4 お客さんと、二日目のカレーライス
月曜日の午後三時半。
あと一時間半で帰宅時間。さっき、壮介から急遽部下のフォローをする必要ができたので遅くなる、夕食は食べて帰るという連絡が入った。もともと美里がお迎えの日なので、一応特に問題はない。頑張ってー、と返信して、無意識にそのまましばし考え込む。
「辻橋さんもこれ、里中さんからお土産です~。あれ、どうかしました?」
アルバイトの西方に声をかけられて、フリーズしていた美里は我に返った。西方は20代後半の新婚女性で、従前はバリバリ働いていたらしいが、「なんか疲れちゃって」結婚を機に前の職場を辞め、雑用や庶務などをするフルタイムのバイトとしてのんびりとこの会社に勤めている。ほぼ同世代だから、という訳でもないがなんとなく肌が合ったというべきか、立場の違いはあれど仲の良い友人の一人となりつつあった。
「んー、ダンナが今日はごはん要らないって言うからさ。余っちゃうカレー、どうしようかと思って。」
「カレーなんですか、今日。」
「そうー、二日目の。」
「めっちゃ美味しいやつじゃないですか。」
「今回はすね肉のかたまり買ってきて作ったから更に美味しいの。参ったな、冷凍庫はパンパンだしなぁ。あ、お土産ありがとう。里中くん、いただきます。」
「どうぞー」
遠くから、声だけで返事をする里中。目線はPCのままだ。美里はこの際このまま少し休憩することにして、よっこらせと立ち上がってコーヒーを淹れ、カスタードクリームが特徴の有名仙台銘菓を堪能した。似たようなお土産のお菓子は多々あれど、やはりこれは飛び抜けて美味い。
カレーなー、と引き続き頭を悩ませる。冷凍庫の中は、ちょうど先週大量に買い出しをしたこともあって隙間なくぎっちぎちで、三回くらい詰め直してやっとぴーぴー言われずに引き出しを閉めたくらいだ。水曜になったら料理するだろうから空くだろうが、そこまで取っておくにはちと時間がかかりすぎる。
続けてお土産を配っている西方は、マネージャーの加藤のところで雑談に捕まっていた。何の話題か、今日は主人は接待なんですよー、という声が聞こえてくる。ご主人も大変だなぁ。いやいや、なんかお話していて楽しい人らしくて、それなのに、会社のお金で美味しいもの食べられてうらやましいです。
聞くともなしに聞いているうちにふと思い付いて、美里は自席に戻ろうとする西方を呼び止めた。
「ね、西方さん、今晩空いてるなら、うち寄ってく?」
「えっ、いいんですか?行きます!」
間髪入れずに即答されて、かえってびっくりした。慌てて言い添える。
「あ、でも二日目カレーって最近、食中毒がどうこうとか言うし、娘も小さいから実のところゆっくり話せないし、お風呂とかあるから8時すぎには解散になるし……ほんとにいいの?私、パワハラしてない?」
マミートラックを順調に走行中とはいえ、こちらは一応勤め先の正社員だ。人を招くにはいろいろと悪条件でもある。気を使って、ということもあるだろうと、少し気弱になった。
「ないない、ないです。断りたかったら、先約があるとかもう料理してあってとか言いますって。辻橋さんのお料理、いつも美味しそうだな、食べてみたいなって思ってたんですよ。」
「ほんと?無理してない?」
「大丈夫です。それに、花菜ちゃんにも会ってみたいし。私、親戚の子とかあやすの上手ですよ?」
「……それはマジでありがたいけど。」
準備や片付けの間に遊んでいてくれるだけでも大助かりだ。
「じゃ、決まりです。わーい、辻橋さんのご飯~!」
あまりに嬉しそうにしてくれるのでむしろ申し訳ない気持ちになる。まぁ、彼女の家は牧野家と同方向だし、驚くほど寄り道ということはないだろう。カレーだけで済ますつもりだったが、さすがにそれだけというのもあまりに寂しい。何があったかな、と冷蔵庫や乾物棚の中身を思い出しつつ、美里は仕事に戻った。
***
五時に仕事を終え、六時過ぎに帰宅。花菜の冷凍ご飯のチンを除いたご飯の準備は後回しにして洗濯物を取り込み、大慌てで畳み、仕舞う。見える範囲に散乱しているおもちゃや書類などをざっと片付け、なんとか体裁を整えたらお迎えに飛び出す。
「花菜ただいまー」
「りー!」
2歳まであと三か月となった花菜は、だいぶ言葉が出てくるようになった。ぎゅっと抱き着いてくるのを抱きしめ返し、汚れ物を回収、先生に挨拶をして保育園を出て自転車に乗せた。6時35分すぎ。ここから駅までだいたい10分弱、というところだ。西方がきっちり6時に退社しているはずなので、運が良ければ7時前には駅に着くだろう。ちょうどいい時間だ。
「花菜、今日はね、ママのお友達が遊びに来るからね。駅までお迎えに行こうね。」
「おももち?」
「そうそう。」
話しながら、暗くなった道を駅までゆっくりと自転車で走る。幹線道路のほうが直線的だが、歩道が狭く車が多いため、子乗せ自転車で走るのは好きではなかった。裏道を選んで進む。赤信号で携帯を確認すると、19時4分着の電車に乗った、という連絡が来ていた。ちょっと待ちになるが、駅前のバスターミナルでバスを見ているだけでも花菜は喜ぶ。待つのがつらいというほどの時間ではなかった。
***
改札前でバスを5本見送ったところで西方を乗せた電車が見え、もう1本バスを見送って、人の波が終わりに近づいたところで西方が改札から姿を現した。
「にしかたさーん!こっち~」
「あ、辻橋さん。わざわざありがとうございますー、わー、ほんとにママだったんだ。」
「なにそれ?」
「仕事してるとあんまり感じないですよ。お話してると花菜ちゃんの話題が7割なので知識としては知ってますけど。」
「……めんどくさい社員でごめんね!」
そんなに話していたかな、とわが身を振り返って、むしろ7割は控えめに言ってくれたほうだとちょっと自己嫌悪に陥る。ほんと、ただの親バカだ。
「いえいえ、楽しいですよ、ほんとに。花菜ちゃん、こんにちは。」
フロントチャイルドシート、いわゆる前かご部分に乗っている花菜に、西方は声をかけた。花菜はひざ掛けを目の上まで上げて、西方と目を合わせないように隠れている。
「花菜ぁ……」
美里はちょっと機嫌を取るようにひざ掛けの隙間から花菜のほっぺをつついた。花菜はいやいやをして更に潜り込むが、口元がニヤニヤしている。たぶん、本気で嫌がっているわけではない。
「なんか、照れくさいみたい。ごめんね。」
言い訳と謝罪を口にしてから、美里は西方を促し、自転車を押して歩き始めた。警戒心が強いほうなのか、花菜は知らない人に対して最初のうちは固まる傾向にあった。たぶん、解凍されるまでに多少時間がかかる。
「徒歩10分くらいかな、不動産屋さん基準で。」
「だいぶ早歩きですよね、それ。」
「信号とかもあるから、実質15分までかからない、って感じ。」
「ちょっと急ぎましょうか。……いいですよね、東京って。駅からにぎやかな商店街が続いているのが普通で。」
「うーん、ないよりはいいかもしれないけど、こっちの商店街はチェーン店が多くてあまり使わないんだよね。別の駅前まで足を延ばしたほうが、道とかは狭いんだけどいい店が多いの。でも、魚屋さんがなくて、ちょっと遠くまで足を延ばしてる。あと、酒屋さんも。」
「……駅前にありませんでした?酒屋さん。結構大きいのが見えましたけど。」
「あそこは普通ぅ~の、定番品しか置いてないのー。最近スーパーでもわりといろいろあるのに。」
駄弁りながら歩く。途中で、西方の荷物をリアキャリアに置くよう促した。バッグのほかに、真新しい細長い紙袋。気を遣わせたかな、とちょっと思った。急遽決まったことなので手土産などは期待していなかったのだが、どこかで調達してきてくれたようだ。
そろそろとひざ掛けを下ろしてこちらをうかがう花菜に気づかないふりをしてしばらく大人の会話を続け、機を伺う。だいぶ緩んだところで、美里は花菜に声をかけた。
「花菜、西方さんがこんばんは、って。」
「こんばんは。」
合わせてくれる西方に心中ナイスアシスト、と声をかけつつ、自転車を止めて花菜の顔を覗きこむ。花菜は明後日の方を向いたまま、蚊のなくような声でこんっわ、と言った。
「おー、すごい!ちゃんと言えたねぇ!!」
大袈裟に褒め、花菜が少しだけにやけた。すかさず、西方が切り込んだ。
「わー、嬉しい!お手々に何持ってるの?おばちゃんに見せて?」
この人すごい。そう思って見ていると、花菜がそろそろと、しかし少し得意気に膝掛けを拡げてみせた。独身時代にコンビニの冬のキャンペーンでもらった、花菜がお気に入りのキャラクターのついた古ぼけた膝掛けだ。最近自転車の座席の中に入れっぱなしなので、人様にがっつりお見せするにはちょっと恥ずかしい。しかし、西方の反応は違った。
「えーすごい、可愛いね!花菜ちゃんのなの?花菜ちゃん、うさこちゃん好きなんだ?」
だんだん花菜の様子がほぐれてくる。西方の、子供をあやすの得意、というのは虚偽申告ではなかったらしい。美里だったらこういう場合、「うーん、それ見せられてもなぁ」的なことを考えてしまって、子供との間でしーんと沈黙が広がる。我が子相手でもそう相手は得意ではなく、保育参観などに行って他の子に囲まれるとどう相手すればいいか困ってしまう質だから、ただただ感心しながら自転車を押し続けた。
***
家について荷物と花菜を下ろし、花菜の相手をしてもらっている間にばたばたと準備をする。大人のごはんをチン、それぞれのカレーを冷蔵庫から出してたまにかき混ぜながら温め、その間にクラッカー、レバーペースト、クリームチーズ、カマンベールチーズをカウンターへ。ミックスナッツと枝付きでないレーズン。緑が足りないが、サラダ野菜がない。冷凍庫から枝豆を出してきて、パッケージに書かれている時間ぶんだけチンした。とりあえず体裁は整っただろうか。それから、やっぱり手土産として渡された赤ワインのための栓抜きの準備と、冷蔵庫からよく冷えた飲みかけの白ワイン、それからペアの武骨なグラス、それからつまみ用の取り皿。大人のカレーを寄そうのはあとからがいいだろう。
「どうぞー。」
おもちゃを片っ端から見せられていた西方に声をかけ、花菜の準備を手伝う。最近は自分で保管場所からお食事エプロンを持ってきてくれるようになったため、ひと手間減った。
「わぁ、帰って十分でこれだけ揃えられるんですか?ヤバいですよこれ。」
西方が大げさにほめてくれ、お世辞と分かりつつも美里はふふん、と得意げになった。
「ありがとう、でも前菜はほんとに出しただけだよ。あ、枝豆は味ついてないから、塩をかけてね。かんぱーい。」
「かんぱーい。……ほんと辻橋さん、お酒好きなんですねぇ。」
「へ?そう?」
「普通の家では、いきなり来た客にレバーペースト出せませんよ。カマンベールチーズも。買ってくる時間なかったですよね?」
「……えっと、常備してあるけど。」
「それが変です。」
遠慮なく食べながら、笑って突っ込む西方。花菜にはまだカレーが熱いので、美里もちょいちょいつまみつつ、カレーをぱたぱたとうちわで仰いでやる。ごはんは30分以上前に温めてあるから少々カレーが熱くても大丈夫ではあるが、それにしてもすぐにはできそうにないので、クラッカーを二枚渡したら瞬く間に食べてしまった。皿に手を伸ばしてんっ!んっ!と主張する花菜に、苦笑しながら西方が1枚取ってやった。
「将来、有望ですね。いい酒飲みになりそうじゃないですか。」
「……そうなの。ほかにも渋いの好きでね、おでんとか。」
「日本酒のアテに最高じゃないですか。」
「私なんかは子供の頃ってそんなにおでん、好きじゃなかったけどねぇ。酒飲むようになって美味しいなっていう感じで。」
「そういう人、多いですよ。」
花菜は三枚目もあっさり食べてしまった。仕方がないので枝豆をさやから出して、よく噛んで食べてね、と渡してみる。
「いい食べっぷりですねぇ。」
「食べてるねぇ……」
こっちも美味しかったらしい。やっぱり将来は酒飲みかなぁ、と、あきれ半分うれしさ半分で思う。一緒に飲めるのは楽しいだろう。しかし、さんざん飲んできた美里が言うのもアレなのだが、酒はそこそこのところでとどめておいたほうがいろいろと無難だぞ、と20年近く早いアドバイスを心中でつぶやいた。娘にはあれこれ失敗してほしくない。
ある程度冷えたカレーをごはんと混ぜて花菜の前に置き、美里も少し落ち着いて、つまみながら飲む。1000円程度のスーパー売りのワインだが、ソービニヨン・ブランのすっきりした飲み口は、食中酒として優秀だ。
「あぁ美味しい。こういうシンプルなつまみ、いいですね。私もやろっかな。でも、主人は家では飲まないんですよ。」
「一人で飲むときはもっと簡単だよ。ポテチとか、チョコレートとか。」
「そういうのでもいいんですね。」
「バーとか行くと、ウイスキーのロックに羊羹つまんでたりするよ。」
「え、意外な組み合わせ!」
酒飲みトークは切れるところがない。ところどころで花菜の相手をしつつ、頃合いを見てカレーを温めなおし、赤に切り替える。
「わたし、最初ごはんなしで行っちゃうけどどうする?」
「やってみます。」
具の多いところをすくって、小鉢に入れて渡す。シチュー扱いだ。
「あー、こうなるんだー。」
一口目を食べた西方が納得したようにつぶやいた。西方が持ってきたのは、会社の隣のビルの地下に入居している、ちょっと意識高い系のワイン中心の酒屋で店員に相談して選んだという、フルボディの赤。セラーに入ったワインはもちろん、枝付きレーズンやドライいちじく、直輸入のチーズなど、つまみを見ているだけで楽しい店だ。
「カレーが主張強いんで、これくらい重いほうがいいですって言われたんですよね。」
「うん、合うね。軽い赤だと風味がカレーで飛んじゃいそう。」
「そんで、カレーの具ってツマミだったんですね。」
「そう、ごはんも美味しいけど。位置づけはお刺身のヅケとかに近いかなぁ、個人的に。塩辛とか。」
「あぁ、なるほど。」
一日たってコクの増したカレー。すね肉はスプーンでちぎれるほどだが、肉のうまみは手放していない。伊達に2時間ことこと煮てないな、と自画自賛する。薄切りにした玉ねぎはよく炒めることでほとんど溶けてしまい、一方であと入れのニンジンとじゃがいもはほくほくで、自らの存在を主張する。ごはんとだけ食べるのはもったいない。
「あぁ、美味しかった。」
「ちょ、カレーライスも食べて行って?」
「あ、そうでした。でも、一杯は厳しいかもです。」
「私も。少なめにして、残りは冷蔵庫に入れとくよ、旦那が帰ってきてお茶漬けでも食べるかもだし。ごめんね、らっきょも福神漬けもないんだけど。」
「レーズンも美味しいですよね。」
「そうなの?」
少し皿の上に残ってはいたが、たぶん足りないから追加でいくらかレーズンを出す。西方の家では、子供のころ辛いカレーを食べるときには生卵かレーズンを入れていたのだという。
「ほんとだ。美味しい。」
「甘さがいいでしょ。」
えへへ、と笑う西方は、少し得意げだ。白をお互い1、2杯、それにフルボトルを半分程度。そんなに鯨飲したわけではないが、短時間で飲んだせいか、ちょっとふわっと酔っている。
カレーを食べ終わると、西方は途中からおもちゃで遊び始めた花菜のところに行って相手をしてくれた。花菜は最初のフリーズ具合が嘘のように、けらけらと笑っている。美里はカウンターごしにそれを見ながら、カレーのこびりついた鍋と格闘を始めた。
お読みいただきありがとうございました。
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ウェルシュ菌がどうこう、とか言いますが、やっぱり二日目カレーは好きです。(でも衛生管理には気を付けてくださいね!)
書いてる最中、ずーっと脳内がカレーになってしまい、書き上げて早々にカレーを作ってしまいました(笑
作者の最近の流行は、コンソメスープで角切りの豚肉を別途1時間ほど煮て作るポークカレーですが、牧野家は牛肉LOVERの壮介さんがいるので、牛すね肉を奮発してもらいました。
牛では、あとスジをことこと煮て作るほうも好きですが、スジ肉だとしょうゆベースで大根と煮るか、おでんに入れるのもいいよなぁ、となってしまい、なかなかカレーまでたどり着きません。笑