第三十七話(28の途中まで)
そのとき、稲光が走った!
いや違う!
鋭い光が、私の目を刺したのだ!
あれは、恐ろしい海賊のナイフ!
冷たく光り、私たちの心臓を狙って来る!
しかも海賊は、私の、【羊少女】の心臓の価値なんて、全く分かっていないのだ!
それが、どれだけ貴重で重要な食材なのか、それを守り続けるためにどれだけの労力が払われ、また、どれだけの血が流されたか!
あいつらは、それを知らないし知ろうともしない。
海賊というものは、そんな繊細なことには、全く気づかないほど愚かで乱暴なのだ!
無駄にされる!
私の、私たちの一族が、母様が守り抜いた大事な、大事な大事な心臓が!
伝統の全てが、母様が守りたかったぜんぶが!
いや違う、そんなはずはない。
ここは、昔の【羊人族の里】
狭く小さい辺境の集落。
緑豊かな私の故郷。
いくら夢でも、こんなところに海賊がいるわけがない!
それに海賊は、あの時たしかに【北辺海の主】に襲われて船ごと沈んだはずだ!
私の大事な【心臓】は、あの危機から守られている!
…そう、私は、あのとき守ってもらうことが出来た。
もうとっくの昔に、無事に海賊の魔手を逃れた後なのだ。
その確かな事実を、私の【心臓】は覚えている!
それは、鼓動に刻みつけられている、疑いようのない確かな事実なのだ。
そこで私は目をこすり、改めて光の正体を確かめた。
安堵するために。
愚かだった兄が、私の前でみじめに反省し、それによって歴史が変わり、辛かった過去が書き換えられる瞬間に出会うために。
私は、今度こそそれを目撃するはずだった。
幸福を期待しても、良いはずだったのだ。
それなのに……
「どうして…」
目の前の光景は、再び私を裏切ったのだった。
そして、私は見た。
驚くべきものを。
兄が,こちらを見ている、その鋭いまなざしを。
いや、それはもはや、にらんでいると言っても良いほどだった。
そんな馬鹿な。
さっき説得し終えたばかりの兄が、こんな態度をとるはずがない!
そう信じ、私はまた目をこすり、なんどもこすり、ためつすがめつ相手の様子をうかがった。
だが……
「どうして、そのままなの…」
兄の態度は、その目は決して変わることがなかったのだ。
それは、決して従僕の目でも、ましてや説得された敗北者の態度でもなかった。
そこには、確かな決意があり、抵抗の意志があり…何より、私にはよく理解できない柔らかな光さえ備わっていたのだ!
それに気づいた私は、大いに驚いた。
なぜなら、兄が、よりによってあのマトマトンが、私の予想を裏切るなんて、あるわけないと最初から決めてかかっていたからだ。
そんな私の驚きを置き去りにしながらも、彼は語った。
私に更なる驚きをもたらすことになる、彼のその見解を。
「いやだ。我は、あきらめたくない」
それは、あまりにも稚拙なセリフだった。
つたなく、粗雑で、あまりにも子どもっぽい。
けれど同時に、その発言は、私が予想だにしなかったものを示してもいた。
すなわちそこにはーー確固とした自我を持つ【人】にしか発することが出来ない、『強い意志』があったのだ。
「そんな…」
気づけば、兄が少し遠ざかっていた。
いや、違う。
私が遠のいたのだ。
気づかないうちに、私は兄から遠ざかっていた。
隠しきれないとまどい。
そして、恐怖。
そんな怯える私に構わず、兄は更なる行動へと移った。
それは、もうこれ以上驚くことなどないだろう、という私の浅はかな思い込みをたやすく覆すような、そんな振る舞いであり、要するに、極めて単純なことだった。
次の瞬間、一枚の紙片が宙を舞った。
それはひらひら、ひらひらと。
さながら死にゆく蝶のように、あるいは舞い落ちる木の葉のように、唐突に、そして静かに大地へと旅立っていった。
チラシが、それまで固く握りしめられていたモノが、ひらひらと地に舞い落ちる。
私は、それから目を離すことが出来なかった。
あれは、あれこそは、兄が何より頼りにしていた、標だったはずなのに!
そう、それはちょうど、私にとっての伝統と同じように、彼にとっての柱であり、杖であるはずのモノなのだ。
ヒトは弱く、頼りないもの。
いつかの災害、何かの手違いであっさりと死に、その尊厳を踏みにじられる。
それを防いで生きるためには、確かな日常に立つためには、どうしたって支えが必要。
そのはずなのだ。
なのに、それなのに……
柱をなくして、なぜ生きられる?
杖を手放して、どうして進める?
分からなかった。
私には、何も分からなかった。
ついさっきまで、この兄のことなら、何もかも分かるように思えていたのに……




