第八十七話(その2の9~10の途中まで)
無力感に苛まれるが、吐いたツバは飲めない。
今このときだって、今か今かと、港のあちこちから監視の視線を感じるんだ。
ここは、既に死地。
ハシバミ、既にオマエは、網にかかった魚なんだよ。
相変わらずの鈍さで、全く気づいてないみたいだけどな……
オレは、あらかじめ手配しておいた小舟へ向かって、ハシバミを連れていくしかなかった。
そうして港を立ち去るとき、耳の奥に、さっき別れ際に言われた言葉が蘇る。
ーー「お願えしますよ、親分!」
何を“お願い”したいのか、その意味は明らかだ。
ハシバミを、排除しろというのだ。
この世から。
確実に。
こうしてオレは、十七の冬に、親友と共に旅に出ることになった。
それまで思い描いていたのとは全く異なる、悲しくてつらい旅に。
行き先は、ヒトを拒む魔境、禁断の海【北辺海】
それは、何かを得るためではなく、失うための旅だったんだ。
もう、夜が近かった。
※
※
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沖合へ出た。
普通なら、こんな小舟を使うなんて自殺行為なんだが、まあオレたち北方の漁師にとっちゃ、お茶の子さいさいだ。
しかも、今の時期は波も凪いでいる。
小さい頃から【北海】の荒波にもまれて育ったオレたちなら、目をつぶったって人の領域の全てを航行することが出来るだろう。
空はどんよりと灰色に曇り、風は寒さのあまり痛みを感じさせるほどだ。
あと少しで、完全に日が落ちる。
そして、それと同時に禁断の海、【北辺海】へと着くだろう。
ここから見ても、ある距離から空と海の色がガラリと変わっているのが分かる。
アレこそが、【北辺海】
禁断と呼ばれるだけあって、そこは人を寄せ付けない魔の海。
人の領域の外だ。
だから、人目を避けての話し合いにはもってこいだ。
とはいえ、いくら里では噂が雷のように高速で広がるといっても、さすがに密談のためにこんなところまで舟を出す必要は、全く無い。
というか、普通は絶対にしない。
危険すぎるからだ。
【北辺海】には、その主がいる。
あらゆるモノを食い尽くす無敵の存在、黄金の鱗の怪物が。
まあ、ちょうど今の時期なら、ソイツを避けることも可能ではある。
今頃は、この世界最北の島だという【北辺島】で『コルセスカ』という伝説の包丁を祀る儀式があるんだが…不思議なことに、この頃になると【北辺海の主】は、その島への航路へは近寄らなくなるらしい。
その航路を知るのはごくわずか。
代々、案内人の役割を務めるオレの家系だけだ。
ちなみに、その『コルセスカ』を作ったのは、あのメクセトだと伝えられている。
だから、【主】も、元はヤツが放ったペットだか番犬もとい番鯱なんじゃないか、とか言われているが、真偽は分からない。
なにしろ、メクセトに関する伝説はあまりに多すぎるうえに、ヤツに関する記録の多くは、古代の戦いで失われてしまったからだ。
まあ、メクセトならやりかねない、ということだけは確かだ。
ともかく、そうしたわけで今の時期だけは、航路さえ守っていれば【北辺海】に近づいても比較的安全だ。
そして、例の『包丁』に関する儀式も、もう長いこと行われていない。
それはなんでも、『包丁』の怒りだかメクセトのタタリだかに襲われて、儀式に参加した料理人がことごとく手足を失ったからだという話なんだが…まあどうせ、ただの迷信や防寒対策不足だろう。
タタリなんてあるわけないし、包丁が怒ったり、ヒトを氷漬けにするわけがない。
それなら、そこらへんの岩が実は生きていて突然しゃべり出す方が、よっぽどあり得る話だ。
バカらしい。
このあいだ小便した岩なんて、海賊どもよりよっぽどイケメンだったしな。
いやな、実を言うと黒曜石とかの岩が実は生きていて、しゃべったって話があるんだよ。
それもたくさん。
神々の手下をやってるとか、恩を返したり復讐したりしたとか、まあ良くある昔話だ。
昔、メクセトについて調べたときにそんな話も集めたんだが、美食と無関係な内容も多いのに、今日までずっと伝わっているのが謎だって、ハシバミのヤツが首をひねってたっけ。
そういや――は、あちこち旅してるって話だが、そんな話は知らないか?
ああ、聞いたことあるか。
まあ、この【食卓界】のあちこちにある伝説らしいからなぁ。
そういった話もメクセトの時代に増えたらしいし、たぶん例の『戦車』みたいにヤツの機械の話が歪んで伝わったってことなんだろう。
こっちもこっちで、バカらしい話だ。
包丁も岩も、生きていたりするわけがないのに。
…あー、出来るだけこの後のことは考えたくなかったのに、もう舟が【北辺海】まで来ちまった。
気をそらせることが出来たのも、ここまでか。
ともかく、そういうわけで、今のこの辺りにはオレたち以外、生き物は全くいない。
そう、だから、人目を避けての話し合いにはもってこいだし…人を殺すのにだって最適なんだ。
オレの辛い旅も、ここが終着点かねぇ……




