第十七話(11~12の途中まで)
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(あ……)
(うああ……………)
(ああ……………………あれ?)
異世界人の少年、橋本八助は、確かに絶望のままに崩れ落ちた……そのはずだった。
しかし、崩れ落ちたはずの彼を待っていたのは、奇妙な感覚だった。
地面が、来ないのだ。
八助は、確かに膝の力が抜け、前のめりに倒れた。
その前提は、疑う余地がない。
そのまま行けば、重力に従い、彼は【北辺島】の固い海岸に熱烈なキスをすることになるはずだった。
ニュートンは、落ちるリンゴと一緒に月を見て、重力の法則を発見したというが、その例で言えば、八助は絶対にリンゴの側である。
間違っても月ではない。
だが、そんなリンゴのはずの彼は、なぜか未だに地面に直撃していなかったのだ。
おかしい。
一秒経過。
何も起きない。
二秒待つ。
さらに、三秒待ち、四秒待ち……混乱していた八助の思考と呼吸が完全に落ち着いた後になってさえ、何の変化も起きなかった。
八助は、空中に静止していた。
身体になんの力も入れていないのに、彼は宙に留まっていたのだ。
それだけではない。
「ん…なんだアレ?」
混乱から抜け出した異世界人の少年は、目の前に奇妙なものがあることに気づいた。
それまでも、ソレはそこにあり、八助と同じように静かにその場にたたずんでいた。
だが、混乱していた八助は、その存在に気づいていなかったのだ。
ソレは、まるで金剛石か水晶のように見えた。
小さく、丸く、透き通った光る粒子。
「まるで、バラ撒かれた宝石みたいな……いや、事故や事件の動画で、ガラスが割れたところで一時停止されたような……?」
ここでようやく彼は、それまで自分を襲っていた違和感の正体、事態の本質に気づいた。
まさか、そんなことが自分の身に起きるとは予想だにしていなかったが、間違いない、この状態は……
「時間が止まっている……!」
「正しくは、『一時的に感覚が加速され、【食卓界】の時間の流れから”切り離されて”いる』という状態になりますね」
「へぇ……また奇妙なことだな。まさか、俺に眠っていたチート能力が、いま目覚めたとか?」
「まさか。ちょっとアナタに興味が湧いたので、感覚を一時的に同調させているだけです。正式な契約をしていないので、もうしばらくすれば、自然と元の状態に戻りますよ」
「なるほどなぁ……って!」
そこで、八助は、大きくのけぞった。
自分が身体を自由に動かせていること自体にも驚きながらも、急激に自らを埋め尽くしてきた疑問を、思わず口に出す。
「あ、アンタ誰だ!」
「遅い。なんで、もっと早く聞かないのですか。待ちくたびれました」
「え……あ、いやスンマセン」
反射的に謝った八助は、そこで、さらなる驚きに襲われることとなった。
「誰もいない!『神の声』とか、そういうヤツか!」
「違います」
「となると透明人間か!」
「違いますってば!もっとよく見て下さい!」
「よく見ろ…?うーん、どこだ?」
あたりを見回す八助であったが、その視界には人っ子一人見当たらない。
なので、正直に所見を告げる。
「誰もいないぞ」
「そんなはずはありません!」
「そんなこと言われてもなー。いないものはいないんだが……」
「むー」
むくれているらしい、謎の声の主。
困惑する少年は、事態を打開するべく、そんな相手に向かって問いかけを試みた。
「なあ、せめてヒントだけでも貰えないか?俺、バカなんで、こういうの苦手なんだよ」
「……良いでしょう。その態度に免じて、その愚かさを私が赦しましょう」
「ああ、そうしてくれると助かる」
どうやら、下手に出たのが良かったらしい。
この奇妙な状態を解き明かすべく、八助は相手が次に発するであろう言葉に注意を傾ける。
いま起きている現象がなんなのかは不明だが、その謎の鍵は、確実にこの声の主が握っているはずだ。
だからこそ、その正体はぜひとも知っておく必要がある。
【食卓界】に来た時の異世界転移は、予想外の救いの手が現れてなんとかなったが、今回もそうなるとは限らない……!
バカにされようが見下されようが、構わない。
八助は、危険を未然に防ぐ手段となるのであれば、いくらでも下手に出るつもりであった。
早々に死にかけた経験を持つ異世界人の少年は、未知なる現象への警戒心が強かったのだ。
「……下です」
「……え?すまない。本当にすまないが、聞き逃してしまったみたいだ。悪いけど、もう一度話してもらえないだろうか?」
「下ですよ」
「下?下に一体なにが……」
だが、八助が慎重を期してとったその態度は、不幸なすれ違いを招くことになる。
次の瞬間、
「良いから下を向けって言ってるでしょうが!!!」
「う、ぐわぁ!」
橋本八助は、下から伸びてきた手に両耳を掴まれ、勢いよく下を向かされたのだ。
五本の指らしき鋭利な先端が、自らの耳を切り裂く痛み。
困惑し、警戒していた異世界人の少年を襲ったのは、そんな警戒など、ものともしない予想外の衝撃であった。




