第百二話(その2の20~21の途中まで)
彼女は、ナギサは語る。
その口調は、目とは反対にすごく穏やかだった。
「行くなら行っても良いけど、まずは私を見て。
アンタが行かなきゃいけないところがあるのは構わない。
私とこの子を置いていかなきゃいけないというのなら、見送るぐらいはするわ。
けれどーー」
そして、続けて告げるには……
「ーー今からアンタが何を置いていくのか、何を傷つけ犠牲にしていくのか、それだけははっきり見て、ちゃんと覚悟してから行きなさい。
アンタが、どんな道を選んでも構わない。
貧しかろうが金持ちだろうが、
だけど、忘れないで。
今、命を捨てるなら、アンタはこの子の声を聞かないで、その顔すら見ないまま、家を飛び出していくんだってことを。
この子を、一度も父親の顔を見たことが無い子供に、父無し子にする。
それをアンタが、他でもない【北海】のテツモリが自分の意志で選んだってことを。
そのことだけは、絶対に忘れないで。
アンタが自暴自棄になって捨てるのは、もう自分の命だけじゃないってことだけは、覚えておいて。
もう、アンタの選択にかかっているのは、アンタ一人の名誉や命だけじゃない。
これから何を選ぼうが、あるいは捨てようが、それはアンタと関わりのある全ての人間に関わってくるのよ。
あの暴れ者のガドの死が、アンタたちを大きく変えたように。
そして、ハシバミくんが…『北方』を平和にしたようにね。
それも、アンタの大好きな『義務』ってヤツなののよ」
「…ああ、分かったよ。
分かっていたさ、そんなことはよぉ……」
オレは振り返り、今度こそしっかりとナギサに向き合った。
誰よりも強く誠実な、オレの大事な新妻に。
ここまで言われた以上、返せる答えはただ一つだ。
義務を大切にする『北方』の地位ある者として、漁師として、兵士として、そして一人の男として。
言えることなんか、はなっからただ一つしかなかったんだ。
〈そして私は身構えていた。
それはもちろん、展開が嫌なものになったら、すぐに逃げ出すためだ〉
唾液を飲み込む。
私の緊張と期待に反応して、『心臓』が大きく動く。
そしてその鼓動と同時に、景色が流れた。
回想の映像が、急に大きく変化したのだ。
それはつまり、あの夫婦の対話に決着が着く、ということに他ならない。
過去が再び、動き出す。
※
それは流れ去る走馬灯。
順調に子育てして、老いていく夫婦。
穏やかな生活。
やっかみや批判が無かったわけではない。
有形無形の嫌がらせもあった。
けれど、この夫婦には敵よりも遥かに味方の方が多かったのだ。
平凡に一つ一つ物事を解決し、目の前の作業や仕事を片付けていく。
それは、絵に描いたような当たり前で凡庸な日々であり、ただ生きることだけを目的とした幸福な日常だった。
トラブルはあっても大事には至らず、あらゆる物事は、話し合いかさもなくば時間によって解決される。
退屈で平凡、物語に出来るような波瀾万丈など皆無な毎日……
解決出来なかった問題や後を引くしこりもないでもないが、そうした事柄もすぐに時間の流れに埋もれ、どうしようもない平穏に埋没していく……
それは一言で言えば、平和そのものな家族の生活だった。
あえて言うなら、どこにでもある、けれど同時に世界唯一の平凡で幸福な家庭の記憶。
本や漫画でしか触れたことがないそのカタチは、私の目には奇妙にも見えたが…しかしその尊さだけは、決して否定することは出来なかった。
ああ、そうだ。
あれこそは、種族の長としての責務を担ってきた、私の家族が決して持つことが出来なかったもの。
『家族の団欒』というやつなのだろう。
私は、どうしてもその光景に対して憧れとねたみを感じずにはいられなくて……
って…?
「あ、あれ?
ちょっと待ってください!」
驚きのあまり、私は思わず叫んでいた。
ちょうどそのタイミングで、本当に驚くべきことが起こっていたのだ。
なんと、あのナギサさんが、テツモリさんを送り出している!
〈どうした嬢ちゃん、何かおかしいことでもあったかい?〉
あまりにのんびりした言葉に対し、私は抗議した。
「何かおかしいことと言うか…何もかもがおかしいです!
さっきの深刻な雰囲気はなんだったんですか!」
〈さっきと言うが、あの場面から三十年以上経ってるんだがな。
いや、三十五年だったかな?〉
「そんなことはどうでも良いです!
お年寄りは、話をご自分の都合で飛ばし過ぎなんですよ!
もっと分かりやすく、テーマを一つに絞って下さい!
話の最初と最後で、登場人物の反応が真逆じゃないですか!
連載途中で路線転換した長編漫画ですか!?」
〈そんなこと言われてもなぁ…〉
それはまあ、二人とも子育てが終わり、人付き合いが必要な仕事も引退した後のことではあるのだけど……
ともかく、そうやって騒いでいる間にも時間は流れ、回想も進んでいた。




