第八十八話(その2の10~11の頭まで)
そう、オレは、辛い旅へ出た。
〈おい、〉
…オレは、オレは、オレオレオレオレ……
〈おい、嬢ちゃん?〉
いや、違う。
嬢ちゃん…そうだ、その呼称で正しい…はず…
オレ…じゃない。
わた、しだ…私は…
〈嬢ちゃん、そろそろ気がついたか?〉
そうだ。
私は、“嬢ちゃん”。
そして、ラム。
ラム・スケープシープ・ヤミーミート。
それが、私の名だ。
そう、私は今、夢を見ている。
誰かの、いや、命の恩人である漁師のテツモリおじいさんの記憶を、私は覗いていたのだ。
どうして、こんなことになったのかは分からない。
だが、自分が過去を追体験していることだけは、なぜかはっきりと分かる。
ええとそれで、たぶんさっき私に呼びかけてきたのが、その……
〈オレだ。
テツモリの爺さんだ。
さっきまで嬢ちゃんが体験していたあのつまらねえ悲劇の主役、バカなおぼっちゃん…いや、元おぼっちゃんだよ〉
え?テツモリさん?
〈分かったか?
死にたがりのお嬢ちゃんよ〉
死にたがりって…私は別に…いや、そうかもしれませんね、言われてみれば。
でも、これってどういうことなんですか?
ここは、私の夢の中じゃないんですか?
〈こちとら、あんまり頭が良くねえんで細けえことは分からねえが…今のワシはテツモリ本人じゃねえ。
記憶の欠片、強く印象に残った後悔の記録…
まあ、影帽子とでも思っておけよ。
本人に似ちゃいるが本人じゃあない。
ただの喋れる残響だ〉
そういえば、確かに私は奇妙な泡…“記憶の固まり”に触ったような…?
〈まあ良い
こんなジジイの恥で良ければ、存分に見ていくが良いさ。
確かに、今の嬢ちゃんにはそれが必要そうだしな〉
え?それは、どういう…
〈『死』を知れってことさ。
『百聞は一見にしかず』
流石のワシもまだ死んだこたぁねえが、まあ参考にはなるだろうさ。
なにしろーー〉
そして、お爺さんはこう言ったのだ。
〈あの時のオレは、それにかなり近いところまで行ったんだからな〉
そ、それは、テツモリさんが親友のハシバミさんをーー
問いかけようとしたが、それは無残に打ち切られてしまう。
覚えがある感覚が全身を襲い、意識が、どこかへと吸い込まれる。
こうして私は、また海へと戻っていった。
過去の【北辺海】、テツモリさんの苦い思い出の中へ……
※
※
※
その言葉は、ごく普通の雑談のように発せられた。
「それで、ボクを海に投げ込む決心はつきましたか?」
それは、北方の制定貨幣の候補がどうのこうのとかいうオレの無駄話を、よく研いだマグロ包丁のようにあっさりと断ち切り、この舟を包んでいるのが死の海【北辺海】の冷ややかな空気であることを思い出させた。
気づけば、辺り一面を暗い波が踊り、これから起こるであろう見せ物を待ちかねたように、オレたちを取り囲んでいる。
「…気づいてたのか」
返事をして、我ながらそのあまりの力の無さに驚いた。
なんて弱々しい声出してるんだ、オレ……
そんなふうに一人で驚いている間にも、ハシバミはハキハキとしゃべり出していた。
「そりゃあ、気付きますよ。
テツモリさんは、昔から追い詰められると口数が多くなりますからね」
「『テツ』って呼べと何度も言ったろ。
しかしまあ、そうか。
バレちまったか…ハハ…オレらしいな」
「何を笑ってるんですか!
冗談じゃありませんよ!」
今度は、ハシバミの語気の強さに驚く。
コイツ、こんなふうにしっかりしゃべることも出来たんだな。
「いやまあ、これから殺されるかもってヤツにとっちゃ冗談じゃねえんだろうな…
すまん、これも全部、オレがバカなせいだ」
「貴方はいつもそうだ!
自分だけで勝手に決めて、勝手に苦しんで!
しかも貴方は、そのせいでボクやナギサさんたちが、どれだけ心配したか、迷惑したか気にもかけていないんです!
どうしてそんなに無神経でいられるんですか!」
「…無神経か、まあそれはそうかもな。
ハハハ、すまねえな、どうにも鈍感な因州だらけのド田舎漁師なもんで…!」
肉を強く叩く音が、辺りに響き渡った。
オレは、後ろへ吹き飛ばされ、小舟の中で仰向けに転がる。
殴られた。
けど、すぐには実感が追いつかなかった。
それをようやく理解することが出来たのは、吐き捨てるようなアイツの言葉を聞いたときだった。
「どうして、すぐに殴り返してこないんですか?
こんなボクなんかの拳なんて、痛くもかゆくもないとでも?」
「ふるさと思いの貴方が故郷をそこまで言うなんて、一体、『長老衆』にどんな脅迫をされたんですか!?」
「…『長老衆』のことまで気づいていやがったか。
流石は『北辺商会』の商会長サマだぜ」
また殴られる。
「どうして、殴り返してこないんですか。
そんなにボクは弱く見えますか?
殴られたら死ぬくらい?
それにどうして…どうして、相談してくれなかったんですか!
そんなにボクは頼りないですか!?」




