第135話
「監督、本当にいいんですね? 投入するのは、1年生の兎和で」
「ああ、それでいい。この展開から青森田山を倒すには、ワンプレーで状況をひっくり返すようなゲームチェンジャーが必要だ。あるとすれば、兎和のドリブル突破くらいだろう……出してやれない3年には悪いが、最後まで勝負に徹する」
爛々と瞳を輝かせる美月はひとまずさておき、僕は大急ぎでスクランブル出場の準備を整える。
すぐそばでは、豊原監督と永瀬コーチが手短に意思共有を図っている。ピッチの状況を注視しながら交わされる言葉は興味深く、つい聞き耳を立ててしまった。
この重要な局面で、チーム最年少の僕がピッチへ送り出される……ベンチには、高校最後の舞台に立つことを願う3年生が何人も肩を並べている。まして現状、彼らにとっては『引退』の文字が脳裏をよぎる正念場。
永瀬コーチが尋ねたように、こっちまで不安になってくるほど奇抜な交代策だ――なんて葛藤が頭でループする一方、『どうしてもプレーしたい』という情熱が胸を焦がす。
もし逆転勝利に貢献できれば、相馬先輩たちとサッカーをする時間が延びる。それに、点を取って美月に捧げたい。記憶に残るバースデープレゼントを贈りたい。
この試合に懸ける想いなら、今の僕はきっと他の誰にも負けちゃいない。
『私はいつだって隣にいる』
レガースを装着し、黒地のスリーブ部分に刻み込まれた言葉を指先でそっとなぞる。
ちゃんと持ってきてよかった……機能性セパレートソックスも、ブルーが映えるスタイリッシュなこのスパイクも、誕生日の夜に美月が贈ってくれたものだ。
これから大観衆の中でプレーするかと思うと、それだけでトラウマが全身を侵食する。間違いなく、人生で一番プレッシャーのかかる場面だ。
けれど、こんな僕を信じられないほど信じてくれる美月の存在を傍に感じられて、前向きな気持だけはまったく揺るがない。
今はもう、ひとりじゃない――スパイクの紐をキュッと結び、瞳に力を込めて立ち上がる。
改めてピッチを見渡せば、堀先輩が大会のメディカルスタッフなどに支えられ、ゆっくりベンチへ戻って来るところだった。
「よし……よく聞け、兎和。お前の投入に合わせて、布陣を『4-3-3』に変更する」
準備が整ったことを伝えに向かうと、豊原監督と永瀬コーチが作戦ボードを使って手早く説明してくれた。どうやらポジションを含め、大きな勝負に出るつもりらしい。
パチパチパチとマグネットが並べ替えられ、盤面が新たな布陣を描き出す。
「こうして、相馬を右サイドに回す。兎和は、いつも通り左サイドでプレーしてくれ」
豊原監督の狙いを理解し、僕は思わず「なるほど」と呟く。先ほど『ファイヤーフォーメーション』なんて言葉を耳にしたが、まさにそんな感じだ。
まずは現在の右SHの選手をひとつ内側にスライドさせ、一時的に『右IH』を担当してもらう。次に、相馬先輩を右サイド高めに配置。
さらにOMFの森島先輩を同じように左IHへ動かし、中盤の底に『アンカー』と呼ばれるDMF(本田先輩)を据えて逆三角形を形成する。最後に僕が左サイド高めに入り、完成だ――これで栄成は、より攻撃的な『4-3-3』へとシフトする。
このフォーメーションのメリットは、アタッカーの突破力を引き出しつつ、中盤の前2枚を高い位置でプレーさせられる点にある。
ちなみに、僕と相馬先輩は『WG』として両翼を務め、CFとともに3トップを形成する。これまでのSHと役割は大きく変わらないものの、ゴールにより近い位置でプレー可能だ。もちろん得点に絡むチャンスだって増える。
この選手権に向け、トレーニングマッチで何度か試してきたオプションのひとつ……ではあるが、メンバーが大幅に異なるため『ぶっつけ本番』の印象が拭えない。
それに、前線のスキルがややオフェンスに寄りすぎている……いや、すでに交代でディフェンシブな先輩たちが投入されているから、攻守のバランスはそこまで崩れないのか。もしかしたら、最悪の状況にも対応できるよう準備した結果なのかも。
「確認は以上。思ったより早く出番がきたな、兎和……まあ、この際だ。お前のポテンシャルを日本中に見せつけてこいッ!」
言って、バシンと。
永瀬コーチは話を締めくくると同時に、僕の背中を力いっぱい叩く。
豊原監督も「それいいね!」と同様にバシン。加えてこの流れは、ベンチメンバーどころか負傷で退いたばかりの堀先輩にまで波及する。
「行って来い、兎和! 試合をひっくり返せ!」
「気合い入れて、ヒーローになってこい!」
「開会式みたいに大事なところでコケるんじゃねえぞッ!」
「すまん、後は頼んだ!」
バシン、バシン、バシン、バシン――中にはうっすら涙を浮かべる先輩もいた。理由なんて聞くまでもない。
それでもこうして勝利への願いを託し、笑顔を作って送り出してくれた。
栄成ブルーのユニフォームを身に纏い、胸のエンブレムを誇りに思い、僕はしっかり顔を上げて選手交代ゾーンに立つ。
試合はすでにリスタートしており、味方はひとり少ない状態のまま必死に戦っていた。そしてトランジション(攻守交代)が発生した瞬間、「プレーを切れ!」と荻原先輩の指示が飛び、相手陣内のタッチライン外へとボールが蹴り出される。
並行して、第4の審判員がデジタルの交代ボードを頭上に掲げる。赤く灯る堀先輩の『#8』、緑に灯る僕の『#28』。
後半25分、主審が許可を出す。
レガースに刻まれた文字をまたそっと撫でて、大歓声を浴びながらピッチへ駆け出す――ついに僕は、高校サッカー選手権大会の舞台に足を踏み入れた。
「フォーメーションを『4-3-3』に変更だ! 相馬は右に回れ! 森島は――」
豊原監督がすかさず、交代アナウンスにも負けない大声で指示を飛ばし、速やかに布陣がシフトしていく。
システム自体はオプションとしてある程度チームに浸透していたので、スローインからリスタートした相手の攻撃を上手く凌ぎつつ、スムーズにポジションチェンジが完了する。
一方、僕はといえば――
「はっ、はぁ……はぁ、はっ、はぁ……おえっ……」
ぐるり、不可視の鎖が全身をがんじがらめに縛りあげる。
震える足を叱咤し、かろうじて試合にはついていけている。これまでのトレーニングで染み付いた習性が、こわばる体をなんとか動かしてくれていた。
ただし、コンディションは過去最悪。おそらく、トラウマ侵蝕率もかつてないほど高い……ここまで酷い症状はずいぶん久々だ。
朦朧とする意識の奥では、『お前なんかが試合に出るな、どうせ何もできないくせに、もうサッカーなんてやめちまえ……』などと、ジュニアユース時代に聞いた糾弾の声が延々ループしている。
仲間の反応も、観客の視線も、自分を取り巻く何もかもが急に恐ろしく感じられた。
ろくに動いてもないのに呼吸が詰まる……唇が、口の中が、喉の奥が、やけに乾いてヒリヒリする。心臓も、バックン、バックン、と破裂しそう。
視界が明滅し、降り注ぐ大歓声すらもがすうっと遠のいていく……耳にこだまするのは、喘鳴すら伴う荒い呼吸音、それと太鼓をデタラメに打ち鳴らしたような激しい心音だけ。
やっぱり僕には、選手権のプレッシャーが重すぎたらしい……だが、それがどうしたッ!
そんなこと、とっくに覚悟していたさ!
自分のために、美月のために、何より先輩たちのために、全力全霊でトラウマに抗うと決意したんだ! そのうえでこの試合に必ず勝つ!
「……ッ、ぱ、パスくれっ!」
多分、こんな風にトラウマと真っ向から対峙するのは初めてだ。
とんでもなくしんどい。それでも、最後まで絶対に足を止めるつもりはない――可能な限り声を張り、自らビルドアップ途中の味方へパスを要求する。
無論、青森田山も甘くない。ピッチ内最年少で、なおかつ動きの鈍い選手が自由にプレーできるはずもなく。
「へ、ヘイ! こっち空いてる……ッ!」
もう一度手を上げてアピールすると、本田先輩が応えて鋭いパスを出してくれた。質も高く、半身でボール受ければすかさず前を向けそうなタイミング。しかし次の瞬間、プレーの切り替えを余儀なくされる。
背後から、予想以上の勢いでディフェンダーが突っ込んできたのだ。合わせてユニフォームを強く引っ張られ、堪らず体勢を大きく崩される。
ヤッバ、このままじゃカウンターをくらう……僕はピッチに倒れ込みながらもなんとか足を残し、ボールを死守する。
直後、主審の介入で難を逃れる。ホイッスルが吹かれ、相手のファウルが宣告された。
「悪いな……お前、1年だろ? 今回はここまでだ。また来年がんばりな」
汗だくの相手ディフェンダーは手を差し伸べながら、挑発を投げかけてきた。
確かに、僕には来年どころか再来年だって残っている。その間にトラウマを払拭して……なんて、きっと昔の自分なら考えていただろうな。
「すぐにぶち抜いてやるから、覚悟しとけ……ください」
手を借りて立ち上がり、僕は挑発を返す。
途中でこっちが年下だってことを思い出し、うっかり言葉使いが変になってしまった。そのせいか、相手は「ふっ」と鼻で笑ってポジションに戻っていく。
クソ、カッコ良く決めたかったのにちょっと外した……さらに困ったことに、以降のゲーム展開まで思惑から外れる。
オフェンスの際、いくらアピールしてもボールが回ってこなくなった。それどころか、チームは目に見えて相馬先輩のいる右サイドを偏重し始める。
理由は明白。僕は今しがたのプレーで、味方を不安にさせてしまったのだ。そもそも、何度もチームを救ってきた大エースと比較する方がおこがましい。
もちろん監督が指示を飛ばしているが、メンタルが影響するため簡単に修正できる問題じゃない。むしろ自分が行動で示し、再び信頼をたぐりよせるべきだ。
とはいえ、もう後半の30分をすぎている。本当ならコミュニケーションを取って徐々に事態を好転させていく場面だが、そんな時間はどこにもない。
少しでも早く、ドリブルを仕掛けられるような状態でボールが欲しい。
視界の端に、相変わらず青い瞳をギラッギラに輝かせる美月の姿が映る……しゃーない。こうなったら一か八か、ド派手にブチかましてやるッ!
僕が決意を固めたその時、ちょうど青森田山陣内でディフェンダーにパスが入る。先程のファウルで得たセットプレーが跳ね返されたすぐ後の展開である。しかもボールホルダーは、挑発を交わしあったあの選手。
グッドタイミングのうえ、シーンはまさにお誂え向き。
間髪入れず、こわばる体を無理やり動かしてスプリント開始。そのままさっきのお返しとばかりに、あくまでボールに足を伸ばしつつ激しくぶつかりにいく。
当然、主審が笛を吹いてファウルを宣告した。
だが、これでいい――僕はプレーが途切れた瞬間、味方である先輩たちを見渡しながら声を振り絞って叫ぶ。
「ぜ、絶対に点を取ってくるから、さっさと僕にボールもってこいッ……! 次期エースが誰か教えてやる!」
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