第二十五話(18~19の頭まで)
「それでは」
「ああ、じゃあな」
別れの言葉と共に、少女の姿は消えていく。
【氷晶包丁コルセスカ】は、ゆっくりと薄れ、空気に溶け込み、夏の氷のように見えなくなっていった。
消えていった包丁少女の表情は、思いのほか晴れやかであったような気もするが、それももう見えることはない。
二人の時間は、終わりを告げたのだ。
そうして八助は、通常の時間に復帰する。
ただ、その少し前にあとひとつだけ、彼の視界の隅に映り込んだものがあった。
それは、【鏡】の欠片だった。
先程の衝突で全て砕けたかと思われたが、まだ、一つだけ残っていたらしい。
そこに偶然写り込んだ少年の姿勢は良かった。
まっすぐに背筋を伸ばし、大地を踏みしめるその脚には力がある。
けれど、その表情は、どこか困惑しているようでもあった
八助は、"立ち去る"前に、彼に声をかけた。
「さあ、一緒に行こうぜ!アイツも待ってるしな!」
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そして、加速が解ける。
時が動き出し、空中に停止していた波しぶきが落ちる。
それこそが猶予期間の終わり、異世界人橋本八助にとっての、真の試練の始まりを告げる合図であった。
*
天空は暗雲に覆われ、時折、稲光が走っていた。
どこまでも平らな世界の上にかかった雲は、まるでフライパンや鍋に被せられたフタのようだ。
ここは【北辺島】、文字通り世界の北の果てに位置する、何もない島である。
その岩だらけの海岸は、"海辺"と聞いて都会の人間が反射的に思い浮かべるような、そんな南国の美女が似合うようなキレイな砂浜ではない。
引いては寄せ、寄せては返す【北辺海】の刃のような荒波が、穿ち、切り裂き、えぐり取り続けた、いわば、あばただらけの顔面なのだ。
そうした切り裂き魔である波だけが、現在の【北辺島】における唯一の動きであり、この灰色の空の下で活力を感じさせる唯一の存在であった。
だが、その活力には、変化がない。
波というものは、確かに千変万化の形状を持つが、その動きは結局一定の範囲内を脱しないものだ。
津波や赤潮などにしても、結局は【波】と言う言葉から連想される性質を大きく逸脱するものではない。
それゆえに、【北辺島】の波は、確かに動きを持つものでありながら、どうしても永劫の停滞を感じさせた。
灰色の空の下の灰色の停滞。
それは、まさにこの【北辺島】の現状であった。
全ては変わらず、死んだように生命の輝きが、全身や進歩といった概念が見られない。
全てが冷気にさらされるこの極寒の地では、腐敗やカビといった変化さえも赦されないのだ。
そんな島で、"包丁王"と都で呼ばれた男、ブラーサームはひとり戸惑っていた。
つい先程、自分は確かに崩れ落ちた少年を助けるため駆け寄った……そのはずだった。
必死だったのでよく覚えてはいないが、少年自体はなんとか助けられた……はずだ。
だが、これはどうなっているのだ?
現状は認識出来る。
けれど、自分が動き出す直前までの状況と、今、目の前に広がっている光景との差を、今の"包丁王"は、上手く把握することができなかった。
自分は、ブラーサームは、確かに倒れようとする少年に走りより、それこそ滑走するような勢いで少年を支えた。
……そのはずだ。
そんな動きをすれば、間違いなく、その次の瞬間には少年の重みを身体に感じているはずである。
下手をすれば、そのまま激突してしまい、逆に少年を弾き飛ばしてしまわないように、しっかりと掴んでそれを防がねばならない。
それが、ブラーサームが予想していた確かな未来予想図であった。
けれど、それなのに、そのはずなのに。
現状は、それとは大きく異なっていた。
なにしろ、助けたはずが、助けられているのだ。
少年を助けるために手を差し出したはずが、気づけば逆に手を差し伸べられている。
支えようと全力を尽くしたはずが、逆に手を引かれ、位置を保持されている。
気づけば、"包丁王"は、支えたはずの少年に、逆に支えられていた。
まるで、渓谷に架けられた吊り橋のように。
そして、声をかけられる。
「大丈夫か?」
「あ、ああ」
「いやぁ~ありがとう!おかげで助かったぜ!」
少年は笑顔だ。
つい先程、ほんの一瞬前には、彼は体調を崩していたはずなのに。
ブラーサームは、彼が、胃の内容物を派手にぶちまけるのを目撃した、その記憶も確かである……そのはずだ。
なのに、これは一体どういうことだ?




