第139話
ここ駒沢オリンピック競技場に設けられた電光掲示板には、『PK戦』の文字が大きく浮かび上がっていた。
大音量で鳴り響いていたチャントやブラスバンドの演奏も、今やすっかり止んでいる。
メインスタンドの左右に陣取る両応援団と詰めかけた観衆は、騒然としながらもどこか張り詰めた気配を漂わせていた。
こんなピリッとした空気の中でPK戦を行うのか――試合はタイムアップを迎え、両イレブンはそれぞれ自陣ベンチ前に集合している。そこで僕は、体温維持のため厚手のハーフコートを羽織り、改めて会場の状況をうかがう。
正直、しり込みしちゃいそう……いや、している。すでにハンパないプレッシャーが押し寄せてきており、一旦は小康状態を保っていたトラウマも侵蝕率を徐々に高め始めている。
ともあれ、今はよそ見している場合じゃない。
正面へ向き直り、豊原監督の話に耳を傾ける。
「みんな、最高だ! あの青森田山をよくここまで追い詰めた。本当に頑張って戦ってくれたな!」
集合した全メンバーを見据え、まずは奮闘ぶりを称える監督。だがPK戦までのインターバルは非常に短いらしく、「他にも伝えたいことはたくさんあるが……」と言い置いて、すぐにキッカーの順番発表へと移った。
「ファーストキッカーは……荻原剛志! お前にしか頼めん! イケるな?」
「はい! もちろんっす!」
威勢よく応じる荻原先輩。 これ以上ないほど理にかなった選択である。
実は先ほど、主審によるコイントスが行われた。結果、青森田山の応援団に近い方のゴールを使用すると決まり……おまけに、先攻も取られてしまった。
そもそもPK戦は、一般的に先攻が有利とされている。成功すれば、後攻のキッカーにプレッシャーを与えられるからだ。実際にデータでも裏づけられている。
つまり、栄成のファーストキッカーにはかなりの胆力が求められる。
そこで、チームの主将であり、肝が座っている荻原先輩が抜擢された。むしろ他に誰を選ぶって話だ。
「2番手は、本田直哉――」
以降も監督の発表に合わせ、選手たちは勇ましい声を返していく。
候補者は、タイムアップ時にプレーしていた選手のみ。PK戦のルールでそう決まっている……なので当然、僕も入っている。
とはいえ、名前を呼ばれたのは『9人目』。どうやら1年生であることが考慮されたらしい。
思わずホッとした。おそらく、順番が回ってくる前に決着がついているだろうから。
肝心の相馬先輩はというと、足の調子が悪いことを自己申告して『10人目』に収まった。フィールドプレーヤーとしてはラスト。本人は残念そうにしていたが、『チームの勝利が最優先』と納得済み。
「キッカーの順番については以上……とうとう決着だな。前にも伝えたが、PK戦は通常の試合とまったく異なる。俺は現役時代、緊張で何度も外した。だから、『自然体でいけ』なんて言えない。それでも、自分を信じて蹴ってこい!」
豊原監督はそこで言葉をいったん区切り、皆で肩を組んで円陣を作るよう指示を出す。お約束というか、もはや栄成の伝統と言い換えるべき流れだ。
「青森田山と互角に戦ったお前たちが、俺は本当に誇らしい! この勢いのまま、栄成サッカー部の歴史にセンセーショナルな一歩を刻み込もう! さあ、最後まで胸を張って戦い抜くぞッ!」
『――ヨシ行こうッ!』
皆の気炎が張り詰めた会場の空気に溶けていき、自然と円陣が解かれる。それから僕たちは思い思いの足取りで、運命が待つセンターサークルへと向かう。
その途中、GKの原裕貴先輩の腕にキャプテンマークを押し当て、きゅっと巻きつける荻原先輩の姿を目にした。
特に会話はない。けれど互いに瞳で、深い信頼と揺るぎない決意を静かに、ただ確実に伝え合っていた――頼んだぞ、任せろ、と。
僕の胸には、早くも熱い感情が込み上げてきていた。それでも、ぐっと抑え込んで表には出さない。ハーフウェーラインに沿って並ぶ先輩たちの列に混ざり、胸を張って背筋を正す。隣に佇む相馬先輩の存在が、やけに頼もしく感じられた。
やや遅れて、青森田山がセンターマークを挟んで反対側に整列する。審判団も準備万端……この激闘に終止符を打つべく、いよいよ『PK戦』の幕が上がる。
ざわめきのボリュームを増す観衆の熱視線を浴びながら、相手のファーストキッカーがペナルティボックスへと歩を進める。『#9』が、その背で揺れていた。
一方、ゴールマウスには栄成のGK、イエローのユニフォームに身を包む原先輩がスタンバイ済み。独特のステップを踏んで集中力を高めている。
やがて、ピッと。
キッカーがボールをセットすると、主審が短くホイッスルを鳴らす。
たちまち多くの観衆が固唾をのみ、波が引くように喧騒もボリュームダウンする――直後、再びどっと歓声が湧き上がった。
青森田山の9番は巧みな駆け引きでタイミングを外し、ゴール右下に抑えの利いたシュートを蹴り込んだ。原先輩は完全に逆を突かれていた。
電光掲示板に映し出されたPK戦のスコア表に、成功を示す『◯』がひとつ灯る。
これで、栄成のファーストキッカーである荻原先輩にかかる重圧が一層増した……しかし本人は、なんてことない様子で準備を整えていた。
「よっしゃ、行ってくる。アツシ、これ頼む」
「おう。落ち着いていけ、オギ」
いつも通りの軽快なやり取りを交わしつつ、着ていたハーフコートを相馬先輩に預け、悠然とペナルティボックスへ向かう荻原先輩。
僕はハラハラしながら、その背中を見送った。
ほどなくして栄成のファーストキッカーはペナルティスポットに立ち、オレンジのユニフォームを着た青森田山のGKと対峙する。
ここでまた会場はぐっと静かになり、先ほどと同じようにホイッスルの音が短く響く……すると今度は、驚愕混じりのどよめきがピッチに押し寄せる。
荻原先輩が、見事にPKを決めたのだ!
それも、ゴールど真ん中に強烈なシュートを突き刺して!
「オギのやつ、くそ度胸かよ!」
相馬先輩が嬉しそうに声を上げた。
僕も同じ気持ちだ。このプレッシャーのかかる局面で、ゴールの真ん中に蹴り込むなんて……きっと心臓に毛が生えているに違いない。
視界の先の荻原先輩は、ペナルティボックス外で待機していた栄成の守護神(原先輩)とハイタッチを交わしてから列に戻って来る。
「はっはー! この俺のビューティフルゴールを見たか? 青森田山が相手だろうと、落ち着いて蹴ればちゃんと入るんだよ!」
そう、荻原先輩の言う通り。PKは決めて当然、なんて評されるほどキッカー有利。空気に飲まれず落ち着いて蹴れば、失敗する確率の方が低い。
この事実は、青森田山のGKがいくら優れていようと変わらない……そう思うと、途端に気持ちが軽くなってきた。
「さあ、ガンガンいこうぜ! ビビって悔いだけは残すなよ!」
荻原先輩がハーフコートを着直して列に戻ると、場の雰囲気がぐっと明るくなる。
相馬先輩にばかり注目が集まりがちだが、やっぱりこの人もスゴイ。主将として、創部史上最強と謳われるチームを束ねてきただけのことはある。
おかげで、他の先輩たちの顔にも笑顔が浮かび始めた。そのうえ僕たちは自然と互いの腰に手を回し、一体感を高めつつ戦況を見守るようになった。
続く2人目の対決は、両者ともに決めてドロー。
先攻の相手キッカーは、狙いすましたシュートをゴール左下へ沈めた。テクニックが光る素晴らしいキックだった。
だが、うちだって負けちゃいない。列から進み出た本田先輩は、まるで張り合うみたいに同じコースへシュートを叩き込んでみせた。これには観衆も大興奮。
順番は3人目へ。だが、またしても差がつかない。双方の選手が揃って強心臓ぶりを発揮し、豪快にゴールネットを揺らしたのだ。
迎えた4人目。ぐっと緊張感が高まる中、先攻の青森田山からは『#10』を背負う選手が登場。観衆を魅了する完璧なシュートを放ち、華麗に連続成功を収めた。
対する栄成の列からは、奇しくも同じ番号を背負う森島遥人先輩が進み出る。
彼はペナルティスポットでじっくり呼吸を整えると、力強く踏み出して助走に入った。続けざまに軸足を踏み込み、鋭く右足を振り抜く。
そして、すぐさま会場は落胆の悲鳴に包まれた――ゴール左隅へ一直線に向かったボールは、無情にもポストのすぐ横をかすめて枠を外れてしまう。痛恨のシュートミス。
勝利の天秤は、ここで青森田山へ大きく傾く。ついに栄成はリードを許し、絶体絶命の状況に陥った……だが、その矢先。想像を超える展開が僕たちを待ち受けていた。
ピッチに崩折れ、絶望に項垂れる森島先輩。その肩を力強く叩き、励まして立たせ、列の方へ送り出してから原先輩はゴールマウスに立つ。
キックの順番は、栄成にとってまさに崖っぷちの5人目へ突入。
このPKを止められなければ、その時点で敗退が確定する。
ややあって、先攻の相手キッカーはひと際大きく息を吸い込む。次いで重圧を振り払うように助走を刻み、迷いなくシュートを放つ。
息をするのも忘れ、僕はただボールの軌道を目でおいかけた。
間髪入れず、鋭いシュートがゴールネットに突き刺さる――寸前でにゅっと、白いキーパーグローブに包まれた指先が伸びてくる。
原先輩が圧巻の反応を示し、割って入ったのだ!
コースとタイミングを完璧に読み切り、栄成に敗退を齎すはずだったボールを横っ飛びで力強く弾き返す!
「うおおぉぉおおおお――ッ!」
原先輩が放つ魂の咆哮に合わせ、観衆も盛大にどよめく。
絶望を打ち砕く奇跡のビッグセーブが炸裂し、僕たちも堪らず快哉の叫びを上げる。
シュートを外した森島先輩は祈りを捧げるように膝をつき、大仕事をやってのけたチームの守護神の名をしきりに叫んでいた。
その後、息を吹き返した栄成のキッカーはきっちりシュートを沈め、両チームともに5人目を終えた時点でのスコアを『4-4』のイーブンとした。
かくてPK戦の行方は、どちらかが外した時点で決着となる『サドンデス』に委ねられた。
緊張の糸は途切れぬまま、双方の6人目が揃ってキックを成功させる。立て続けに、7人目と8人目も冷静沈着にゴールネットを揺らし、会場の熱気は限界点を突破する。
そして、順番はとうとう9人目へ巡る。
すなわち、この僕の出番が訪れたのだ……えっ、マジ!?
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