1.雨の降らない帰り道
どうせなら、ざあざあと雨が降っていればいいのに、と思う。
改札口を出て、空を仰いだ。
雨は全く降っていない。
駅の周りの風景は、どこか霞んで見える。
疲労がたまっているせいかもしれない。それとも、気分的なものなのか。
私はスマホを取り出し、何度も見たはずの純平君からのメッセージを、もう一度眺める。
『ごめんね。今日は会えなくなった。また連絡する』
五月ももうすぐ終わり。
夜を迎えようとしている空には、どんよりとした雲が湧いている。空気は湿った感じがするけれど、雨にはならなさそう。
鞄のなかの折りたたみ傘が、一層重たく感じる。
私はスマホを鞄にしまい込むと、一枚のはがきを取り出した。
結婚式二次会の招待はがきが届いたのは、先週末だった。
その往復はがきを半分に切り、返信用の欠席に二重線を引いた。『ご出席』を『慶んで出席させていただきます』にして、更に『お二人の晴れ姿を楽しみにしています』と書き添えた。
今は、そのはがきをポストに入れるだけ。
***
先週土曜日に、由加ちゃんに会った。
大学の学科が一緒だった関係で、ずっと付き合いのある友人だ。少し前に連絡があって『久しぶりに会いたいね』と話し合い、『食事でも』となった。
それなのに、なぜか飲みに行くことになってしまった。
「皐月ちゃんはいいなあ。合う人が早く見つかって。ごっち君とずっと続いてるんだよね」
その言葉を私が適当に流さなかったのが、原因だ。
「そのごっち君、というの、そろそろ向後君に変えてくれない? 私も将来、名字が向後になるかもしれないんだし」
すると、由加ちゃんは目を瞠って、高い声を出した。
「ええっ、もうそんな話が出てるの?」
「えっ、いや、何というか、可能性の話だって」
慌てて取り繕おうとするが、遅かった。
純平君の名字は向後なのだが、友人からは「ごっち」と呼ばれていた。
「こうごっち」と呼んでいたのが、略されてそうなったとのこと。由加ちゃんもそれでずっと呼んでいたのだけど、このときはなぜか引っかかった。
この場で言うべきではなかったのに。
ゆとりのない日々を送っていると、余計に疲れを伴う事態が起こったりする。
「ええっ、いいな。いいな。私、もう本当に落ち込んじゃう」
「だから、可能性だって。そんな簡単にできることじゃないよ」
そう。結婚するってそんな簡単なことじゃない。
ところがそこで、由加ちゃんが彼氏と別れてしまった、と打ち明けてきたのだ。
「今回は、半年続かなかったんだよねぇ」
何か違うような気がして、こちらから別れを告げたという。それでも、由加ちゃんの心はすっきりしていないみたい。
「……そうなんだ」
何となく受け止めるような返事をしたつもりだった。
それなのに、由加ちゃんは一気に水を飲み干す。
「皐月ちゃんには分からないでしょ」
むっつりとした表情で言い出したので、飲みに付き合わざるを得なくなってしまった。
結局、飲み過ぎた由加ちゃんを家の近くまで送った。
女友だち同士で何をやっているのやら。
気まずいことがあっても、付き合いが長いので、何かしこりが残るわけではない。
それでもどこか気が塞いだまま、自宅にたどり着く。すると、ポストに往復はがきが届いていた。
こんなときに限って、結婚式二次会の招待とは、どうも神経に触る。
新郎も新婦も、大学時代のサークルの仲間だ。
新郎は一つ先輩だけど、新婦のみっちゃんは一つ下。みっちゃんは、同じ大学の短大生なので、私より二年早く就職している。
そうであっても、二十三歳で結婚できるのって、何だか羨ましい。
こちらは社会人二年生。
もうすぐ二十四歳になる。
招待はがきを見て、動揺してしまった理由は、他にもある。
偶然、二次会の会場が知っている場所と近かったのだ。
『草川駅下車 徒歩十五分、または新草川駅下車 徒歩十二分』
五年前、私が純平君と出会ったのは、その草川駅だった。
***
雨の降る気配はない。
北口を出て、右に曲がると古びたポストがある。
朱肉の色を水で薄めたような色合いで静かに佇んでいる。その開いた口に投函する。
出席のはがきは吸い込まれて、乾いた音を立てた。
私は引き返して、家までの道をいつものように徒歩で帰ればいいだけ。
けれど、電車を降りたときからすでに、歩く気分ではない。
私の足は、道を戻ることなく進み、そのままバス停へと向かう。
駅から自宅まで、徒歩二十分ほど。家の近くまで行くバスも出ている。黄緑色をした市営のバスだ。
学生のときは、一度も乗ったことがなかったけれども。
社会人になって大雨の日に数回乗った。今日も雨さえ降れば、乗るのに何の気兼ねもないのに。
ため息をつきながら、結局はバス停の椅子に腰かけた。
時折、視界の隅を車のライトがよぎる。
バスは行ってしまったばかりらしい。他に待っている人はいない。
私はスマホを取り出し、もう一度眺める。
『ごめんね。今日は会えなくなった。また連絡する』
あらかじめ、純平君から「もしかしたら、水曜日は会えなくなるかも」と連絡をもらっていた。
せっかくの残業のない日。どうにか彼の都合がついてほしかった。
私は社会人で、彼は大学院生。お互いに目まぐるしい毎日を送っている。
私が就職してからは、休日がほとんど合わなくなってしまった。二人の生活が違い過ぎて、このところ交差する時間はわずかだ。
なかなかゆっくり会えない。
昨年は、会社に入ったばかりで、覚えることがいっぱいだった。二年目に入って、少しはゆとりができるかと思っていたのに、実際にはそうではない。
新たな仕事は増えるし、一年目に比べて責任も持たされる。ストレスがかかることばかり。
三年目、四年目もこんな感じではないかと思うと、先が見えてこない。体だけでなく心も鉛が流し込まれたように重く感じる。
彼が就職するまでは、まだ長い。
うちの両親は、二人で暮らす資金も気にしているので、結婚までは程遠そう。純平君って頭はいいけど、外見からして頼りなさそうだしなあ。
とにかく少しでもお金を貯めよう。そうは思っていても、忙しい生活に消耗している。
今日のような残業のない日は珍しく、前から会う約束をしていたのに。
気分はひどく下がっている。
要するに。
雨は降らないけれど、家まで歩いて帰る気力がない。
私の誕生日プレゼントを見に行くという予定も、ちゃんと決めていたのになあ。




