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私は科学者だ。世界一の天才だと呼ばれた男だ。今日も適当に研究してそれを発表した結果、止むことの無い雨のように、称賛が私の元へとふってきた。それこそ、土砂降りの大雨のように。
全知全能とまで言われた私は、しかしながら悩みを抱えていた。
世界一の天才にも解決できない悩みなどあるのだろうか。そう思う人も多いだろう。
だが、これは世界一の天才であるがゆえ、全知全能であるがゆえの問題である。
いや、悩みではないだろう。
これは事実。目の前で少しも揺らぐこと無く、ただ存在しているだけの事実。
私は、一つだけ、失ったものがある。
彼女だ。
彼女は私の唯一無二の存在だった。かけがえのない家族だった。失うはずのない、私の、私だけの、ずっと一緒にいるはずの妻だった。
しかし、タイムリープしたこの世界では、彼女は私の妻にはならなかった。
研究職をしていた他の男性の妻となった。
彼と彼女の結婚式には私も出た。
新郎新婦が入ってきた時、私は拍手した。新郎新婦は、大きなケーキに入刀していた。二人で同じ食事を取っていた。最後にキスをして退場していた。
彼女は幸せそうだった。これ以上無く幸せそうだった。
幸せそうな彼女を見ていると、これ以上無く、胸が痛んだ。
彼女の幸せは私の幸せだったはずなのに、その時の私は幸せではなかった。
私は泣いた。なぜか分からない。それでも泣いた。
彼女を失った反動は、予想の遥か上を通り越していた。私の胸の中に生まれた穴は、大きく、暗く、そして痛かった。
私はその日、初めて『失恋』を知った。
*
辛さを少しでも和らげるため、私は自分だけの組織を立ち上げた。研究のためだけに特化した最強の組織を。
そして、その組織の中で研究した。
研究研究研究研究研究。ただひたすらに、これでもかというほどに、私の感情すべてを埋める勢いで研究した。
危険な研究にも手を出した。
蔓延したら世界が滅ぶ危険性のあるウイルス。
たった一つで国を滅ぼせる爆弾。
そうしてできた研究成果を発表し、多くの人間が研究成果に意見した。
更に私は研究した。
新たな兵器に対抗するための兵器。
暗殺に特化した小型超消音狙撃銃。
一度使えば二度と正気に戻れなくなるドラッグ。
何十、何百と積み重ねられた研究を、時には発表し、時には裏社会に流し、表の世界でも裏の世界でも私は頂点に立った。
全世界の勢力が私を中心に回っていた。私が世界の全てになったと錯覚できるほど、どこもかしこも私の研究成果で満たされていた。
まだ足りなかった。
一つの国だけに研究成果を渡し独占させ、他国と戦争を起こさせた。
戦争によって得られる経済効果と戦争に使われる武器の開発などにより、科学技術が発達。
戦争が広がり、戦火に飲み込まれた国では奴隷制度が作られた。
私は奴隷を使って人体実験を進めた。
人体実験を繰り返すことで完成したドーピング剤や戦闘用人体強化アーマー、死んだ人間を動かし兵とする死兵、人間の脳を解析して作られた戦闘特化型人工知能。それらをすべて発表し世界に広め、私は新たな時代を切り開いた。
戦争は止まるところを知らず、私の元へ多くの批判が来ることも多々あったが、私の手中にある人間からの賞賛が圧倒的に多かったためそれほど気にならなかった。
私の研究成果は大いに評価されたのだ。
賛否両論、様々な意見が出たが、研究はこれまでに無いほど注目を浴びた。
私は科学者として、最高最強の功績を積み上げ続けていた。
……しかし、どんな栄光も賞賛も、私の心には届かなかった。
ひたすら研究して結果を出して発表して、また研究して。そして研究を終えるたび、ほんの僅かな虚しさだけが胸に残った。
研究することが科学者としての生きがいであるはずなのに、生きる目的であるはずなのに、どんなに成果を出そうと発表しようと、胸の痛みは取れず、むしろ痛みは広がって私を苦しめる。
私はただひたすらに、辛かった。
*
研究ばかりしていたある日、私の元に彼女が来た。
会いたいと言われた私は、まさかと思いすぐに会った。
タイムリープしてから積み重ねてきた苦しみの雲が、一気に晴れるようだった。
どうして今更彼女が来たのか分からなかったが、私の心は希望的観測で溢れていた。
だが、彼女は夫を連れてきていた。何がなんだか分からなかった。思い出したのか、と彼女に問いかけたが、返答はなかった。
すると、私に対して二人は攻撃的な言葉を投げつけてきた。
彼女は、私にこう言った。
危険な研究ばかりして、それでも科学者か。
彼女の夫は、私にこう言った。
自分の妻が危険にさらされる気持ちを、お前は理解できるのか。その気持が理解できないのなら、苦しみが分からないのなら、お前に科学者を名乗る資格は無い。
私は反論しようとした。反論したかった。
しかし、できなかった。
彼女の目が、親の仇を見るように私を睨む目が、それを許さなかった。許してくれなかった。
その時私の中で、過去の彼女が、走馬灯でも見ているかのように溢れてきた。
私の告白を了承してくれた彼女。
私の服を選んでくれた彼女。
涙を拭いてあげたら、キスをしてくれた彼女。
私の隣で眠る彼女。
結婚しようと言ったら、涙を流してうなずいてくれた彼女。
子供ができて嬉しそうにしていた彼女。
私は、床に膝をついていた。目から涙が流れ出た。
何が間違っていたのか分からなかった私は、自分の行動が、してきたことすべてが間違っていることにようやく気づいた。
私はすべて間違っていたのだ。何もかも間違っていたのだ。
世界一の天才だった私は、どこかで慢心していた。世界一であることに浸っていた。私を支えてくれていた彼女の優しさによりかかっていた。
彼女が必ずしも自分の妻になるとは限らない。
そんなことは彼女と出会う前から知っていたことなのに、私はタイムリープした後の二度目の人生でさえ、理解できていなかった。知っていたことであるのに、本当の意味で理解しようとしなかった。
幸せはずっと続くものだと錯覚していた。幸せを続けるための努力をしなかった。何が起きても適当に研究すればどうにかなると、心のどこかで思っていた。甘んじていた。
だがそんなことは無かった。最初から今この瞬間までずっと、そんな可能性は存在しなかったのだ。
私は、初めての実験に失敗したのだ……。
許されることではない。この失敗は、絶対に許されるべきではない。
謝って済むものでもない。そんなことは分かっている。
それでも、私は謝るべきだと思った。謝らなければいけなかった。
謝って済む話ではないのだとしても、もう幸せは戻らないのだとしても。それでも謝りたかった。
私は立ち上がる。
立ち上がり、少しの間目を閉じた。
そして数秒後、目を開く。
私が犯した大きすぎる罪に、そして一度は幸せにできた彼女に、私は頭を下げようとした。
突然、鳴り響く銃声。
私の目に、彼女と、彼女の夫が倒れるのが映った。音を立てて倒れるのが見えた。
あまりに唐突な出来事に、私は動くことができなかった。
銃を撃ったのは、私が立ち上げた組織の人間だった。
その人間は、私にこう言った。
大丈夫ですか! 安心してください、敵は倒しました!
敵を、倒した。心の中で復唱されるその言葉は、重く、深く、私の中に染み込んだ。
その時、私は初めて『罪』を知った。
私が犯した罪の重さを。私が受ける罰の苦しみを。
目の前に、妻がいた。
もう動かない、妻がいた。
いや、この世界では彼女は人妻だ。
私の妻ではない。私以外の誰かの、かけがえのない妻だ。
そして、もう彼女は動かない。一生動かない。
笑うことも、涙を流すことも、キスをすることも、寝ることも、子供を生むことも、無い。
私が世界一の天才であっても、彼女が動くことはもう一生無い。
もう一生、言葉を発することは、無い。
人妻の、沈黙。
私は、溢れ出る感情が何なのか、全く分からなかった。
悲しみが、苦しみが、虚しさが、悔しさが、すべてが混ざったこの感情を一体どうすれば良いのか、分からなかった。
信じたくなかった。
目の前の光景を、愛したはずの妻が永遠の沈黙を貫く光景を全部、否定したかった。
だが、現実は何も変わらなかった。
どうすることも叶わなかった。
広がって、広がって、広がりきっていた私と彼女の世界が、何もかも潰され閉鎖され、真っ暗闇に包まれてしまった。
暗闇は、ウイルスを使っても、爆弾を使っても、取り除けない。迫る暗闇が、私の心を引き裂くのに時間は要さない。
我慢の限界だった。
私は叫んだ。濁音だらけの、混沌を極めた感情がこもった叫びを上げた。
声を上げて、それでも感情は溢れ。涙を流し、それでも暗闇は晴れず。
死んだ彼女は戻ってこない。そんなことは分かっている。紙に書いて証明するまでもない。
分かっているのに、私には全く理解できなかった。
証明できなかった。したくなかった。
理解しようとしても、心がそれを跳ね返し、受け入れることを断固拒絶した。
悔しかった。悲しかった。
愛する者がいなくなることが、こんなにも悲しいことだと、私は知らなかった。
涙を流して、流して、数日間、彼女の居ない苦しみで泣き続けた。
どうすればいいのかなんて、もう分からなかった。
*
私は科学者だ。世界一の天才だと呼ばれた男だ。
だが、世界一の天才も、涙を流す。
今はやっと泣き終えたところで、鏡を見れば目は赤くなっている。これでは科学者の威厳も何も無い。
数日の時間を要して私は知った。
事実は変わらないということを知った。
この世界で、彼女はもう二度と戻ってこないことを知った。
心の底から、理解した。
真実とは時に、嘘より鋭い刃となる。
世界一の科学者である私も気を抜けば泣いてしまいそうなほどに、真実は辛い。真実と向き合うことはとても苦しい。
だが、私はもう一つ知った。
変わらない事実と同時に、変えることのできる運命も存在することを知った。
彼女の願いをまだ叶えていないことを、私は知った。
私は、私のするべき最後の研究を知ったのだ。
研究内容は、愛。
すべてを取り戻すことができるのか、の研究だ。
世界一の天才である私にも、今回の研究は難しいかもしれない。
また失敗するかもしれない。よりひどいものになるかもしれない。
こんな研究は最初から不可能で、意味の無いものなのかもしれない。
しかしながら、私は挑む。
もう一度、彼女の笑顔が見たい。赤くなりながらも優しく微笑む彼女の姿が見たい。彼女に研究の成果を聞かせてやりたい。
だから私は、彼女がそう願ったようにまた行うのだ。
終わることのない眠りについている彼女の幸せを、次こそは絶対に叶えるために。
タイムマシンを起動する音が、彼女のいないこの世界に響いた。