第四十五話(34~35の途中まで)
今に残る【心臓】の少女は、私ただ一人しかいない。
これから兄が結婚するかは知らないし、興味もないが…まあ、まず間違いなく、その役割を継ぐ娘はもう二度と現れないだろう。
母が厳しく気を配っていたように、【心臓】の継承には、食事制限などのさまざまな条件の厳守が必要だ。
単に、英雄の血を引いていれば良いというものでもない。
だから、私が死ねば、この世から伝説の食材がひとつ消え去るのだ。
それも、おそらく永久に。
神が実在するというのなら、彼女たちは、この世界における最大の価値である『美食』を守らねばならないはずだ。
ならば、神々は私の自殺を止めるため、あらゆる手を尽くすべきだろう。
たとえば、私の願いを叶えることで。
自らの存在の貴重さを逆手にとった、神への脅迫。
あるいは、ある意味これこそが、最も信心深い行為だと言えるのかもしれない。
ともかく、私は叫んだ。
「この世界を見守り、あらゆる美食に加護を与えるという神々よ!
本当に存在するなら、今こそその御力を示してください!
私の母さまを、母を返して!
それが出来ないというのなら、せめて、奇跡のひとつでも起こして、証明してください!」
もし神がいるなら、そして伝承通り食材をーー私の【心臓】を重要視しているのなら、この暴言は、決して見過ごすことは出来ないはずだ。
…もっとも、私はこのとき、母の死で信仰心を完全に失っていたので、これで何かが起きるなど、全く信じてはいなかった。
まさか、こうして呼びかけただけで奇跡が起きたり、救世の神の使徒だのヒーローだのが、天から降ってくるわけがない。
確かに、父さまに与えられた書籍には、そうした物語が大量に含まれてはいた。
けれど、そんなふうに素晴らしい料理の腕を備えた白馬の料理人などが、突然都合よく現れるなど有り得ない。
そんなのは、物語の中だけの存在なのだ。
そのとき私は、そう確信していた。
だが実際、奇跡は起きた。
起きてしまった。
私としては、出来ればそれと同時に、壮大な音や高らかな宣言、まばゆい光などの現象が欲しかったのだが…残念ながら、そちらの方は一切無かった。
突如として納屋の静寂を引き裂いたのは、何かが落ちる重たい音。
続いて、無数の小さなモノが転がる音。
納屋、上?
屋根、雨、違う。
転がっている。
何か、重たい。
石?
つまり、何かが落ちて…それで壊れた屋根の破片が後から落ちてくる?
私の思考は高速で切り替わり、状況を整理し分析した。
とまどいながらも、否応もなく気になり、考えてしまう。
一体、アレは何なのだ?
導き出された結論はひとつだ。
何かが、転がり、そして落ちてくる、ということ。
それまで月光を素通ししていた天井の穴が、急に暗くなる。
ふさがれたのだ。
「う、うわっ!」
とっさに気が利いたことを言おうとしたが、無理だった。
叫び声が思わず口から漏れる。
どうしよう。
賢そうでも可愛くもないことしか言えてない。
せっかく、全力で格好をつけるチャンスなのに。
突如として謎の物体が振ってくるなか、思い浮かべていたのは、そんなことでしかなかった。
そしてもちろん、自殺のことなんかは、いつのまにか私の頭から完全に吹き飛んでいたのだった。
*
墜落。
もうもうとホコリが舞った。
そうして、私の前に、よく分からないものが降ってきたのだ。
奇跡らしいところなど、微塵もない様子で。
降ってきたのは、何か?
いったいいかなる怪物か?
それともまさか…本当に救世主!?
「うーん」
それは、
男性であった。
それも、薄汚れた服装のぱっとしない男だ。
なんだ…浮浪者か。
危険ではあるが、落ち着いて対処すれば問題無い。
やはり、奇跡なんてあり得ない。
ましてや、神々やそれが使わせた救世主などが、願いに応じて空から降ってきたりなんかするわけがなかったのだ。
私は、どこか残念な気持ちを感じながら、状況を再確認した。
しかしいけない、この距離はダメだ。
近すぎる。
いかによそ者と言えど、一定の距離を空けて話を聞くぐらいならば、別に良い。
だがこうなると、確実に処分しなければならない。
この隠れ里の掟では、そう定められている。
伝説の食材である【心臓】の娘の安全は、何よりも優先されるのだ。
そして、血族で戦えるのは、なにも兄だけではない。
私だって護身術ぐらいは習っている。
基本的には逃げるだけだが、場合によっては外敵の撃退も可能だ。
私は、いつも持ち歩いている毒液の小さな壺を、後ろ手にしっかりと握りしめた。




