拷問官
私が通っている学校では、最近、とある怪談が流行している。
拷問官と言って、夜道を一人で歩いていると背後で足音が聞こえてきて、振り向くとそこには作業着の男の人が立っている。その男の人と目が合ってしまうとどこかへ連れ去られて拷問をされて、最後には殺されてしまう。そんな話だ。
こんな話を聞いたせいか、普段は平気なはずの夜の路地裏も、今日は心なしか不穏な雰囲気が漂っている気がする。
光と言えば建物の隙間から覗く月明かりだけ。それも大した明るさではないから、辺りはほぼ真っ暗闇に近い。更に、今が夏のおかげか、空気も生暖かく体にまとわりついてきて気持ち悪い。本当にお化けの一体や二体くらいは出てきそうだ。
私だってこんな薄暗くて不気味な所、できれば通りたくない。でも仕方ない。何故なら私は受験生。暇さえあれば勉強しなきゃいけないし、勉強をするために色々な時間を削ったり短縮したりして、そっちに回さなければならない。それくらいしないと、今の私の偏差値では志望校に届かないのだ。だから塾から帰っても、しこたま勉強しなきゃいけない。この路地裏は、家への近道だ。ちょっと怖い話を聞いたからって、わざわざ遠回りして勉強時間を減らしたくはない。多少怖くても進まなきゃ。
吸い込まれそうな闇の中を、体を縮こまらせながらゆっくりと進んでいく。路地裏は、まとわりついてくる空気も相まって、まるでなにか、怪物の口の中みたいだった。
背後に何かいる気がして、しきりに振り向いてしまう。けれども、振り返ったところで何もいない。あるのは暗闇と静寂のみ。そのことに安堵しつつも、結局、背後が気になりっぱなしだった。
やがて、視界が開けて細やかな街灯の光と薄い雲のヴェールに覆われた月が輝く歩道に出る。
結局、何も出なかった。当たり前だ。いくら怖くても、所詮は誰かの作り話なのだから。拷問官なんて、本当にいるわけない。
「ふふっ」
思わず笑ってしまう。なんだか、少し馬鹿みたいだ。いもしないお化けに怖がって。腕時計で時間確認する。ちんたら歩いていたせいか、かなり時間をロスしてしまっている。早く帰らないと。
そう思い、少し駆け足で歩き出したその時――後ろで足音がした。
それはとても小さくて、普段なら聞き流しているような音だった。それでも今日は聞こえてしまった。何故だろうか。こんな夜中で周りにはほとんど人なんていないからだろうか。もしくは拷問官なんていう怪談を聞いてしまったからか。
思わず、足を止めて後ろを振り返ってしまう。街灯と月だけが明かりを照らす、そんな夜道。そこに立っていたのは、細身の男だった。
どこか、人形のような雰囲気を感じさせる人だった。くすんだ色の作業着を身にまとっていて、同色の帽子をかぶっている。
男は俯いている。そのせいで帽子の鍔で顔が少し隠れていて、よく見えない。それでも、その隙間から覗く灰色の髪や口元の皺を見るに、年齢は四十代後半位だろう。
夜道、一人、作業着、男。そんな単語が、私の頭の中でこだまする。いるわけない。拷問官なんているわけがない。だってあれは都市伝説だ。実際にあった話じゃない。それに、ずっと見ているのも失礼だ。
そう頭ではわかっていても、体が動かない。頭を前へ戻そうとしても、まるで何かの力で固定されているみたいに、視線は男に釘付けになってしまう。
蛇に睨まれた蛙みたいに固まっている私へ向かって、男は歩き始めた。
逃げ出したい。そんな言葉が頭を支配する。それなのに、私の足は全く動こうとしない。それどころか、瞬きひとつ、目線をそらすことすら出来ない。
ザッ、ザッ、男が一歩、また一歩と近づいてくる。
呼吸が荒くなり、ガタガタと体が震える。自分の心臓が発する鼓動が、痛いほど耳に届く。
男と私の距離が丁度一歩分の所で、彼はその歩みを止めた。そして、その俯いた顔をゆっくりと上げていく。
見てはいけない。脳が警告を発する。けれども私は石になったかの様に動けない。
男と目が合う。その瞳は、全く光が灯っていなくて、生気が抜け落ちていた。本当に生きているのか疑わしい。
そんな死体みたいな、人形みたいな目を見ていると、段々と視界が暗くなってくる。体から力が抜け、どさり、とアスファルトの地面に私の体が投げ出されて全身に鈍い痛みが走る。
薄くなっていく意識の中、その痛みだけが、鮮明に頭に焼き付いていた。
◇
鼻をつく錆びた鉄の様な臭いで目が覚めた。
ぼんやりとする頭で、周りを見渡してみる。一辺が三メートル程しか無さそうな小さな部屋。その中心で、私は椅子に座らされていた。家具らしきものは私が座っている椅子だけで、正面の入り口も扉が固く閉ざしている。天井からぶら下がった電球が部屋の中を薄暗く照らしていて、まるで牢屋の中みたいだった。
「……ここ、どこ?」
記憶が曖昧だ。なんでこんな所にいるんだっけ……。
椅子から立ち上がろうとして、お腹のあたり違和感を感じた。見てみると、胴体が鎖で椅子に括り付けられていた。鎖に手を伸ばそうとして、全身に鈍い痛みが走った。瞬間、記憶が激流の様に頭の中ら流れ出す。
そうだ。私は家に帰る途中で拷問官に会って、それで……。
心臓が早鐘を打つ。呼吸が浅くなって胸の中をやけつく様な焦燥感が支配する。
はやく、はやく逃げないと。じゃないとあいつが……!
鎖はキツく結ばれていて、焦りのせいも相まって全く解ける気配がない。
体が訴えてくる鈍痛が、警鐘を鳴らすみたいに全身を駆け巡っている。
コツコツと、遠くで足音が聞こえる。それは私のいる部屋に段々と近づいてくる。
私は必死に鎖を解こうとするけれど、ただジャランという音が虚しく部屋にこだまするだけだ。
足音が、私の部屋の前で止まる。背中に悪い寒気が走る。
「ひっ」
喉の奥から、そんな意味のない声が漏れる。
私はもっと力を込めるけれど、鎖の外れる気配はない。
扉が開く。
くすんだ色の作業着を着た男――拷問官が部屋に入ってくる。
拷問官は、ワゴンを押していた。小学校やレストランで、料理を運ぶときに使う、銀色のワゴン。だけどそこには煌びやかなお皿も湯気のたつ料理の姿もなくて、代わりにペンチ、錐なんかの工具類や何に使うか想像もつかない器具が置いてあった。
拷問官はそのガラクタの様に積み上げられた器具の中から一組の赤茶けた腕輪みたいなものを取り出す。
拷問官は私に近づくと、腕輪で私の両腕を肘掛けに固定した。
抵抗できなかった。心ではしようとしていたのに、こいつをみると、体が強張って動かなくなる。
拷問官は、またワゴンを漁り始める。
しばらくして、拷問官は錆びたペンチを取り出した。満足そうにそれを眺めてから、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
恐怖の檻が私を捕らえて逃さない。逃げたいのに、身体は動かない。動いてくれない。
拷問官が、肘掛けに拘束されている私の右手にペンチを向ける。親指の爪を挟んでーー、激痛が駆け抜けた。指を熱した針で貫かれたような痛みに喉の奥から絶叫が漏れ出る。
あまりの痛さにのたうち回りたくなるけど、それも叶わず私は駆け巡る苦しみを身体の内に収めることしかできない。
苦痛の発生源、右手に目を向ける。そこには、血を流し真っ赤に濡れた親指があった。
爪が、剥がされていた。一生懸命伸ばして、可愛いピンクのマニキュアを塗ってあった綺麗なネイル。それが根本から剥ぎ取られていた。
痛みと衝撃に、頭が真っ白になる。しかし拷問官はそんな私の様子なんか歯牙にも掛けず、いつの間にか取り出した小皿に私の爪を置くと、容赦なく人差し指の爪を剥がした。
何をされたか分かる分さっきよりはマシだけど、それでも転げ回りたいほどの激痛。拷問官が持っているペンチに、ついさっきまで私の人差し指にくっついていた爪が挟まれている。
頬を、生温いものが伝う。胸の中が色々なものでぐちゃぐちゃなっていた。嗚咽が漏れる。
なのに拷問官は手を止めてくれない。中指、薬指と一切の躊躇も見せずに爪をむしり取っていって、右手の爪がなくなると、左手と足にも魔の手は伸びた。
絶え間なく駆ける鋭い痛みの中、私はただ俯いて啜り泣くことしかできなかった。
やがて、私の手足から全ての爪が無くなって、ガチャガチャという音が聞こえてくる。
やっと終わった。これで、帰れるのかな。
朦朧とする頭でそんなことを考えていると、手に金槌を持った拷問官が近づいてくるのが視界の隅に入った。頭に冷や水をかけられたようだった。絶望が脳内を支配する。
ああ、そうだ。拷問官に会ったら、生きては帰れないんだった。
金槌が、右手の小指に振り下ろされる。
獣の咆哮のような悲鳴は、誰に届くこともなく、ただ狭い室内に悲しく響き渡るだけだった。
◇
血の匂いが漂う三メートル四方の狭い部屋。
そこには、二人の人間の姿があった。否、もしその光景を見ることができるものがいたなら、「二人」とは形容しなかっただろう。
それ程まで、少女の体は凄惨な状態にあった。
目が抉られ、鼓膜が破かれ、喉は潰され、四肢は切り落とされ、内臓までもが引き摺り出されている。
少女は、損壊の限りを尽くされていた。
とうに事きれたであろうその肉体は冷たくなっており、腐臭と排泄物の臭いを撒き散らしている。
唯一、綺麗なままの頬には涙が伝った跡があり、それが彼女が受けた仕打ちの残酷さを表していた。
室内に存在するもう一人の人間、拷問官は、少女が死んだことを確認すると、今まで使っていた器具たちをそばに置いてあるワゴンに積むと、おもむろに彼女に近づき、その軽くなった身体を無造作に持ち上げた。
部屋を出、一本道の廊下を歩き、最奥の扉へと向かう。
ノブを捻り、扉を開く。すると、先程の拷問部屋とは比にならないほどの腐臭が立ち込める。
死体があった。
肉が腐り落ち白い骨が覗くものから、比較的新しいものまで、多種多様な肉塊が、うず高く、乱雑に積み上げられていた。
拷問官はその肉の山に、少女の死体を投げ入れた。
扉を閉め、再び、拷問部屋の方へと足を進める。
その顔には一切の光が灯っておらず、一切の感情が描かれていなかった。