第130話
大晦日、午前――年の終わりを迎える朝。
いつもよりゆっくり目に起きた僕は、トレーニングウェアに着替えて自宅の庭へ移動し、ステップワークなどを中心に軽く体を動かした。
どこか特別な香りが混じる暮れの朝の冷えた空気に肌を晒し、意識を研ぎ澄ませる。
ほどよく体が温まったら、今度は自室へ。
フォームローラーを使い、ふくらはぎや太ももを丁寧にほぐしていく。深く呼吸しながら、試合へ向けて準備を整えていった。
やがてスマホのアラームが鳴り、予定の時間を告げた。
今度はリビングで遅めの朝食を取る。試合に合わせてタイミングをずらすように、部の方から指示が出ていた。
それからシャワーを浴び、チームジャージに着替えてベンチコートを羽織る。次いで荷物を詰め込んだリュックを肩にかけ、玄関へ向かう。
「お兄ちゃん、もう行くのー?」
座り込んでスニーカーを履いていると、トコトコやってきたパジャマ姿の妹の兎唯が声をかけてくる。
珍しく早起きさんだ。見送りにでもきてくれたのだろうか……何か裏でもありそうだけど、せっかくだからポジティブに捉えておこう。
「うん、移動とかあるから。見送りサンキュー」
「いいってことよ。そうそう、兎唯も観戦に行くからね。美月お姉さまに誘われたの!」
「あ、そう。でも僕は、ほぼ間違いなく試合に出ないぞ。ベンチ入りはするけど」
「知ってるー。あ、パパとママは家でテレビ見て応援するって」
その話は昨日母に聞いた……初めから招待するつもりがなかったので、正直言って助かった。
夏休みのあるとき、美月に『家族を試合に招待しても問題ない頃合い』と提案された。もし得点を決める姿を披露できたら、と僕も受け入れた。
だが、それは今日じゃない。
繰り返しになるが、青森田山との大一番で出場機会が巡ってくる可能性はほぼない。
運でも偶然でも、選手権でベンチ入りしたことは誇らしく思う。ただ、ずいぶんと長いあいだ観戦に来てもらってないわけで……なにより、たくさん心配をかけてきた。親孝行になるかわからないけれど、せっかくなら万全の状態で実現したいのだ。
とにかく美月にまた相談しないと、なんて考えつつキュッと靴ヒモを結び直して立ち上がる。これで準備オーケー。
すると、タイミング良くキッチンから父と母が姿を現す。噂をすればなんとやらじゃないが、見送りに来てくれたらしい。
「いくのか、兎和。これを持っていきなさい」
言って、父が小さな保温ボトルを手渡してくれた。
先日、井の頭公園でボートに乗った際、美月が同じ物をカバンから取り出していた。ならば、中身も自然と想像がつく。
試しにフタを開けてみれば、思ったとおりコーヒーのいい香りがふわりと漂う。きっと僕の好きな豆だ。
「バスの中で飲むね。父さん、母さん、見送りありがとう。じゃあ、そろそろ時間だから――行ってきます」
僕は保温ボトルをありがたくリュックに詰め、家族に背を向けて玄関の扉を開く。
妹の「兎唯にもう1回ありがとうは?」というアホな発言を聞き流し、自転車にまたがって勢いよくペダルを漕ぎ出した。
冬晴れの冷えた空気を割って進み、まずは栄成高校へ向かう。いつもの通学路を走り抜け、通用門から駐車場に入って自転車を止めた。
続いて徒歩で校内の駐車場の方へと回ると、大型バスとその周囲で雑談を交わす特別編成チームの面々の姿が視界に入ったので、僕は「おはようございます」と告げながら合流する。
「おはよう、兎和。ちょっといいか」
あらかた挨拶を交わし終えたところで、バスの後方で荷物をチェックしていた永瀬コーチが返事とともに手招きしてきた。
何か用事かな……きっと雑用でも任せたいのだろう、と僕はあたりをつける。しかし近寄るとすぐに真剣な表情で、まったく逆の内容を伝えられた。
「今日は一切雑用しなくていいから。できるだけ相馬に張り付いて、色々と学べ。それと可能性は低いが、大勝か大敗の展開であれば試合に出せるかもしれん。そのつもりで準備してくれ」
僕の分の雑用は、玲音や里中くんが引き受けてくれたそうだ。二人ともチームには帯同するもののベンチ外となった。そのため、サポートに徹するよう頼んであるらしい。
出場機会については……なんとも微妙な話だ。
青森田山が相手ならば、大敗も十分考えられる。だが、そんな状況で点を取ったとして、美月は心から喜んでくれるだろうか?
そもそも僕は、チームの一員として心から勝利を願っている。なにせ相馬先輩のサッカー人生がかかっているのだ。そのうえ、荻原先輩と本田先輩の幼馴染トリオで臨む最後の大会でもある。絶対に悔いを残して欲しくない。
とはいえ、大勝もなあ……ちょっとビジョンが見えない。
こうなってくると、自分のエゴはひとまず脇におき、選手権の舞台という価値ある経験を少しでも多く積むために意識を切り替えたほうが良さそうだ。
結局のところ、どうなるかは風まかせ。
ただ可能性が潰えない限り、しっかりと準備をしよう。
永瀬コーチの話が終わると、出発の時間が迫って来ていた。いつの間にか到着していた玲音や里中くんたちと挨拶を交わし、僕はリュックを預けてバスに乗り込む。すると車内に入ってすぐ相馬先輩から声がかかり、運良く隣に座らせてもらうことができた。出発と同時に張り付き開始だ。
「せっかくの機会だから、俺の試合前ルーティンを伝授してやろう」
「あ、あざっす。勉強させてもらいます」
「よし。じゃあまず、移動中は……寝る!」
「そうだ、うちの父が淹れたコーヒーを持ってきてるんです。ぜひ飲んでみてください」
車内で飲むために、保温ボトルを手持ちのポーチへ移しておいたのだ。
隣で「俺の話きいてた?」と疑問を口にする相馬先輩に構わず、僕はボトルを空けてトクトクとフタのコップに中身を注ぐ。
たちまちコーヒーの香りがふわりと広がり、一口飲んだ相馬先輩から笑顔がこぼれた。
美味しいでしょう、と僕も満足して頷く。父の淹れるコーヒーは『世界一』なのだ。そこらのカフェとはちょっとレベルが違う。
大好きなコーヒーがどれだけこだわって抽出されているか、熱く語って聞かせようとした。が、相馬先輩はどこからか取り出したアイマスクを付け、さっさと眠りについてしまう。
ちょっと悲しい……まあ、大事な試合前のルーティンを乱すのはマズいか。
暇になった僕はスマホを取り出し、コーヒーを堪能しつつプレミアリーグ(イングランド)の試合動画を眺め、手持ち無沙汰を紛らわせた。
それから1時間半ほどが過ぎ、バスが止まる。
本日の試合会場、世田谷区の『駒沢オリンピック総合競技場』に到着したのだ。大晦日だけに道が混雑しており、予定をややオーバーしている。
以降は、ミーティングを兼ねた栄養補給タイムへ突入。バスの中で監督の話を聞きながら、バナナやゼリー飲料などで各自エネルギーを補給する。
さらに少しの休憩を挟み、ウォーミングアップの時間となる。必要な荷物だけ持ち、皆でメイン会場のそばにある指定のサブグラウンドへ移動する。
青森田山も、今ごろ別のサブグラウンドでアップをしているはず――遠くから響いてくる野太い掛け声を耳にした途端、思わず立ち止まってしまった。
「ビビってんのか? 大丈夫。青森田山だって、俺たちと同じ高校生なんだ。必要以上にリスペクトすると空気に飲まれるぞ。もっとリラックスしていこうぜ」
ためになるアドバイスに合わせて、ぽんと肩を叩かれる。
振り返れば、相馬先輩の笑顔が視界に映り込む。
本当にすごい人だ。自分のサッカー人生をかけた決戦を前にして……それも絶対王者と呼ばれる青森田山が相手なのに、相馬先輩はいつもどおりの態度を崩さない。他の先輩たちは、結構ピリピリしているというのに。
この様子を見ていると、本当に勝ってしまうのではと思えてくる。これが、偉大なエースが放つ影響力ってやつか。
「さあ、気合入れてアップすんぞ。付き合ってくれよ、兎和」
「はいっ、喜んで!」
熱を込めた返事とともに再び歩き出し、他のメンバーたちと一緒にサブグラウンドへ向かう――それから、約30分と少し。
しっかり汗を流し、定刻になると競技場内のロッカールームへ移動した。荷物もすべて運び込まれている。ベンチ外のメンバーが、アップ途中に抜けて作業してくれたのだ。
スタメン組の着替えが完了したのを見計らい、いよいよ試合直前のミーティングが始まる。
豊原監督の声がロッカールームに響く。何度も繰り返してきたフォーメーションと戦術の確認だが、その口調はいつもより何倍も力強い。
選手たちも水分補給をしながら、打倒青森田山へ向けて活発に意見を交わす。特に球際、デュエルなどで絶対に気持ち負けしないように、と改めて意思統一がなされた――気づけば、ロッカールームには勝利への情熱が渦巻いていた。
「……よし、そろそろ時間だな。みんなよく聞け。今日もたくさんの人が応援に駆けつけてくれている。だから、堂々と試合をしてくれ。決して気持ちを切らすことなく、最後まで走りきってほしい」
そこで豊原監督はいったん言葉を区切り、皆で肩を組んで円陣を作るよう指示を出す。
「あと、俺から言えることは――この試合、必ず勝つぞッ! お前たちならやれると信じている! 全力で、魂をむき出しにしてぶつかってこい! さあ、またひとつ歴史を作りに行くぞッ!」
『――ヨシ行こうッ!』
監督の言葉に応え、選手たちの一戦必勝の決意を乗せた叫びがロッカールームを震わせる。
まるで青春の発露だ。切り取って永遠に残しておきたいと強く願ってしまうほど、この一瞬の光景が尊く感じられた。
もう間もなく、絶対王者と称される強敵との戦いの幕が上がる。
***
選手入場口には、諸々のチェックを済ませた両チームのイレブンが列を作っていた。
会場の歓声が響く中、激闘を予感させるひりついた空気が漂っている。
僕を含め選手たちは体温維持のためハーフコートを羽織っているが、下からそれぞれのチームカラーが覗く。栄成はもちろん青。対する青森田山は、代名詞ともいえる緑。
あれが、絶対王者……少し離れた位置から観察して、真っ先に抱いた印象は『デカい』だった。身長もそうだが、事前に確認した映像よりずっとゴツく感じる。
うちのチームにも荻原先輩など体格で負けていない者はいるが、頭数がまるで違う。相馬先輩なんかはシャープな体型なので、吹き飛ばされてしまうのではと心配になってくる。
すると、その時。
ちょうど脳裏に思い浮かべていた当人が近づいてきて、わざわざ声をかけてくれた。
「ボケっとしてどうした、兎和。またビビったのか?」
「あ、いえ……ちょっと考え込んでました」
「そうか。まあ、ベンチからしっかり見てろ――俺が、お前を次のステージへ連れて行ってやる」
「相馬先輩……頑張ってください! 全力で応援します!」
程なくして会場に音楽が響き渡り、選手たちの入場が始まる。
力強くサムズアップを返し、列の最後尾をゆっくり歩く相馬先輩――しばらくの間、僕は遠ざかっていく頼もしい背中から目が離せなかった。
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