第129話
熱狂冷めやらぬ選手権での初勝利から明けて翌日、年の瀬の気忙しさが街を覆う夜のこと。
いつものようにトラウマ克服トレーニングを終えた僕は、外灯が照らす家路を自転車で駆けていた。
冷たい夜風が頬をかすめる。ここ最近、また一段と気温が低くなってきた。今も栄成サッカー部のベンチコートを着込んでいるが、それでもなお寒さが身に染みる。
早く家に帰って、温かい湯船に飛び込みたい……が、どうやら少し寄り道をする必要がありそうだ。
大通りの赤信号に引っかかったちょうどそのとき、ポケットのスマホが震えた。画面を確認してみれば、母から『牛乳がきれた』とのメッセージが。ついでに妹が、お高いハーゲンなダッツのアイスをご所望とのこと。期間限定フレーバーがどうしても食べたいらしい。
仕方ない。ちゃちゃっと買って帰るか。
青信号になったのを見た僕は、手袋に包まれた指先をブレーキレバーから離すと同時にハンドルを切り、道を変えて栄成高校の近くのコンビニへ向かう。
対向車のヘッドライトに時おり眩しさを覚えながら5分ほど走ると、馴染みある背の高い看板が見えてきた。スピードを緩めて駐輪スペースに入り、自転車からおりてスタンドを立てる。
ふうっと冬色に染まった吐息が立ち昇り、誘われるように星の瞬く夜空を眺めた。
真っ先に探したのは、オリオン座。あいにく、他の星座はよくわからない……けれど、きっと美月ならたくさん知っているのだろう、なんて先ほどまで一緒にいた少女の顔を思い浮かべた。
すると、その瞬間。
背後から不意に、聞き覚えのある声が飛んでくる。
「おー、兎和じゃん。こんな遅くに何やってんだ」
ちょっと驚きつつ振り向けば、ベンチコート姿の相馬先輩が佇んでいた。外灯の光を浴びて影が際立っているせいか、どこか大人っぽい印象を受ける。
視線を少し動かせば、駐車場隅のベンチに座り込む荻原先輩と本田先輩の姿も見える。文化祭でフットサル対決をしたトリオだ。
「コンバンハっす。ちょっと用事があって。相馬先輩たちこそ、こんなところで何してるんですか?」
「俺たちは、ファミレスでメシ食ってきたとこ。そんで、ちょっと話して帰ろうかなと思ってさ。時間あるなら兎和も付き合えよ」
はい、と迷わず返事をした。
朝練の絡みや文化祭でのアレコレを経て、今は期間限定のチームメイト。そのうえ頻繁にプレーのアドバイスなんかもいただいているため、喜んでお誘いに応じた。
端的に言って、かなり相馬先輩を慕っているのだ、僕は。
「いいね。じゃあ、優しい先輩の俺が飲み物をおごってやろう。何がいい?」
「あ、マジっすか? なら、ホットのお茶をお願いしたいっす」
「オーケー。あっちで待ってな」
言って、相馬先輩はコンビニ内へ。僕は「こっち来い」と手招きする荻原先輩のもとへ。さらに本田先輩が「どうぞ」とひとり分ズレ、なぜかベンチの真ん中に座らされた。
ひとまず3人で挨拶を交わしたら、やはりここに到着するまでの経緯を聞かれたので、また「ちょっと用事で」と適当にボカシて答える。
「ただいまー。ほら、兎和」
「あ、あざっす!」
さほど時間を置かず戻ってきた相馬先輩が、お茶のペットボトルを投げ渡してくれる。
僕はお礼を伝えてからキャップを空け、一口飲んでホッと息を吐く。そこで今度は、荻原先輩が「そういえば」と話を切り出した。
「あれから鷹昌、どうしてる?」
「え、白石くんですか? ……まあ、相変わらず賑やかにやってますよ」
白石くんは現在、永瀬コーチに命じられて部室棟やトイレの掃除を担当している。選手権のメンバー発表の際、監督に公然と反抗したバツだ。期限は本年度いっぱい。
無論、彼が一人でやるはずもなく。自分の派閥メンバーを巻き込み、ぶつくさ文句をたれながら毎日作業している。
「そうか、ちゃんとバツ当番をやってるならいいけど。アツシがずっと気にしてんだよ」
「だって俺、相当キツい言い方したじゃん? 優しい先輩のイメージが台無しになったかなって。パワハラヤロウとか思われるのも嫌だし」
この話もまた、選手権のメンバー発表の件に起因する。
あのとき相馬先輩は、一喝して白石くんを黙らせた。そして荻原先輩が言うには、そのことをずっと気にしていたそうだ。脅かしすぎたのでは、と。
ちなみに、ここにいる最上級生3人組はそれぞれあだ名で呼び合っている。
相馬先輩はアツシ、荻原先輩はオギ、本田先輩はナオ、といった具合だ。
「でも、先輩ぶっていられんのも次の試合までだな。俺たちもついに引退かあ」
「いやいや、縁起でもないこと言わないでくれ」
相馬先輩が地べたに座りながらボヤきめいた冗談をこぼすと、本田先輩がすかさずツッコミを入れた。
高校年代最後の大会に挑んでいる彼らにとって、試合での敗北は『即引退』を意味する。とはいえ、次戦以降の結果はまだ誰にも分からない……なんてフォローしたいところだが、ボヤきたくなる気持ちも理解できる。
というのも、栄成が開幕戦で勝利を収めたその翌日、『青森田山』もまた順当に勝利して次戦へコマを進めていた。
ここ10年で、冬の選手権を5回制覇。数年前には『高校サッカー3冠』を達成。その強さは圧倒的で、『絶対王者』とも称される――栄成の2回戦の相手は、そんな格上の青森田山に決まったのだ。
「実際に望み薄じゃん。俺たち、トレーニングマッチですら負けっぱなしなんだから」
「バカヤロウが。それでも『勝つ』って宣言するのがエースの役目だろ」
爽やかで飄々とした印象を抱かせる相馬先輩。けれど、ふと『らしくない』一面を覗かせた。
叱責した荻原先輩をはじめ、内輪のメンバー(僕を除く)だけだからこそ出た軽口だろう。年の瀬のしんみりした空気の影響も否めない。
それはともかく、栄成の対青森田山の戦績はかなり振るわない。
僕が特別編成チームのミーティングで得た情報によれば、遠征先で開催されるカップ戦(非公式)やトレーニングマッチなど、何度か試合をしたことがあるらしい……だが、引き分けはあったものの勝ち星はゼロ。
「いくら強がっても、青森田山が有利なのは変わらないだろ――だからこそ、チャンスが生まれる。きっと相手は油断してるぞ、栄成に負けるはずないって。それを利用して、逆にガツンと一発かましてやる」
打って変わって、不敵な笑みを浮かべる相馬先輩。
なるほど。先ほどの弱音はブラフか。道理で、らしくないと思った。
相手の油断につけ込むのは、サッカーにおける常道の戦術。意表を突き、焦らせて普段通りのプレーをさせない。さらに試合のペースを握り、最終的に勝ちを掴む。
要するに、青森田山戦へ向けたスタンスを示してみせたのだ。
「このアホ! 驚かせやがって!」
「わはは、だまされたか! この俺が今さらビビるわけないだろ。オギはいつも心配しすぎなんだよ。昔っから変わらんな~」
「昔から、ですか?」
「そうそう。俺とアツシとオギは、ずっと同じチームでプレーしてきたんだ。もう10年以上の付き合いになるかな」
じゃれる相馬先輩と荻原先輩。それを笑って眺めていた本田先輩が、僕の発した疑問に答えてくれた。
聞くところによればこの3人、なんとジュニア時代(U12)からのチームメイトだそうだ。ここまでくると、もはや幼馴染と言い換えたほうがしっくりくる。
血涙を流すレベルで羨ましい……僕も長いことサッカーを続けているが、高校に入るまでずっと孤独だった。チームスポーツなのにおかしな話だ。それだけに、今の環境が愛おしさすら感じるほど大切に思えるのだけど。
「そう考えると、長いようであっという間の10年ちょいだったな。勝っても負けても、もうじき終わっちまう……まだまだ、お前たちと一緒にサッカーしてたかったな」
またもや表情が一転し、今度は哀愁を帯びた声で呟く相馬先輩。
青春ど真ん中の高校年代の終わり。寂しくないはずがない。まして3人の進路がバラバラともなれば、共にサッカーボールを蹴る機会はぐっと減ってしまう。
「……だったら、ひとつでも多く勝たないといけませんね。高校年代の集大成となるこの選手権で」
「いんや。俺にとっては、サッカー人生の集大成だ」
「え、サッカー人生……?」
「おう。大学じゃあサッカーやらないから、この大会でガチの引退だな」
あまりの衝撃に僕は言葉を失った。
家の方針で弁護士を目指す。大学も推薦で、すでに決まっている。自分も納得済みだ――全国区の実力を持つサイドアタッカーと評される男は、あっけらかんと語る。
嘘だろ……サッカー推薦で、進学先でも変わらずプレーするものだと思い込んでいた。
本人の口から聞いた今でも信じられない。しかし荻原先輩たちの神妙な反応を見る限り、嘘や冗談の類いでもないみたい。
「つーか、マジで終わりなんだな……本当に色々あったよな。アツシなんて、高校入ったばっかのときはヒョロヒョロでさ」
「うわ、懐かしい! 先輩にふっ飛ばされて半ベソかいてたっけ」
「うっせ! ナオだって、初めての夏合宿でゲロ吐きまくって涙目だったクセに! しかも俺のプラシャツにちょっとかかったの忘れてねーぞ!」
僕が衝撃から立ち直れずにいると、雰囲気を変えるみたいに荻原先輩と本田先輩が昔話を始めた。これ幸いとばかりに、相馬先輩も流れに乗る。
次々と興味深いエピソードが飛び出してきて、絶え間なく笑い声が響く。
入部当初はとにかくガムシャラで、上級生とぶつかり合うことが多かったそうだ。同級生との間にも、セレクション組と一般入部組の軋轢があった。
情熱、劣等感、自尊心、プライド――たくさんの強い想いが複雑に絡み合い、何度も本音をぶちまけて傷つけあった。楽しそうに話す姿からは想像もできないほどに、メンバー同士が険悪だったという。
それでも女子マネである遠山茜先輩の仲裁があって、どうにかチームとしてまとまり始めた。
死ぬほどキツいトレーニングに打ち込んだ果てに、先輩たちをぶっ倒してスタメンの座をもぎ取った。
あの時に抱いた無邪気な喜びと、淡い罪悪感が今もまだ胸に残っている――荻原先輩が、そう教えてくれた。
夏合宿の夜には、やはり伝統の『ポコチンモンスターバトル』で盛り上がったらしい。遠征先で起こした騒動なんかは、聞いているこちらがハラハラさせられた。
なんだか、僕たちの代とあまり変わらない気がする――先輩たちの語る過去は、これから自分たちが辿る未来なのかもしれない。
そう思うと、途端に胸が熱くなってきて、憧憬にも似た感情を覚える。
いつか僕にも、こんな風に笑いながら思い出話をする夜が訪れたらいいな。
「それも、もうオシマイか……楽しかったなあ」
「おい、ナオ! せっかく話変えたのに湿っぽいこと言うんじゃねえ。でも、よかったな。アツシの『7番』を継ぐ後輩ができて」
「ああ。けっこう心配してたけど、兎和がうちに来てくれてホント良かったよ」
栄成サッカー部のエースナンバーは『#7』だ、と相馬先輩は断言する。それから、「お前になら託せる」と微笑む。
ひどい不意討ちだ。そんな嬉しい言葉をかけられたら僕は……瞳が潤むのをこらえるので精一杯だった。同時に、エースという存在の偉大さを痛感する。自分がチームを去った後のことにまで気を配るなんて。
たった2つ年上なだけで、どうしてこうも大人っぽく見えるのだろう。なれるだろうか……僕も、こんな立派な先輩に。
「だから兎和、栄成サッカー部の未来を頼んだぜ。次はお前たちが歴史を作っていく番だ!」
「……いや、まだ負けてないじゃないですか」
「あっ、そうだった!」
僕がなんとか震える声でツッコミを入れると、相馬先輩はおどけて笑う。
引退なんかしないで、このままずっと一緒にサッカーを続けてほしい……もうすぐお別れだと思うと、なおさら先輩たちと離れがたくなってくる。
ともあれ、今宵はそろそろいい時間だ。また少し会話を続けた後、僕たちは解散する――星が綺麗な夜の雑談は、どこかしんみりとした空気の中で締めくくられた。
そして一晩が空け、迎えた12月30日の午前。
僕たち栄成サッカー部の全メンバーは、再び自校のピッチに集結していた。
いよいよ迫る大晦日の14時、青森田山との決戦の火蓋が切られる。それに先立ち、これからまたメンバー発表が行われる予定だ。プレゼンターはもちろん、部員たちの正面に立つ豊原監督。
「チームのベースに変更はない。ただし、欠員が発生した」
どうやら、この前の開幕戦で得点を決めた2年生の先輩が正式にチームを外れたようだ。
あの試合でふくらはぎを痛め、病院へ直行していた。幸い怪我の具合は軽いと判明したものの、大事を取って治療に専念するとのこと。
続けて、代わりにベンチ入りするメンバーの名前が豊原監督の口から発表される――数瞬の静寂を挟み、部員たちの間に動揺に近い衝撃が走る。
「実力やプレースキル、将来性、その他すべての要素を考慮し、コーチ陣と徹底的に議論を重ねた結果……明日の試合でベンチ入りする最後の一人は、白石兎和に決定した。我々はこのメンバーで、青森田山に勝ちに行く!」
ふっと風が吹く。
同時に、ドクンと心臓が強く鼓動を打つ。
美月の願いを叶えるための挑戦権が、今この手に授けられた。
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