へ突き進む。だが素晴らしい読みと反応を見せたGKの指先に引っかかってコースを変え、ポストにガンっと直撃。
そして、ポンポンポンと――ボールは力なくバウンドしながら、ゴールネットに吸い込まれていった。
「うっ、おっしゃぁぁあああああ――ッ!」
天を仰ぎ、ガッツポーズを取ったまま膝から崩れ落ちた。どうにかシュートは決まったけど、代償に腰が抜けた。
遅れて響いてきた大歓声を浴びながら振り返る。次いで栄成陣営のスタンドを見やると、両手で顔を覆う美月が目に映った。
いつも心配ばっかりかけてごめん……胸中で呟き、僕は小走りで列に戻る。
「相馬先輩、なんとか繋ぎました……」
「おう、よくやった。じゃあ、俺も決めてきますか」
僕が勝利へのバトンを託したそのとき、どっと歓声が上がる。青森田山の10人目のキッカーがPKを決めたのだ。
ここで、栄成の大エースにまさかの出番が訪れる。足の調子は大丈夫なのだろうか……そんな心配を他所に、相馬先輩は堂々と列から進み出る。
彼はそのままペナルティスポットに立つ。会場中の視線を集めながら腰に手を当て、ひとつ、ふたつ、みっつ。肩が持ち上がるほど大きく、肺の隅々まで空気を満たすように深呼吸をした。
次の瞬間、相馬先輩はピッチを力強く蹴って助走をとり、右足一閃。
コースはゴール右上隅、相手GKがいくら反応しようとも絶対に届かない位置だ。
ところが、ヒュンッ――完璧な軌道を描いたかに思えたボールは、ほんのわずかにゴールバーの上を通過した。やがてピッチ外に落ち、虚しく数度バウンドする。
果たして、足の怪我の影響があったのかはわからない。それでもシュートが外れたことだけは、誰の目にも明らかな事実だった。
一瞬、何が起こったのか理解できないような空気が会場に漂う。しかしすぐに現実が追いつき、どっと大きなどよめきが波のように広がった。
決着――長いホイッスルの音が響き、栄成の2回戦敗退が確定する。
青森田山の選手たちは一斉に喜びを爆発させ、スタンドの応援団のもとへ勢いよく駆け出す。
「みんな、ごめん……」
力ない足取りで戻ってきた相馬先輩が、動けずにいた栄成メンバーの前にひざまずく。そしてボロボロと涙をこぼし、震える声で言葉を紡ぐ。
気にしないでください、あなたがチームを引っ張ってきたんです……そう伝えようとして、ハッと口を噤む。ここは、僕なんかが出しゃばる場面じゃない。
直後、本田先輩と荻原先輩が列を抜け出した。そのまま迷いなくエースのもとへ向かい、両脇を支えてゆっくりと立ち上がらせる。
「うつむくなよ、アツシ! お前がいたから、俺たちはここまで来られたんだ!」
「ナオの言う通り……3年、顔を上げろ! アツシだけじゃない、堀をはじめ2年たち、1年の兎和――部の全員が懸命に支えてくれた。おかげで、絶対王者をあと一歩まで追い詰められたんだ。これは、うなだれるような結果じゃねえ!」
本田先輩と荻原先輩も泣いていた。声を震わせていた。それでも、笑顔を浮かべていた。
少し遅れて他の先輩たちからも、「気にすんな!」や「最高の試合だった!」と励ましの声が飛ぶ……全員、笑いながら泣いていた。
「そうだな、オギの言うとおりだ……なあ皆、来年は兎和がエースなんだぜ! 俺たちの代より絶対に強くなる! 選手権での経験も積んだ! だから喜べ、誇れ! 俺たちは、ちゃんと後輩にバトンを繋いだんだ!」
相馬先輩が立ち上がり、僕をまっすぐ見つめて叫ぶ。
そうだ、誇れ、よくやった――触発されたように、嗚咽混じりの声が次々と上がった。
僕もこらえきれずに涙を流しながら、胸を張って応える。
「次の冬、必ず選手権の舞台に戻ってきますッ! そ、それで、ゆ、優勝じます――」
途中で、もう言葉にならなかった。それから、先輩たちと一緒に号泣しながら整列し、激闘を繰り広げた青森田山イレブンとハイタッチを交わして試合を終える。
その際、挑発を交わしあった選手に「また来年頑張れよ」と肩を叩かれたが、嗚咽が止まらずろくに返事もできなかった。
感情がグチャグチャで、それ以降のことはよく覚えていない。応援団の皆に挨拶をしてピッチを去り、気づけばロッカールームで豊原監督の話を聞いていた。
「PK戦の前にも伝えたけど、俺は心から誇らしいよ! ボロボロに泣きながらも、最後まで顔を上げていたお前らが大好きだ! ありきたりな言葉だけど、この涙はきっと宝物になる。この経験は将来、必ず役に立つ! 胸を張れ、お前たちは最高だ!」
『――はいッ!』
涙にくれるロッカールームに、メンバー全員の返事が響き渡った。
これで3年生が引退を迎えるのだと改めて思い知り、僕の喉からしゃくりあげるほど酷い嗚咽がこぼれる。
その後、バスに乗って帰路につく。ロッカールームの掃除は、試合に出ていない先輩たちが進んで引き受けてくれた。
こうして、初めて臨んだ全国高校サッカー選手権大会は衝撃的な幕切れを迎えた。
そして、ふらふらの足取りで帰宅した僕は約5年ぶりに高熱を出し、寝込んだまま新年を迎えるのだった。
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