朝霧紫水の交渉術
コンコンと静かなノック音が聞こえる。
ここは校長室前。
朝霧紫水は書類を手に、時間通りに校長室を尋ねた。
「どうぞ」
「失礼します」
「お待ちしてました。何か飲みますか?」
「いいえ船橋校長。長居する時間はありませんから」
「そうでしたね。早速書類を拝見します。直ぐに教頭先生もお越しになるでしょう」
「はい。こちらです」
渡された書類をじっくり見る校長。
齢五十八にして温厚な性格。
なるべく波風立てず平穏に過ごしたいというタイプだ。
そのため校長の話も長くは無く、生徒からもその点で人気がある。
暫くして再度ノックが聞こえ、若い教員が一名入って来た。
「失礼。遅くなりました」
「栗原先生。こちらへ」
「はい。失礼します」
校長の隣に腰を掛ける栗原教頭からは若干の煙草の匂いがした。
齢四十にして教頭にまで上り詰めた実力者であり、元野球部でもある。
朝霧が最も苦手としている男でもあった。
「こちらは確認が終わりました。栗原先生が確認を終えたら話をしましょう」
「はい。よろしくお願いします」
早速眉を顰める栗原教頭。
「……予算百五十万? 高すぎるなぁ」
「まぁ、お金の話よりも私はこちらの教養推進部の活動内容が気になりますね」
「というと?」
「いやあ。うちは立派な吹奏楽部があるので。そちらで織り交ぜられたらなと」
「こちらですか……ああ、これは確かに。楽器何てどれも同じでしょ?」
「栗原先生。お言葉ですがバットとグローブは同じものですか?」
「はっはっは。そんなわけないでしょう」
「それと同じことですよ。楽器はものが違えば大きく役割が異なります。バットがピア
ノ、グローブがバイオリン、ボールがギターといったようにね」
「ううん。でも琴っていうのは別に吹奏楽でやればいいことですよね?」
「いいえ。あくまで和で統一するということです。そういった風習を我が校が持てないか
らこうして申請書が上がってくる。否定されるんですよ。生徒同士でね」
「話し合いで解決出来ないのですか?」
「難しいですね。体育祭にしろ文化祭にしろ、音楽発表会にしろ、三味線を利用したこと
がありますか? ありませんよね。それどころか我が校にその楽器すらありません」
「それは確かに」
「それと、茶を点てたり、生け花をしたりといった教養を積みたいという生徒の願いは部活
としてまかり通る範囲かと考えます」
「飲食物はちょっとねえ」
「顧問が既に決まっています。生徒が口にするものは教員が必ず口にしてからという決ま
りがあるのは存じております。櫛切先生は責任感が強いですし、生徒から厚い評判を受け
ています。信頼出来る顧問かと」
「私も櫛切先生の評判は聞いています。こちらは申請を通しましょう。しかしクリエイ
ター部。こちらは少々問題があります」
「と仰いますと?」
「アニメや漫画などは教育に悪影響を与えると思っています」
「校長の仰る通りだ。中学生なら全員、校庭で肉体作りをした方がいいくらいですよ。今
は特に野球が盛んだ。全員で野球をやらせてはどうかって話も出てるくらいで」
「生徒全員が野球を好きなわけではありません。クリエイター部に名乗りを上げている伊
吹君は手が不自由です。それだけではありません。我が校にも色々な生徒がいます。それ
を理解した上で仰っているんですか?」
「片手でも素振り位は出来るでしょ」
「それはあなたがそうさせたいだけでしょう。彼はそんなこと、望んではいません。私は
担任として生徒を守る義務がありますから。押し付けるような教育は望んでいません」
「でもねえ……予算がね。これで部活が続かなかったらどうするの? 百五十万だよ?」
「これを」
二枚の紙を出す朝霧先生。
それは部活の活動内容をまとめたものと、二つの部の作品を二月の部活報告会の際に全校
生徒へ向けて発表するというものだった。
そしてもう一枚は……「辞職表?」
ガタンッという音が僅かに聞こえた気がしたが、直ぐに朝霧先生へと向かい合う校長と
教頭。
「成功しなかったら、私は教員を辞任します」
「まぁ落ち着いて下さい朝霧先生……」
「よし。それならこれは私が預かろう。こういう勝負ごとは大好きでね。良いでしょう。
部活は責任もって私が申請を受理しよう。来年度までに果たして何人部活希望者が増える
か楽しみですな」
「有難うございます。それでは失礼します」
「……やれやれ。仕方ありませんね」
朝霧先生は直ぐ席を立つと、教室で待つ佐々木と一ノ瀬に部活が承認されたことを伝え
た。
「機材が整うまで暫く時間が掛かるだろう。その他詳細に関しては後日伝える。一ノ瀬は
櫛切から聞くように。それと今回の立ち上げでどうしても双方で協力して欲しいことがあ
る。それも後日詳しく話をしよう」
「有難うございます。俺、直ぐ流駆たちに知らせておきます」
佐々木凛は直ぐ教室を出て行く。
その姿を見送ってから、頃合いを見て一ノ瀬は口を開く。
「あの、先生。私実は……話聞いちゃったんです」
「……校長と教頭との話をか」
「うん。もしかしたら申請、通らないんじゃないかなって。不安で、不安で。先生、私たち
のためにどうしてそこまでしてくれるんですか? 私、私……先生がいなくなったら嫌です!」
「先生が中学校の頃、同じように部活を立ち上げようとしたことがあった」
「えっ?」
「そのとき、誰一人協力してもらえなかったし、担当顧問を引き受けてくれる先生もいな
かった」
「そんなことがあったんですね……」
「櫛切先生が引き受けてくれなかったら、難しかったかもしれない。だから一ノ瀬、礼な
ら櫛切先生へきちんと伝えてくれ」
「分かりました。変わった先生だけど感謝を伝えてみます。私、頑張りますから。有難う
ございます!」
……誠実には誠実を、か。本当に真面目で、礼儀正しく良い子たちだ。
この一年間で彼らの成長をどこまで見守ってやれるのか分からない。
それでも教員として、しっかりと務めを果たしてやろう。
そして……。