3.月とビタミンカラー
月を見つけて、私は不意に思い出した。
一年くらい前のことだろうか。
会社に入ったばかりで、右も左もよく分からない時期に、新入社員向けの試験があった。
忙しいなかでの試験勉強に、気が滅入っていたころのこと。せっかくのデートだというのに、私は純平君に愚痴を言ってしまった。
「もうこんなのやめて、試験さぼっちゃおうかな」
それから、はっと気がついて、話す。
「そんなことをしたら、絶対後悔するよね。分かってるって。今は今しかないんだもん、ここで頑張るしかないよね」
すると、純平君はなぜか考え込んだ。
「今は今しかないっていうのは、ちょっと違う気がする」
「どういうこと?」
意外な言葉に、私は質問を投げかける。
「今は、通り過ぎてもまた見ることができるかもしれないよ。だから、後悔しないように頑張ればいいんじゃないかな」
「今を見ることができるかもって?」
「そうだね……」
彼は、急に空を見上げる。
「いいところに、月が」
そのときも、ちょうど丸く黄色に輝く月があったのだ。
こういうときに『月がきれいですね』的な展開にならないのが私たちである。
「えっと、満月で月齢合ってる?」
「合っているよ。地球から三十八万四千四百キロほど離れている衛星だよね」
まあ、こんな具合いの会話になる。
純平君は、そのあとこう続けた。
「僕たちとこの衛星との間には、一種のタイムマシンが存在すると言える」
「えっ、タイムマシン?」
さすがの私も身構えた。
以前に『タイムマシンを作るのは可能なのか』と、理論上の話をされてうんざりしたことがある。
ワームホールとかいうトンネルを作ってどうたらこうたら、とか。そのトンネルを作れるのか、そのなかはどうなっているのか、などなど延々と話が続いたのだ。
また聞かされる羽目にはなりたくない。
「ワームホールを使うのとは別だよ」
私の気持ちを察したらしく、純平君は話す。
「理論のほうじゃなくて、現実に今存在する自然のタイムマシンの話」
その方がよほど変な話じゃないの。
「そんなもの、ないでしょ。もしかして、架空の世界上の話とか」
「えーっと」
彼はゆっくりと説明を始める。こうなると、ひと通り聞いてあげるしかない。
「光の速さは、秒速でおよそ三十万キロメートルだよね。それから、光が一年で進む距離を、一光年って単位で表すよね」
「うん」
そこまでは理解できる。何回か聞いたことがある話なので。
「だから、たとえば今ここから一光年先の天体を見るとしたら、そこから一年前に発した光が届いていて、それを見ていることになる。つまり、その天体の今を見ているんじゃなくて一年前の、過去を見ているってこと」
彼は話し続ける。
「そこで、月だけど。地球から光が届くのに1.3秒ほどかかる。要するに、光があって今僕たちに見えているのは、1.3秒前の月なんだよ。それだけ過去を見ているんだ」
「それで、月までは自然とタイムマシンになるってこと?」
あの黄色い光は、ほんのわずか過去のものなのか。何となく分かった。
「そう。だから、もしも地球から遠く離れた惑星で、こっちがくっきり見えるほどの望遠鏡を向ける誰かがいたら、今この瞬間を、未来になってその星から見ることができる」
「誰かって誰?」
「地球外の知的生命体かな。もしかしたら、地球の人間がそんな遠いところに行っている可能性もあると思うけど、それだってやっぱり異星人ってことだよね」
「……まあ、そうだね」
何だかやっぱりおかしな話になっている。
結果的には、今やっていることは、未来に誰かが見ている可能性があるということ。だから、後悔しないようにしたほうがいいのでは、という話だった。
宇宙を巡るどこかの惑星に住む異星人に見られちゃうかもしれない、ってあまりも現実的じゃないんだけど。
***
今、同じような月を眺めることになり、記憶ははっきりと甦っている。
すごくばからしい気もするが。それでも、私は唐突に選んでしまう。
後悔しない方を。
いつの間にか、私は席を立っている。
もうすぐバスがやってくるのに、その場から歩き出す。隣りのおじいさんがちらりとこちらを見たので、適当に微笑んで。
私は、チラシ配布のアルバイトの人たちのところへまっすぐ進む。
「誰か、あと一人。あっ」
私の姿を見つけた女の子が駆け寄ってくる。
チラシをこちらへ差し出すのを、しっかり受け取った。
「お疲れさまでした」
つい声をかける。
「あ、ありがとうございます」
女の子が明るい声でお礼を言って、軽く頭を下げる。
「やった、終わりだ」
「ラッキー」
男の子二人も喜んでいる。
これで、いいんだよ。
私は未来のどこかの異星人に向かって、誇る気分でその場をあとにする。
先程までいたバス停に、黄緑色のバスが到着したのが見えた。
それでも、もう乗ろうという気持ちはなくなっていた。
何だか気分がいい。
人が喜ぶようなことができたからかな。自分の選択がいいと思えたからかな。
どこか達成感のようなものもある。
心にも体にも風が通ったような。
すっきりして、疲れもあまり感じなくなっていた。
私は、もらったチラシを見つめた。
三つに折りたたまれている紙片。
ちょっと開いてみる。
目に入ったのは、ビタミンカラーだった。
生フルーツゼリーの専門店が駅ビルのなかにオープンしたという。
駅ビルは反対側の南口にあるので、こんなお店ができるなんて、全く知らなかった。
おしゃれなグラスのようなカップのなかに、さまざまなフルーツが浮かんでいる。
オレンジ、みかん、レモンなどの柑橘類。それからパイン、マンゴー、パッションフルーツ、メロン、マスカット、キウイフルーツなど。ビタミンカラーの色合いがたくさん並んでいる。他にはいちごやブルーベリーもある。
透き通ったゼリーと新鮮そうなフルーツ。
その画像の透明感と色彩だけで、甘酸っぱい匂いと味がしそう。爽やかな心地がして、不思議と癒される。
今度、純平君とここへ行こう。
すぐにそう思った。
絶対に彼も好きそうだもの。思いがけず、いいお店を見つけたかも。
そのとき、鞄のなかのスマホから音が鳴った。
純平君からだった。
彼のことを思い出したりすると、ちょうど連絡が来る。
なかなか会えなくても、どこかでつながっている。
そう感じて、急にうきうきと浮き立つように嬉しくなった。
「皐月ちゃん?」
その声に「うん」と、返事をする。
「今、話しても大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「あの、今日はごめんね」
「ううん、そういうことだってあるよ。お互いさまだよ」
私の仕事が長引いて、会えなくなったことだってある。
「うん。それで突然なんだけど、あさっては一日空いたんだ」
「え?」
驚いた。私の休みの日にちょうど向こうも休みになるなんて、ここ数ヶ月なかった。
「本当に?」「偶然?」「すごいね」と、何度も互いに確かめ合う。
感情の波が高いってこういう感じかも。
「久しぶりに、ゆっくり会えるね」
「うん」
弾んだ声で返事をする。
「またあとで連絡するから。皐月ちゃんもプレゼントと行きたいところを考えておいてね」
「えっと、ひとつ提案が」
私は、すかさず話す。
「うちの近くで寄りたいところがあるんだけど」
「寄りたいところって?」
「秘密。楽しみにしてて」
私は笑ってビタミンカラーのチラシを鞄にしまう。
通話を終えて、月を眺める。
楽しみな予定が入ると、何だか先のことまで明るく考えられた。
今は純平君の部屋にあるやかんも、いつかきっと、二人で暮らす家に置くから。
それまで何とか頑張ろうと思える。
晴れ渡った夜空の下、私のなかに確かな力が湧いていた。
さあ、帰ろうか。
私は家路に向かって歩き始める。